したい。してみたい。したかった。してください…藤原伊織「雪が降る」 

したい。してみたい。したかった。してください…藤原伊織「雪が降る」 

きょう紹介するのは藤原伊織氏の短編小説「雪が降る」です。恋愛小説であり、企業小説であるという藤原作品の持ち味がふんだんに溢れた佳篇です。主人公に宛てて届かなかったメールの文面に胸が熱くなります(2024.8.24) 

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ジャンル分け不能な小説ばかり

わたしは昔から藤原伊織氏の小説がとても好きで、過去に何度も記事にしています。 

過去記事でも触れたとおり、広告会社最大手の電通社員をしながら執筆した「テロリストのパラソル」が江戸川乱歩賞直木賞をダブル受賞。執筆動機がギャンブルで嵩んだ借金返済に充てるため…という方で、 著者自身が破天荒なサラリーマンだったのでしょう。彼の書く小説の主人公はみな”無頼派”の雰囲気を醸しています。

わたしが一番好きな「てのひらの闇」(と続篇の「名残り火」)は、基本的にミステリー小説にもかかわらず、随所に企業小説の趣があって、でも一番の魅力は会社の部下との恋愛要素という、ジャンル分けが難しい作品となっています。 

「てのひらの闇」(文春文庫)
「名残り火」(文春文庫)

日本経済が最悪の時代

きょう紹介する「雪が降る」は、同名の短編集「雪が降る」(講談社文庫、現在は角川文庫)の一篇です。初出は「週刊現代」1998年3月号。 

わざわざ初出の時期を書くのは、1999年10月に刊行された「てのひらの闇」(文春文庫)の原型となった作品であるということが第1の理由。 

そして第2の理由は、「てのひらの闇」にも言えることですが、1997年秋の北海道拓殖銀行や山一證券の破綻に端を発した金融システム危機から、日本経済がどん底に転がっていく時代背景を抜きに語れない小説だからです。 

銀行は不良債権処理に追われ、融資の貸し剥しに奔走。企業はバタバタと倒産し、生き残った企業もリストラを相次ぐ……。そういう時代背景を理解していただく必要があります。 

「雪が降る」という題のメール

前置きはこのぐらいにして「雪が降る」です。 

主人公の志村秀明は会社で始業開始を待っていた。徹夜マージャンで帰宅せずに自分のデスクで仮眠したからだ。トイレで歯みがきと髭剃りをしていると、同期の高橋一幸に声をかけられた。リストラの第2弾があるという噂が流れていると聞かされた。 

「ふうん、新年早々からまた虐殺かよ。おっかねえな」 

「あんまり、おっかないって反応じゃないぞ。子どもがいなきゃ、そういうところが気楽でいいよな」 

同期入社で切磋琢磨した仲とはいえ、高橋はいまや出世頭でマーケティング本部次長。志村は本部にぶらさがる販促課の課長。同期でもそれだけの差がついていた。 

志村が席についてパソコンを起動すると、見慣れないメールが1通届いていた。メールのタイトルは「雪が降る」 

メールを開くと、こんな文面だった。 

母を殺したのは、志村さん、あなたですね。なお、父は幸か不幸かこの事実を知りません。念のため。 

送り主は、高橋一幸の息子だった。 

志村と高橋は若いころから仕事の上でも競い合う仲だったが、恋愛においても激しく競った。同じく同期入社の松浦陽子をめぐり、ふたりは殴り合いの喧嘩までした。が、志村は大阪に転勤、最終的に陽子が選んだ相手は高橋だった。しかし、陽子は4年前、雪の日に高速道路でスリップ事故を起こして死亡した。 

『ランニング・オン・エンプティー』

志村は高橋の息子と銀座で落ち合った。高校3年で大学受験を控えた少年は会うなりこう訊ねた。 

「ところでお訊きしたいんですが、『ランニング・オン・エンプティー』って、何を指すんですか」 

志村は少年に逆に訊ねた。 

「その英語、きみなら、どう訳すだろう」 

「『空白の疾走』。それとも、『虚無を駆ける』、かな」 

志村は思わず口もとがゆるむのを感じた。「きみのお母さんも、まったくおなじことをいってたよ。あの映画の邦題はほんとうにひどいって」 

「映画の邦題?」 

「そう。そのタイトルが『旅立ちの時』って邦題に変わった。私は、通俗的で平凡だけど内容をうまく伝えているとは思った」 

そうです。先日紹介したばかりのアメリカ映画「旅立ちの時」のことです(以下、「旅立ちの時」未見の方は、先に下の記事を読んだほうがいいかもしれません) 

志村は少年に対して、4年前の雪の日、横浜の映画館で「旅立ちの時」を観た時に陽子と20年ぶりに再会したことを打ち明けた。 

映画館で20年ぶりの再会

横浜支店で販促関係の説明会の後、リバー・フェニックス追悼の看板が目に入り、志村は「旅立ちの時」を観た。エンドロールが流れて廊下に出ると、ソファーで泣いている女性がいた。陽子だった。 

「なんで泣く必要があるんだい」 

「だって、母親のアニーがリバー・フェニックスとピアノを連弾するシーン。アニーが父親と十五年ぶりに会って話すシーン。あそこで泣かない人は人間じゃない」 

「じゃあ、おれは人間じゃないかもしれない」 

20年ぶりの再会はもっぱら映画の話題だった。ふたりとも相当酔い、雪は降りしきり、車を運転して帰るのが困難になった陽子は、志村を誘ってホテルに部屋を借りた。 

いいじゃない。陽子がいった。あなたは理性的な人なんだから。それにほかを当たっても、この雪じゃきっとどこも満員でしょう。 

過去に向かう思い

志村が目をさますと、横に陽子がいた。全裸だった。 

陽子の寝顔をじっと眺めた。二十年の歳月、それは彼女にわずかな痕跡しかもたらしてはいなかった。奇跡を見るような思いがあった。あのころ、夏の陽射しで濃い影をつくった長い睫毛。それはそっくりそのままだった。唇をわずかに開き、その表情はあどけなくさえみえる。目尻にいくらか細い皺が掘りこまれてはいるが、それはしっとりした落ちつきさえ与えたようにも思える。いつかの妖精がそこにいた。 

志村も全裸になって陽子のそばに体を横たえた。 

急速にふくれあがる欲望と闘いつつ、静かにじっと待った。懸命に耐えているうち、めぐってくる思いがあった。それは過去に向かう思いだった。あのころ、どうしてこんなふうにならなかったのだろう。 たぶん、なにかひとつ、きっかけがあればよかったのだ。たとえば、昨夜の雪みたいなただひとつのきっかけさえあれば……。それさえあれば、あのころこういうふうになっていたかもしれない。おれには、まったく別の人生があったかもしれない。

その思いは後悔に似ていた。

けれども、志村は何もしないまま眠気に誘われ、ふたたび目を開けると、自分を覗き込む陽子の顔が目に入った。 

おはよう、と彼女は小さな声をあげた。それからすぐ彼女は志村の肩に頭をおとし、頬をきつくおしつけてきた。 

陽子はすこし泣いた。 

声もあげず泣くその涙が、志村の肩に流れる。ひっそりと鎖骨のあたりをぬらしていく。そのとき志村は、欲望が急速に収縮していくのを知った。それ以外、なにも感じはしなかった。ただこうしているだけでいい。これだけでいい。その思いだけで、やすらいでいた。 

志村は自分に問いかけた。おれはいままで、こんなにやすらいだことがあっただろうか。ほとんど切ない問いだった。 

次の雪の日に会う約束

ホテルを出ると、陽子は志村に言った。 

「私、さっき決めたの」
「今度もし、あなたに会えたら」
「もし、あなたに会えたら、そのときは高橋からはなれて、あなたのところにいくの。おしかけるの。いい?」
「あなたに会うのは、この次、雪が降ったとき、そう決めたの」

陽子は次の雪の日、同じホテルのバーで会いましょうと言った。 

私は必ずいるわよ。でも、あなたがくるかどうかわからない。アダモの唄みたいにならないよう祈るしかないわね。雪は降る。あなたは来ないって……。
(略)
「おれはくるさ」とだけ志村はいった。
陽子は答えなかった。ただ微笑をうかべた。

しかし、次の雪の日。志村はバーでずっと待ち続けても、陽子は訪れなかった。翌日、出社してはじめて、陽子が前夜に高速道で事故死したことを知った。 

陽子の未送信のメール

4年前の経緯を、志村は少年に包み隠さず説明した。「私は話すべきでないことまで話したかもしれない。もしそうなら、きみに謝りたい」 

少年も「『殺した』という言葉をメールでつかった」ことを詫び、「あなたに会う必要がありました」と続けた。「母がパソコンをやっていたのは、ご存知ですか」 

少年は母親のパソコンをいじっていたところ、未送信のメールを1通みつけたと言い、プリントアウトしたものを志村に渡した。未送信のメールのタイトルは「雪が降る」だった。 

志村さん。大好きよ。大好きっていえるから、パソコンなんか知らないあなたに、発信もしないこんなメールを書いているのかもしれません。バカみたいでしょ。
志村さん。このまえは、あなたと最初からいっしょに『ランニング・オン・エンプティー』を見たかった。そしてきょう、もし会えれば最高のセックスをしたい。してみたい。したかった。してください。

恋愛要素の部分はほぼ明かしてしまいました。すみません。でも、あとがきの解説で作家の黒川博行氏も、このメールの文面を引用して、 

ここがいい。めちゃくちゃいい。
ビデオショップでリバー・フェニックスの『ランニング・オン・エンプティー』をレンタルしよう。

と書いています。このメールの文面を抜きに志村と陽子のせつない愛を伝えるのが難しく、禁を破って踏み込み過ぎたことを許してください。 

紹介では割愛しましたが、志村と高橋一幸が一緒に仕事で見せる呼吸のあったところなど、ふたりの友情と企業小説の部分も読ませます。でも、やっぱり自分にとって「雪が降る」は出色の恋愛小説です。 

「紅の樹」もおすすめ

短編集「雪が降る」には「紅の樹」という短編も収められています。初出は「小説現代」1998年1月号。黒川氏は解説でこう書いています。 

正真正銘のハードボイルド。『てのひらの闇』はこの作品をもとにして書かれたのだろう。ストイックな主人公。彼を陰で支える若頭。儚げな未亡人。淡い恋心。堀江の塗装工の日々に圧倒的なリアリティーがある。イオリンは仕事の描写もゆるがせにしない。
藤原伊織の仁侠を堪能した。

「紅の樹」と「雪が降る」を合体させ、程よくブレンドして出来上がったのが、「てのひらの闇」であり、藤原氏の遺作となった「名残り火」だろうと思います。 

ぜひ手に取って読んでみてください。 

(しみずのぼる) 

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