きょうは藤原伊織氏の「てのひらの闇」を紹介します。ジャンルで言えば推理小説、ミステリーなのでしょうが、ハードボイルドであり、企業小説でもあり、ビカレスク(悪漢)小説でもあり、恋愛要素もありで、ひとつの型にはめるのが困難な、でも読後に清々しい痛快さを堪能できた喜びに震える小説です(2023.12.1)
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運動も美容もリフレッシュも全部コミコミchocozap再読率で五指に入る愛読書
ちょっと前文で柄にもなく激賞してしまいましたが、おそらく私の再読率でベスト5に入るだろうと思うのが「てのひらの闇」です。
あらすじをウィキペディアから紹介しましょう。
会社の早期退職勧奨を受け入れ、退職間近の飲料メーカー宣伝部課長の堀江雅之はある日、会長の石崎に呼び出される。ビデオ撮影が趣味だという石崎が朝の散歩中に偶然撮影したという人命救助の瞬間の映像を見せられ、この映像をCMにできないかと相談される。
だが堀江は、映像がCG合成であることを見抜き、会長に進言する。「感謝する」、そう謎の言葉を残し、会長はその日の夜に自宅で首を吊って死んだ。遺書には社の業績不振の責任を取る旨が記されていた。
会長が自殺したのは、自分が映像の秘密を暴いたせいなのだろうかと堀江は自問する。会長室のテープも、堀江が内密にダビングしておいたテープもなくなっており、堀江は自殺の真の原因が自分の知らない悪意によるものではと直感する。
「え? こんなに紹介してしまっていいの?」と思うかもしれません。
よいのです。なぜなら、本書の魅力は、本筋(会長の自殺の動機は何か、CGテープに隠された「悪意」の根源となる秘密は何か)以上に、それ以外の細部に多く宿っているからです。
電通出身の直木賞作家
その前に筆者について書いておきましょう。
藤原伊織氏は、広告会社最大手の「電通」に勤めるかたわら文筆活動を続け、1995年に発表した「テロリストのパラソル」で江戸川乱歩賞と直木賞をダブル受賞。2002年に電通を退社して専業作家になるも、2007年に食道がんのため59歳で死去ーーという方です。
「テロリストのパラソル」執筆の動機がギャンブルの借金返済だったという逸話からしても、サラリーマンとしては破天荒な方だったのだろうと想像します。
そんな電通マンとしての知識と自身の破天荒ぶりが、「てのひらの闇」の主人公である堀江雅之には見事に投影しているのです。
CM制作と営業の一家言
飲料メーカー「タイケイ飲料」で制作担当課長の堀江は、会社の業績不振から早期退職勧奨をあっさりと受け入れ、残り数週間で20年続けたサラリーマン生活を終える身。すでに仕事から外されている職場に出向くと、部下の大原真理が近づいてきた。
「お節介な報告があるんです。おもしろいニュースですよ。真田部長、どうやら課長に白旗あげなきゃいけないみたい」
タイケイ飲料が発売したスポーツ飲料のCM制作をめぐり、堀江の「助言」でオンエアされたCMが好評で、商品の売れ行きも絶好調だという。
テレビCMでは、無名の黒人ボクサーを起用している。スタート時からオンエア中の新発売用「鼓動編」は、試合まえ、リングのコーナーで空を見つめるボクサーの緊張した横顔だけがある。背景も黒味(くろみ)だけで、効果音のSEにも心臓の鼓動音しかつかっていない。次回使用予定の「呼吸編」は何ラウンドか終わったあとのインターバル、目尻から血を流している正面の顔。これは荒い呼吸音だけ。第三バージョン「喝采編」は、試合後、喝采のうねりのなかに浮かぶ歓喜の表情。それぞれ最後には商品カットに重ね、「勇気の価値。タイケイ飲料・アンシック」とスーパーが入る。
さすが電通マン! こんなカッコいいCM、実際に観てみたかった……。
このシリーズには、音楽、ナレーションをいっさい使用していない。これは先月のMA、スタジオでの最終編集の際、私が「この種の映像なら音楽もサウンドロゴも、じゃまっけなんじゃないかな」そうつぶやいた結果だった。そのとき、プランナー、ディレクターともに唖然として私を見た。立ちあっていた大原も同様だった。当然の反応ではある。音楽はともかく、CMで音声から商品名をとっぱらうといいだすクライアントは、この国にまずない。
予想してはいたが、部内の試写ではかなり反発があった。とくに宣伝部長の真田郁夫がそうだった。役員会の了承を得たコンテを私が勝手に改変したのは言語道断だというのである。くわえて、サウンドロゴをつかわないのは非常識にすぎるともいった。私はずっと口をつぐんだままだった。
この一件が、会社の早期退職優遇方針を受けて、部長が一番先に堀江に声をかける引き金となった。
「課長、どうしてあんなにかんたんに肩たたきに応じたんですか。ちょっと軽すぎるような気がするけど」
「でも、残された私たちのこと考えてくださいよ。あんなボンクラのおいぼればっか、めんどうみなきゃいけないんだから。それも揃いにそろってエロオヤジ」
電通マンらしい営業に関する一家言も出てきます。
リストラを主導する経営企画担当取締役の柿島隆志は、堀江とは支店営業で机を並べ、社内で堀江の素性(父親が暴力団の組長)を唯一知る存在。
その支店営業時代の柿島とのエピソードで「営業の基本」が出てきます。
堀江くん、ズボンのポケットには手をいれないようにしたほうがいいですよ。私はいぶかしげな表情を返したと思う。すると柿島は笑ってつづけた。つまらない話のようだけど、ポケットに手をつっこんでると、いつもくだけた態度でいる人間だとの印象を商談相手に与えかねない。この業界じゃ、調子がいいだけの人物だと思われちゃおしまいなんです。いつどこでもポケットに手をいれてちゃいけないってのは、営業の基本です。
こんなふうに「てのひらの闇」は、企業小説の側面を持っています。細部に魅力が宿っているのです。
これは馳星周か?
ビカレスクの部分も紹介しましょう。
前夜に深酒で雨に濡れ、40度近い高熱を出しながら、謎の自殺を遂げた会長の通夜に出て、前夜に赴いたバーに立ち寄り、通夜から後をつけてきた大原と一緒に店を出る。
「気が変わった。さっきの店にもどってくれ」
「どういうこと?」
「理由は聞かんでいい。半時間ほど、さっきのふたりと世間話でもしとくんだ。それと、表でなにがあっても、きょうのところはそいつに無関心でいろ。ついでに警察だけは呼ばんでほしい」
「なにがいいたいのか、さっぱりわかんないんですけど」
ふたたび通りに目をやってから、彼女に視線をもどした。あまり時間はないかもしれない。
「もどれ」短くいった。
大原をバーに戻すと、オールバックの男3人が堀江を取り囲んだ。堀江は走り、工事現場から木の杭を引き抜いた。
一歩、足を送りだしたとき、むかしの動きと体さばきがもどっていた。内ポケットに手をいれようとしたひとりの胴をないだ。杭の重量に手応えがあった。その男の姿が視界から消えるまえ、脇をすり抜け、次の男にも正面から腹に撃ちこんだ。衝撃の反動で切りかえし、三人めは二の腕。鈍い音が鳴った。骨折の音だ。
(略)
「おまえら、どこのもんだ。自己紹介してもらおうか」
こちらに向けたその目に驚愕がうかんでいる。
「あ、あんた、どういう人間なんだ」
「さっき、おまえらがいったサラリーマンだよ。知ってるから声をかけてきたんだろうが。それに、おまえ、国語にちょっと問題あるな。どっちが質問されてるのか、わかってんのか。おれがおまえに、どこのだれだと訊いてんだ」
「し、知らねえよ」
「ふうん、けど、そのうち思いだしたくなってくるよ」
どうです? カッコいいでしょう? もうすこし続けましょう。
「なあ、肋って何本あるか、おまえ、知ってるか。これからそいつが全部、へし折れる。その次は背骨の番だ。いっとくが、おれは適当な話をするのが嫌いなんだ。後悔すんなよ」
もう一度、肘を撃ちこんだ。ポイントは力よりツボにある。男の身体が電流をとおされた蛙みたいにビクンとはねた。てのひらに絶叫の気配が伝わってくる。白目に涙が盛りあがった。
かすかな声がもれてきた。
「源修会……。おれたち、源修会のもんだ」
「本家筋か組のせこい傘か知らないが、そんなものを訊いてんじゃない。それくらい、バッジを見りゃわかる。どうせ、隅っこであぶくみたいなシノギやってんだろ。いまはおまえが盃もらった親父の話をしてんだよ、キクムラ」
どうです? 肋骨をもう一本折られて菊村は勝沼組の組員であることを吐きますが、勝沼組が会長自殺の引き金となったCGテープに関係しているらしい…ということで、物語の後半は、この破天荒なサラリーマンが勝沼組に単身乗り込んでいきます。もうこのあたりからは「これは馳星周か?」という展開です。
春の陽射しのにおい…
もうひとつ、恋愛の要素も紹介しておきましょう。もちろん相手は大原真理です。
菊村らとの乱闘後、高熱で意識を失った堀江は大原の介添えで自宅のマンションに運び込まれる。ベッドにからだを横たえる堀江。額に絞ったタオルを乗せて看病する大原……。そこにCGテープの謎に関係する女性から堀江の携帯に電話があり、翌日に会う約束を交わした。
「それより、おれはもうそろそろ眠くなってきた」
彼女はあっさりベッドから立ちあがった。
「わかりました。じゃ、これで失礼することにします。どうも体よく命令されたみたいだから。私も帰ったあと、ゆっくり考えてみます。なにかわかるとも思えないけれど」
「だったら時間の無駄だ。なにもかも忘れて眠っちまったほうが健康にはいい。美容にもたぶんいい」
「そんなこと心配してませんよ。人づかいの荒い変人上司がもうすぐいなくなるもの。そのあとはきっと、のんびりできる」
苦笑がもれた。「なあ、大原」
「なんでしょう」
「きょう送ってくれたことに、もう一度、礼をいっとく」
「その言い方、あまり課長らしくありませんね」
ふいに大原が数歩、近づいた。そして、その上半身が私のほうにかたむいてきた。次の瞬間、やわらかな感触があった。彼女の唇が私の唇にふれていた。春の陽射しのにおいがした。彼女の髪のにおいだった。私の知らない世界からとどくにおいだった。だがほんの一瞬ののち、それは消えた。鳥の影が目前をすぎたようだった。
身体をおこした大原はなにもいわず背を向けた。ドアが開き、静かに閉じられた。
どうです? いいでしょう?
幻の「大原と結ばれるまでの話」
「てのひらの闇」には続篇があります。「名残り火」というタイトルで、藤原伊織氏は最後の著者校正の途中で亡くなりました。
飲料メーカーの宣伝部課長だった堀江の元同僚で親友の柿島が、夜の街中で集団暴行を受け死んだ。柿島の死に納得がいかない堀江は詳細を調べるうち、事件そのものに疑問を覚える。これは単なる“オヤジ狩り”ではなく、背景には柿島が最後に在籍した流通業界が絡んでいるのではないか―。
大原との関係はどうなるのか。続きはまた別の機会に書きます(必ず!)
藤原伊織氏の追悼文で、博報堂出身でミステリー作家の逢坂剛氏がこう書いています。
あえて苦情をいえば、堀江を助ける美女大原真理の存在が、悲しすぎることだ。例によって、いおりんはこの女性を地の文で〈大原〉と、姓で呼び捨てる。わたしなら〈真理〉と表記し、彼女の女としての魅力をこれでもかとばかり、書き連ねるだろう。しかし、いおりんは前作『てのひらの闇』からずっと〈大原〉で貫き、読み手の感情移入をはねつける。ほんとうはいおりんは、堀江と大原真理がめでたく結ばれるまでの話を、このシリーズで書きたかったのではないか。それを思うと、今さらのように残念な気がする。いや、いおりんのことだから最後まで、ストイックな関係を保ったかもしれない……。考えれば考えるほど、もどかしくなる。
参考URL:https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163249605
「大原と結ばれるまでの話」を私も読みたかったーー。痛切にそう思います。59歳で亡くなるなんて、本当に惜しまれます。
(しみずのぼる)
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