きょう紹介するのは荻原規子さんの和製ファンタジー小説「薄紅天女」(上下巻、徳間文庫)です。〈勾玉〉3部作の締めくくりとなる小説で、物語の前半は最後の勾玉を受け継ぐ少年の〈自分探し〉の旅、後半は皇女が少年と出会う〈ガール・ミーツ・ボーイ〉物語です(2024.10.17)
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〈勾玉〉3部作は、荻原さんのデビュー作「空色勾玉」(1988年)、「白鳥異伝」(1991年)、「薄紅天女」(1996年)からなります。
「空色勾玉」がイザナギ・イザナミの古代日本神話の時代、「白鳥異伝」がヤマトタケル伝説をベースにしています。
ヤマトタケル(日本武尊)は第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたります。西暦に直すと、日本武尊は西暦72年に生まれて114年になくなったそうですから、まだまだ神話時代の物語です。
前2作に対して「薄紅天女」は奈良時代の末期、平城京から長岡京に遷都され、わずか10年で平安京にふたたび遷都される第50代桓武天皇の時代です。このあたりになると「日本史の授業で習ったな…」と思いますね。
つまり「神話から歴史へ」という大きな変化が、前2作と「薄紅天女」を分かつ大きな要素となっています。
怨霊が信じられた時代
他方で、現代とはやはり違って、怨霊の存在が信じられた時代でもあります。笠原英彦氏の「歴代天皇総覧」(中公新書)から桓武天皇の項目をひもとくと、
天応元年(七八一)、光仁天皇が病いと高齢を理由に譲位の意向を固めたことから、同年四月即位して桓武天皇となった。そして同母弟の早良(さわら)親王を皇太子に立てた。
このあと政情不安や凶作、疾病の流行から長岡京へ遷都することになったものの、桓武天皇の信任厚く政権中枢の座にあった藤原種継が暗殺され、黒幕と疑われた早良親王は皇太子を廃され、幽閉先で絶食の末に死亡します。
皇太子には新たに安殿親王が立てられたが、その後、天皇の身辺では忌まわしい出来事が頻発した。藤原百川の娘で天皇の夫人であった藤原旅子が年若くして他界し、天皇の母、高野新笠、皇后の藤原乙牟漏らが次々と発病してこの世を去った。安殿皇太子も体調がすぐれず、陰陽師に占わせたところ、早良親王の祟りであろうとのことであった。天皇はこれを聞き、早良親王の怨霊をことのほか恐れた。
こういう時代をベースに「薄紅天女」は書かれているのです。
もっとも、歴史を知らなくてもまったく大丈夫です。読み始めたら物語世界に引き込まれてしまいますので。
実在の人物(坂上田村麻呂、アテルイ、藤原薬子、空海など)が出てきても、「あれ? むかし高校の授業で聞いたことあったかも…」程度で読み飛ばせばいいだけです。
「白鳥異伝」で残った勾玉
前置きが長くてすみませんが、もうひとつだけ。
「白鳥異伝」のあとがきで、荻原規子さんは「空色勾玉」の続編を書くという発想は当初まったくなかったと明かしています。
『空色勾玉』の続編を書こうとは、ほんのわずかも思いませんでした。あれはあれで完成した物語であり、関連が必要だとは思わなかったのです。本を読んだ友人がジョークに、「空色の勾玉があるなら、つぎは緑色とかドドメ色とか、いろいろ作ってもいいよね」と言ったとき、思いっきり笑い飛ばしたものでした。
「玉の御統(みすまる)」の構想が固まってきたときには、しまったという気分にさえなったものです。まさか、そのときのジョークが自分の奥底に根づいてしまったとは、考えてもみなかったのでした。
荻原規子「白鳥異伝」下巻あとがき
では、「薄紅天女」はどうだったかーー。わたしは「白鳥異伝」を執筆中に(漠然とではあっても)もう1作書くつもりだったのだろうと想像します。
というのも、「玉の御統」とは、
朝日ののぼる日高見(ひだかみ)の国、夕日の沈む日牟加(ひむか)の国、三野の国、伊津母(いづも)の国、名の忘れられた国。五つの国に勾玉があり、五つの橘の一族が勾玉を守っている。勾玉を集めて「玉の御統(みすまる)」の力をもつ勇者でしか剣の力に立ちむかえない
荻原規子「白鳥異伝」上巻319~320ページ
というものですが、「白鳥異伝」の主人公、遠子は最後のひとつーー日高見の国の勾玉は見つけられないまま物語が閉じているからです。
日高見の国、蝦夷の地にある勾玉はどうなったのだろう……。そこまで思えば「きっと続編があるに違いない!」と連想が働きますね。
そう、「薄紅天女」とは遠子がついに見つけられなかった、蝦夷の地に伝わる最後の勾玉をめぐる物語なのです。
「坂上将軍に見つかってはいけない」
郡の長のお屋形、竹芝の二連といったら女の子泣かせで、よそではともかく、郡内の若い娘たちのあいだではとみに評判だった。
「薄紅天女」はこんな書き出しで始まります。
「二連」とは藤太(とうた)と阿高(あたか)のこと。郡長の七男が藤太、長男の忘れ形見が阿高で叔父-甥の関係だが、ともに十七歳の同い年で、いつも二人一緒で行動した。
しかし、藤太は阿高に言えない秘密があった。阿高が寝ているときに現れる「ましろ」のことだった。ましろは阿高が寝ている時にしか現れないが、山崩れなどを予知して藤太に教えた。
そして、京から竹芝の地に朝廷の使節団が蝦夷討伐の軍事簡閲目的で来るという前夜、ましろが藤太の前に現れた。
阿高がこちらへ寝返ったのがわかる。射しこむわずかな月明りに、阿高の目がぱっちり開いているのが見てとれる……その輝きやすい瞳のせいで。しかし、見つめているのは阿高ではなかった。いつもかたわらにいる少年とは異なる、ひんやりした気配。ぞくりとしてつばを飲んでから、藤太は小声でいった。
「阿高が落ちこんでいるから、あんたが出てくるような気がした。そうだろう、あんただろう」
『残念なことがある。阿高は二十歳まで待っていられない。とてもとても、そんな悠長なことはいってられない。坂上将軍が来るから』
この人物の声音は、阿高とは微妙に異なっていた。遠くで発するような、ささやき声。
『坂上将軍に阿高を会わせてはいけない。見つかってはいけない。将軍は知っている……そして捜している』
(略)
「とにかくそいつが、何を知っているというんだ」『わたしを』
阿高を守るように存在する「ましろ」は何者か、なぜ朝廷から派遣された坂上田村麻呂は「ましろ」を知っているのか。そもそも阿高は何者なのかーー。
チキサニと阿高の父
ここから物語は大きく展開していきます。阿高を迎えに来た蝦夷の民、坂上田村麻呂と行動を共にして蝦夷の地へ阿高を追う藤太……。
その過程で、蝦夷遠征で傷つき瀕死の状態だった阿高の父が、蝦夷の地で火の女神と称えられたチキサニと出会い、生まれたのが阿高だったことが語られます(もちろん、チキサニが「ましろ」です)
「火の女神……なんて白い火だ」
若者はもう一度ほほえもうとしたが、顔はゆがんだだけだった。それから彼は、しばらく苦心して首にかけたひもを解いていたが、やがてさしだした。
「蝦夷の女神、ひとつだけ聞いてもらえないか。これをここに埋めないで、父に返したいんだ。だれでもいいから、ことづけてもらえないだろうか。父は武蔵国足立郡郡司。丈部総武という……」
ひもの先に小さな石が下がっていた。半透明に白い石でできた勾玉だ。けんめいに痛みをこらえてさしだしているのが気の毒で、チキサニはつい受け取った。勾玉はずいぶんちっぽけに見えたが、この若者にとってひどく大事な品であることはわかった。チキサニが玉を手にすると、兵士の手は力なく草の上に落ちた。
(略)
(手当をしてみよう。死なせるのはやめよう。薬草ときれいな水があれば、この人は命をとりとめるはず)とうとうチキサニは決意し、兵士のかぶとと鎧を細い指先ですばやくほどいた。土手の先の林まで運べば、林の中に湧き水がある。若者をかかえ起こそうとしたとき、チキサニは間近で何かが光り出すのに気づき、びっくりして動きを止めた。
それは彼から受け取った勾玉だった。チキサニは両手を使うために、とりあえず若者がしていたように首にひもをかけたのだ。胸の谷間あたりで揺れていたその玉が、今、光を放っていた。半透明だと思っていたものが中心に淡い紅色を生じ、柔らかく輝いている。夕日が当たるせいなのかと手で囲ってみたが、陰にしても変わりはなかった。勾玉はみずから光を放ち、手の中で生き生きと輝いていた。
蝦夷の地に物語の舞台を移す上巻の後半部は、冒険ものとしてもおもしろく、夕日色に輝く勾玉を持つチキサニ(ましろ)の魅力と相まって、もっとも心躍る思いで読める部分です。
下巻から皇女の苑上登場
それだけに下巻に入ると、最初はきっと戸惑うでしょう。阿高も藤太もチキサニも登場せず、いきなり主人公が天皇家の十五歳の皇女、苑上(そのえ)に変わってしまうのですから。
苑上は、先ほど「歴代天皇総覧」で紹介した桓武天皇の娘。早良親王の祟りで体調がすぐれない安殿(あて)皇子の妹にあたります。
安殿皇子も当然出てきます。
「災いはもうすぐ救いに変わるのだよ。今、都には天女が近づいている」
安殿皇子の口調は熱のこもったものになった。
「わたしの病も天女に会えば癒される。苑上も知っているだろう、皇(すめらぎ)に伝わる明玉(あかるだま)の伝説を。その玉と乙女が見出されるのだよ。遠いいにしえの約束のとおりに」
「明玉?」
安殿皇子は首をかしげる妹を見て笑った。
(略)
「天つ輝(かぐ)の御神を祀り鎮める、黄泉の女神の八つの勾玉の話だ。明玉はたぶん、その中の最後のひとつなのだ。それが東北の蝦夷の国へと流れ着き、その地に埋もれて皇に出会うときを待っていた。天つ輝の御神とはすなわち、われわれの祖先神だからね。その玉は皇に約束されたものなのだ。どんな回り道をしても、最後はわれわれのもとへ来る」
(略)
「天女がもうすぐ来る。わたしはその夢を何度も見るのだよ。彼女はいつも、すがすがしい夜明けに、朝焼けの空からわたしのもとに舞い降りてくる。薄紅の絹をまとい、手に輝く玉を持った、心が洗われるように美しい乙女なのだ。わたしは、手をさしのべて彼女の勾玉を受け取る。そのときすべてが癒されるのだよ」
しかし、勾玉の主はチキサニではなく、阿高です……。
阿高は、坂上田村麻呂と行動を共にした藤太と再会を果たして都に向かうが、これを阻む勢力も現れる。都を襲う災厄から弟の賀美野(かみの)を守るため男の子の姿となり、鈴鹿丸と名乗って行動する苑上は、明玉をめぐる別の話を耳にする。
「伝説の明玉といわれるものがすべてに由来するんだよ。最初、陰陽寮の博士は、その玉が災厄に救いをもたらすと占った。だからこそ探し出す使者も抜擢されたんだが、その後占いをさらに進めると、逆に、明玉こそが災厄の核心だと判明したんだそうだ。明玉は、もたらされるべきときに来なかった。そして、時を逃した玉はむしろ災いの種になるということがね。都に出没する物の怪も、その影をひいているかもしれないんだ。だから、衛門佐殿は任務をいいつかった。それが本当なら、都に入れてはならない。都を滅ぼしてしまうかもしれない」
ガール・ミーツ・ボーイ
勾玉を持つ阿高は救いをもたらす者なのか、それとも破滅をもたらす者なのかーー。苑上は二つの異なる説に戸惑いながら、阿高と出会うのです。
中空に物の怪の姿はなかった。だが、すべてが消えたのではない。苑上のそばに、もっと明瞭な輪郭を持つ黒いものが脚をすえて立っていた。苑上よりずっと大きく、四本の脚を持つ。
そのものはたたずみ、苑上もじっと見つめるうちに、あえいでいた息が静まってきた。汗がひいたことに気がつくと、かわりに困惑がわいてきた。
(どうして……)
目がおかしくなっているのでなければ、そこに見えるのは馬だった。
馬に近づいて撫でると、馬がしゃべった。
「くすぐったいから、飛び跳ねたくならないうちにやめろよ」
「どうしてこんなところに座りこんでいた。こんな場所に入りこんだら、自分で抜けられないことくらいわからなかったのか」
苑上が「物の怪に追われてここまで走ったの」と説明すると、馬は苑上を乗せて跳躍したーー。
もちろん、この馬が阿高です。苑上は鈴鹿丸として阿高や藤太と行動を共にすることにします。阿高が本当に都に災いをもたらすものなのか、自分の目で見極めるために。
(もう一度だけ会いたい)
読後「歴代天皇総覧」で確認すると、明玉の天女を焦がれ待つ安殿皇子は第51代平城天皇、苑上が都を襲う物の怪から守ろうとする弟の賀美野は第52代嵯峨天皇で、当時の歴史的出来事(「薬子の変」など)と照らし合わせて読むのも一興なのですが、そんなことは気にしないで大丈夫です。
勾玉の主の阿高は都に何をもたらすのか、そして、運命的な出会いをした苑上と阿高の二人の行方はーー。
(阿高……)
(もう一度だけ会いたい)
(お願いだから、このまま消えたりしないで)
(いっしょに行きたい……)
このあたりはもう、せつなさにあふれて涙なしに読めません。
兄や弟が実在の天皇だって関係ない。どうか〈ガール・ミーツ・ボーイ〉もののお決まりとして、ふたりに幸せを……。
そんな気持ちで、多幸感に包まれる最後の1ページまで、物語世界に浸れること請け合いです。
今回〈勾玉〉3部作を久しぶりに再読して、とても幸せなひとときでした。やっぱり〈勾玉〉シリーズは最高です!
(しみずのぼる)
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