「ディック的悪夢」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? アメリカのSF作家フィリップ・K・ディック(1928-1982)が自身の小説で繰り返し描写した「現実崩壊感覚」などを表す言葉で、きょうは、その典型的な短編「この卑しい地上に」(原題:Upon the Dull Earth)を取り上げます(2023.8.1)
ブレードランナーの原作者
フィリップ・K・ディックは、1950年代に数々のSFの短編小説を量産し、60年代に入ってようやく出世作を上梓し(映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」や、アマゾン・プライム・ビデオのオリジナルドラマ原作の「高い城の男」)、70年代には哲学的なSFを出すようになった作家です。年代によって好みが分かれるところがあって、わたしは50年代に書かれた短編が好きです。
ただ、初期から晩年まで共通するのが、「実は我々が現実と思っているものは虚構ではないのか」というテーマです。ブレードランナーをご覧になった方はわかると思いますが、人間と寸分変わらぬ精巧なアンドロイドを追いかけ戦ううちに、アンドロイドと人間の違いは何なのかわからなくなる男が主人公でした(確か映画にはなかったと思いますが、原作では、主人公自身、自分が本当に人間かどうか確信を持てなくなり、機械でチェックする場面が出てきました)
「ディック的悪夢」について、翻訳家の仁賀克雄氏が「人間狩り」(ちくま文庫)の訳者ノートにこう書いています。
ペシミスティックな未来
多くの若い人たちが、「ブレードランナー」を観て、ディック・ワールドを知り、興味を持ち、小説の世界に参入してきた。ディックの思想を一括りにするのは難しいが、50年代短編に数多く見られるのは「現代の不安」であるといってよいだろう。核戦争、外宇宙からの侵略、未来の現在への侵入、シミュラクラなどが生み出す恐怖など、鋭敏で繊細なディックが感じた悪夢である。その感覚が、小説が書かれた当時の未来=現在の若者に受け入れられていることは興味深い。ディックが描いた未来は、きわめてペシミスティックなものだった。二十世紀末を迎えてその幻視はますます悲痛のものに感じられ、若い人たちの心をとらえているのではないだろうか。
「鋭敏で繊細なディックが感じた悪夢」の中でも、きょう紹介する「この卑しい地上に」は、現実が崩壊していく感覚に襲われる傑作です。
なお、わたしはこの短編を新潮文庫の「模造記憶」で読みました。「模造記憶」はすでに品切れですが、現在は大森望氏編「人間以前」(ハヤカワ文庫SF)で読むことができます(本記事の引用はすべて「模造記憶」から)
現実が崩壊していく感覚
登場人物はリックと恋人のシルヴィア。シルヴィアは霊的な白い群れを呼び出し、交流することを楽しみ、それを不安視したリックはなんとかやめさせたがっていた。
「九つのときに、ホーマーの「オデッセイ」を読んだわ。ほら、ユリシーズが地面に穴を掘って、そこへ血をそそぎこみ、精霊を呼びよせるくだり。黄泉の国からの亡霊ね」
「たしかにあった」リックは不承不承に認めた。「おぼえているよ」
「死者の魂。あの白い群れは、かつてこの地上に生きていた人たちなの。だれもがここで生き、そして死ぬとむこうへいく」シルビアは面を輝かせた。「わたしたちみんなが翼を持ってるのよ! みんなが空を飛べるようになり、炎と力に満たされるのよ。もう蛆虫ではなくなるのよ」
しかし、リックの不安は的中する。シルヴィアは白い群れの世界に旅立つため、家の地下室に棺桶を用意していた。
「これはなんだ?」リックはかすれ声できいた。
「わたしの繭」シルヴィアはさらりと答えた。満足そうに床の上にうずくまり、磨きあげられたオークの棺へしあわせそうによりかかった。
リックは彼女の腕をつかんで、ぐいと立ち上がらせた。「よさないか、こんな棺桶といっしょにすわったりして。それも地下室でーー」急に言葉を切って、「どうした?」
シルヴィアの顔は苦痛にゆがんでいた。リックからあとずさりすると、すばやく指を口に含んだ。「指を切っちゃったーーいま、ひっぱりあげられたときに。釘の頭かなんかで」
シルヴィアの血が白い群れを呼びよせてしまった。地下室は火の海になり、シルヴィアは焼死した。
甦ったシルヴィアだが…
恋人を忘れられないリックは白い群れとコンタクトをとろうとする。白い群れに向かってシルヴィアを返すよう求めると、そこにシルヴィアがあらわれた。
「リック!」そばで声がした。ひらひらと漂いながら、木々と、しとどに濡れた草花のおぼろな世界へ戻ってきた声。ほとんど聞き取れない声ーー語られるはしから、言葉が消えていく。「リックーーわたしが帰れるように力をかして」
(略)
白い幻がおちつかなげに身じろぎした。争いがにわかに高まった。意見が割れているらしい。リックは用心ぶかく数歩さがった。
「それは危険だといってるわ」シルヴィアの声がどこからかともなく聞こえた。「前に一度試みられただけだって」彼女は声をおちつかせようとした。「この世界とあなたの世界を結ぶきずなは、とても不安定らしいわ。そこにはとほうもなく大量の自由エネルギーがある。わたしたちーーこちら側のあたしたちーーのもつ力は、ほんとは自分のものじゃない。雨中のエネルギーに蛇口をつけて、小出しに使っているにすぎない」
しかし、リックは恋人逢いたさに危険を度外視して「帰ってこい」と言う。そして、爆発が起こる。
変化はだしぬけに訪れた
リックはシルヴィアの両親に助けられたが、シルヴィアの妹ベティ・ルーから難詰された。
「姉さんは魔女! あれは自業自得!」
「シルヴィアは帰ってくる」リックはいった。
「嘘!」少女の不器量な顔にパニックがやどった。「帰れるわけないじゃん。姉さんは死んじゃったーーいつもいっていたみたいにーー毛虫から蝶になったのよ。姉さんは蝶!」
「きみ、もう部屋へ帰れよ」
「よく命令なんてできるわね」ベティ・ルーは答えた。声がヒステリックに高まった。「ここはあたしの家よ。あんたなんか、もうきてほしくない。パパもきっとそういうわ。パパもいやだし、あたしもいやだし、ママと妹も……」
変化はだしぬけに訪れた。映写のとまったフィルムのように。ベティ・ルーは凍りついた。口を半びらきにし、片手を上げ、舌の上につぎの言葉をうかべたままで。少女の体は宙ぶらりんだった。床から持ちあげられ、二枚のスライドグラスに挟まれて、一瞬に生命を断たれた標本。声も音も失った、動かないうつろな昆虫。死んではいないが、いきなり原初の無生命状態にひきもどされたのだ。
占拠されたそのぬけがらに、新しい力と存在がじわじわと染みこんできた。
(略)
「ああ」と吐息をもらした。「指を切っちゃった」小さくいやいやをしてから、無言で、なにか訴えそうにリックを見あげた。「釘の頭かなんかで」
「シルヴィア!」
しかし、再会の喜びもつかのまだった。「なんだかへんだわ」とおびえるシルヴィア…。
「指を切っちゃった、リック」
「居間へ行って、きみの家族に会ったほうがいいよ。そしたら、きっと気分がおちつく。こんなショックは早く忘れないと」
居間には腰かけた三つの人影があった。カウチの上にふたつ、暖炉のそばの椅子にひとつ。どれもピクリとも動かず、顔はうつろで、体はぐったりと生気がない。蝋人形のような三人は、ふたりが部屋にはいってきても、まったく反応を示さなかった。
(略)
とつぜん、ジーンがくずおれた。両腕がだらんと垂れた。胴体と手足がふくらんできた。みるみる顔だちが変わってきた。蝋に似た青白さは、もうなくなっていた。
指を唇に含んで、彼女は無言でリックを見あげた。まばたきした目が焦点を結んだ。「ああ」と吐息がもれた。唇がぎこちなく動いた。その声は、録音不良のサウンドトラックのようにかすかで、むらがあった。ぎくしゃくと立ち上がり、協調のよくない筋肉の動きに押しやられて、リックのほうへ歩いてくる。不器用に一歩一歩とーーまるであやつり人形のように。
「リック、指を切っちゃった」彼女はいった。「釘の頭かなんかで」
それまでエヴェレット夫人であったものが身じろぎした。形のないもうろうとした姿が、鈍い音を立て、ばたばたとグロテスクに動いた。しだいに輪郭がかたまり、形ができはじめた。
「指を」と弱々しい声が吐きだされた。合わせ鏡に映る像が、こだまを返しながら闇の中へぼやけていくように、安楽椅子にすわった第三の姿がその言葉を拾いあげた。まもなく、みんなが同じ言葉をくりかえしはじめ、四本の指と四つの唇が、いっせいにおなじ動きをした。
「指を切っちゃった、リック」
いかがでしょうか。現実が崩壊していく感覚。ご理解いただけたでしょうか。
世界がシルヴィアに塗り替えられていくスピードと、それから必死に逃れようとする主人公リックのチェイスは圧倒的です。
続きは「この卑しい地上に」を収めている大森望氏編「人間以前」(ハヤカワ文庫SF)を手に取って、ご自身でお確かめください。
次回もディックの別作品を紹介します。
(しみずのぼる)
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