穏やかな日常、見慣れた町並み、そして毎日届くパズル誌。しかし、そのすべてが「作り物」だとしたら――? フィリップ・K・ディックの『時は乱れて』(原題:Time Out of Joint)は、1950年代の平穏なアメリカを舞台に、信じていた世界が崩れていく恐怖と不安を描いた長編小説です。日常に潜む「ズレ」に気づいてしまったとき、あなたならどうしますか?(2025.7.24)
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目次
伝説のサンリオSF文庫版|かつて入手困難だった「ベスト50」筆頭の傑作
『時は乱れて』の内容紹介をする前に、本書をめぐる思い出話を書かせてください。
『時は乱れて』の邦訳本は、1987年にサンリオSF文庫から出版されました。サンリオSF文庫はハローキティで有名なサンリオが1978年に創刊。しかし、同社が上場するにあたって、融資先の銀行からSF文庫からの撤退を強く迫られ、1987年にすべての文庫が絶版の憂き目にあいました。
わたしが『時を乱れて』という小説の存在を知ったのは1987年。奇しくもサンリオ文庫廃刊の年でした。その年に買い求めたぼくらはカルチャー探偵団編『読書の快楽』(角川文庫)というブックガイドでした。
筆者は畑中佳樹氏。「SF ベスト50」の項目で、畑中氏がいちばん最初に挙げていたのが『時は乱れて』だったのです。
『読書の快楽』が絶賛した狂気|「骨の髄まで病んでいる」と評される理由
畑中氏は「SFベスト50」の中で、『時は乱れて』について「文句なしに面白く、骨の髄まで病んでいるようなSF」と評しています。
フィリップ・K・ディック「時は乱れて」(サンリオSF文庫)
やはり筆頭はディックだろう。作品の多い作家なので代表作は五、六冊はすぐに思い浮かぶが、あえて初期の埋もれた傑作を選んでみた。ぼくの独断では、ディックは初期の方が面白い。なにしろこの人は、人生を逆さまに生きたとでもいうのか、年を取るごとに若返っていった人である。つまり、若いころに老成した娯楽小説を書きまくり、年を取ってから若気の至りみたいな青臭い哲学小説を書いた。現代のディック批評は、その哲学小説の方をいいカモにしているわけだが、すれっからしのSFファンは、なんてったって一九五〇年代のディックを選ぶのである。
『時は乱れて』は文句なしに面白く、骨の髄まで病んでいるようなSFだ。マリリン・モンローをこんなに不気味に描写した小説がかつてあっただろうか?
「骨の髄まで…」は、ディックの他の作品も似たような雰囲気なのでまだわかるのですが、次の一文ーー「マリリン・モンローをこんなに不気味に描写した小説がかつてあっただろうか?」は謎でした。

マリリン・モンロー?不気味に描写?それって一体どんな小説だ???
しかも、畑中氏は「SFベスト50」でいちばん最初に挙げていますが、そのあとに続くのが、
- アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』
- ロバート・A・ハインライン『夏への扉』
- フレドリック・ブラウン『発狂した宇宙』
- エドガー・ライス・バローズ『火星シリーズ』
と、どれもが”王道”のSFものです。これが畑中氏の「おススメ順」なのだとしたら、『時は乱れて』はどれほどの傑作だろう…と思うじゃないですか!
しかし、冒頭紹介したとおり、サンリオSF文庫はすべて絶版です。『読書の快楽』で『時は乱れて』の存在を知って以来、何度、神田・神保町の古書店街で探し求めたことか……。
SFの文庫本を多く扱う古書店を覗いた時は必ず探すようになり、数年後、ようやく見つけた時は本当にうれしかったです。

懸賞クイズに勝ち続ける予兆|天才的な直感か、それとも「管理」された現実か
あらすじは『サンリオSF文庫総解説』(牧眞司・大森望編、本の雑誌社)から、抜粋しながら紹介しましょう。

時は1959年(本書の出版年)。食糧品屋を経営するヴィックは、レジ係のリズに軽くときめきを覚えつつ、妻のマーゴ、息子のサミイと幸せな家庭を営んでいる。同居しているマーゴの兄のレイグルは、新聞の懸賞クイズで三年間首位を独走している有名人。彼には論理ではなく美学的な見地からパタンを認知し判断する特殊な能力があるらしい。もっとも本人は、定職を持たず、やくざな生活を繰り返す自分にコンプレックスを抱いている。隣人は水道局に勤務する新婚ほやほやのブラック夫婦。マーゴには新妻のジャニーがことあるごとにレイグルに熱い視線を送っているように思える。
というふうに、最初のうちはアメリカの地方都市の日常風景が淡々と続きます。
正直なところ「これってSFなのか?」と思うほどです。懸賞クイズに勝ち続けるレイグルが幻覚に悩んでいる以外は、ホームドラマのような記述が続きます。
そんなある日、ヴィックの息子サミイが廃墟に秘密基地を作ろうと潜り込み、電話帳と水に濡れた雑誌をみつけた。サミイから雑誌の切り抜きをもらったレイグルは夜、廃墟に足を運んだ。そこでみつけた雑誌をひらいた。
廃屋で見つけた1枚の写真|マリリン・モンローを知らない主人公たち
いよいよマリリン・モンローの登場なのですが、ちょっと想像してみてください。
小説を読む時、主人公(この場合レイグル)の視線で読者も読んでいるわけです。
だから、マリリン・モンローの出てくる場面は、文字を目で追っていて「え?」となります。
最初の写真は、ペンシルヴァニアの大列車事故を扱ったものである。次の写真記事はーー
北欧系と思われるブロンドの美人女優であった。レイグルは手を伸ばしてライトを動かし、その頁にさらに光をあてた。
その若い女性の髪は豊かで見事に整えられており、かなり長かった。驚くほど魅惑的な微笑を浮かべていて、どこか子供っぽくそれでいて神秘的なその微笑がレイグルの眼を引いた。いまだかつて見たことがないほど魅力的な容姿、それに加えて、幅広く豊満で肉感的な顎、うなじーー駆け出しの女優にありがちなものとは違って、成熟しきった女の首すじだーーそして完璧な肩の曲線。僅かな贅肉もなく、痩せすぎでもない。混血だと彼は断定する。ドイツ人の髪。スイス人かノルウェー人の肩。
だが、真に彼を惹きつけたもの、あらゆる存在を疑いはじめたレイグルの心をとらえたものは、この女性の素晴らしい全身像であった。何という悩ましさ、それでいて何と純粋な印象を与える娘だろう。どうすればこれほどまでに見事な姿形を獲得することができるのか?
しかも彼女自身、それを喜んで誇示しているように見える、身をのりだしているために乳房がほとんどあらわになり、いまにもこぼれてしまいそうだ。それはこの世で最もなめらかで最も硬く、最も自然な印象を与える乳房だった。しかも、とても暖かそうに思える。
レイグルはこの女性の名前に心あたりがなかった。
レイグルはヴィックを呼び、ヴィックにも雑誌を見せた。マーゴも近寄って来て雑誌を覗いた。
写真の下には説明文があった。「サー・ローレンス・オリビエと共演の映画撮影のためにイギリスを訪問中のマリリン・モンロー」
「聞いたことある?」マーゴが言った。
「ないな」とレイグル。
「きっとイギリスの新進女優だよ」とヴィック。
読者が主人公だと思っていたレイグルやその家族が、マリリン・モンロ-の写真を見ても、誰なのかがわからない……ということは?
確かなものと信じていたものが、足元からとたんにあやふやになる…という、まさにディックお得意の現実崩壊感覚です。
監視社会の足音と隣人の不審な行動|世界の「綻び」に気づいた瞬間の戦慄
レイグルたちは結局、マーゴが「『消費者ダイジェスト』にいつも、ごまかしや曖昧な広告に注意しろって書いてあるの」「たぶんこの雑誌もこのマリリン・モンローとかの評判も、いいかげんな作り話の寄せ集めでしかないと思うわ」と言ったため、作り話か何かのたぐいだろう…という結論に落ち着きます。
でも、マリリン・モンローには続きがあります。
良き隣人だと思っていた水道局勤務のブラックに、ヴィックが「マリリン・モンローとかいう人物のことを聞いたことがあるかね?」と訊ねる場面です。
ブラックはこの言葉に、奇妙に意味ありげな表情を浮かべた。「それがどうしたんだい?」彼はゆっくりと言った。
「聞いたことがあるのか、ないのか」
「あるとも」
「嘘だろう」ヴィックが言う。「何かの冗談だと思ってだまされまいとしているんだ」
「正直に答えてくれ」とレイグル。「冗談ではないんだ」
「むろん聞いたことはあるさ」ブラックは言った。
「誰なんだ?」
「彼女はーー」ブラックはマーゴかサミイに聞かれはしないかと別室の方をうかがった。「彼女は現代で最も見事なバストの持ち主だろうな」そして付け加える。「ハリウッドの女優だよ」
何やらレイグルたちの動向を探るような雰囲気の隣人のほうはマリリン・モンローを知っていて、レイグルたちのほうがおかしい……これはどういうことだ?
こんなふうに、徐々にレイグルたちが信じている世界が、ポロポロと剥がれ落ちるがごとく、崩壊していく様が描かれています。
2014年のハヤカワ文庫再刊|新訳で蘇る「偽造された世界」の普遍的な恐怖
ふたたび「サンリオSF文庫総解説」から抜粋します。

サミイが作った鉱石ラジオが、意味不明の謎の通信を捉える。通信会話の中にはレイグルの名前があった。
世界は見た目通りのものではないらしい。懸賞クイズもじつはクイズではないようだ。それどころか、すべての事象の中心にあるものこそレイグルの解く懸賞クイズのようなのだ。世界の真の姿を探ろうとレイグルは町からの脱出を図る。
人間模様の書込み、醸成されていく不安、意外な展開。まとまりのよさ。ディックのなかでも上位に位置する作品である。2014年にハヤカワ文庫SFより再刊された。

『読書の快楽』の紹介文のとおり、骨の髄まで病んでいるようなSFです。不気味なマリリン・モンローが暗示する世界の真の姿は、ぜひ再刊された『時は乱れて』でお確かめください。
(しみずのぼる)
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