きょうは佐藤正午氏の「熟柿」(KADOKAWA刊)を紹介します。今年出版された小説でベスト1位の呼び声もある魂を揺さぶられるストーリーで、終盤は滂沱の涙をとめることができませんでした(2025.10.29)
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目次
上半期1位、中公文芸賞
佐藤正午氏の「熟柿」は今年3月に出版され、「本の雑誌が選ぶ2025年度上半期ベスト10」で1位に輝き、今年8月には中央公論文芸賞を受賞した話題作です。
取り返しのつかないあの夜の過ちが、あったはずの平凡な人生を奪い去った。
激しい雨の降る夜、眠る夫を乗せた車で老婆を撥ねたかおりは轢き逃げの罪に問われ、服役中に息子・拓を出産する。出所後息子に会いたいがあまり園児連れ去り事件を起こした彼女は、息子との接見を禁じられ、追われるように西へ西へと各地を流れてゆく。自らの罪を隠して生きる彼女にやがて、過去にまつわるある秘密が明かされる。『鳩の撃退法』(山田風太郎賞受賞)『月の満ち欠け』(直木賞受賞)著者による最新長編小説。
このあらすじや、帯に書かれた書評家らのコメントを読めば、もうあとは本屋さんに直行してお買い求めください…というのが正しいありようだと思います。どこがどうよかったのか、わたしがどこで滂沱の涙を流したのか、そんなことは余計な情報に過ぎません。
「ある秘密」に違和感
でも……。
個人的にはあらすじやコメントに若干の違和感を感じるのです。「ん?そうではないのでは?」「ん?そこがポイントなの?」ーーそんな違和感です。
例えば、あらすじに「彼女にやがて、過去にまつわるある秘密が明かされる」とあります。
まるでミステリー小説のような書き方ですが、これは「熟柿」の本筋、中核を成すエピソードではないような気がします(中央公論文芸賞の選評を読んだら、このくだりの要・不要で選考委員で意見が割れた、とありました)
コメントで「一行目を読んだらノンストップ」というのも、個人的には異なりました。最初の4章までは読んでいてつらくて、何度投げ出したことか……。
その違和感から、わたしが感じる本書の魅力を書きたいと思います。
妊娠中に轢き逃げ事件
主人公の市木かおりは、子供を身ごもっていた2008年、雨が激しく降る夜道で車を運転中、親友の鶴子から携帯電話に掛かって来て鶴子とのやりとりに気を取られて、前方を歩く老婆を撥ねてしまいます。第1章の末尾はこうです。
対向車は一台も通らなかった。
後方から来る車の気配もなかった。
わたしはシートベルトをしっかり締め直して、アクセルペダルを踏んだ。わたしたち家族の未来のために、夫婦で相談して買い替えたばかりのステーションワゴンは異常なく滑らかに走り出した。夫はもう一言も喋らなかった。
当時のあかりの年齢は明かされていませんが、27歳頃に犯した過ちです。そこまでが第1章で、第2章はいきなり5年後の2013年に跳びます。
5年の歳月のあいだに、轢き逃げの罪で栃木の刑務所に服役し、警察官の夫から離縁され、息子の親権も失ったことが織り交ぜられます。
そして、親友の鶴子から「実の母親が息子に会えないなんて間違っている」と言われ、「まだウジウジしとるのけ」と促され、かおりは刑務所で生まれてすぐに取り上げられた息子に会うため、息子の通う幼稚園に向かいます。第2章の末尾はこうです。
わたしは足を止めずに鶴子の素早い返信を読む。
(今日? かおり、それ本気で言うとるのけ?)と鶴子は書いている。
(本気じゃとも。なんもかんも時は待ってくれんけの)
わたしはすぐさま返信を送る。
(いま決めたんじゃ)
そして第3章はまたまた3年後の2016年に時間が跳んでいます。
園児連れ去り、学校に無断侵入
第3章では、3年前に訪れた幼稚園で名前の似た別の園児を間違えて抱き上げて、幼児連れ去り事件としてパトカーに乗せられた経緯や、いままた息子の小学校の入学式に向かおうとしていることが描かれます。
年齢はきっと轢き逃げの時が27歳なら、幼稚園に行った時が32歳、小学校に行った時が35歳頃となるでしょう。
物語はかおりの一人称で書かれていますので、読んでいてとてもつらくなります。
産んでから一度も会うことのかなわない息子に会えないせつなさ、というつらさではなく、「あ~、また同じ過ちを繰り返すのか…」という、かおりへのいらだちの感情がどうしても湧いてくるのです。それで読んでいてつらいのです。
幼稚園でかおりは、息子と同じキリン組の少女「くじゅうろ・さき」ちゃんとこんな会話をします。
「ねえ、くじゅうろさん、たなか・たくくん、知ってるかな? 知ってるよね、仲良しだもんね、くじゅうろさんと、たくは」
「……たっくんのママ?」
「うん」
「たっくんママ、ほんとにいたんだ! さきね、たっくんから、カネガエ聞いていたの。たっくんママのお話」
小学校では、さきちゃんの母親に声をかけられます(第4章)
くじゅうろさんのお母さんは、落ち着いた声で、わたしに最初にこう言った。赤の他人が口出しすることではないとわかっています。
「でも、見て見ぬふりをして、このまま二階の教室に上がるわけにもいかないんです。いまここで、少し話を聞いてください、たっくんのお母さん」
小学校に無断侵入した疑いで教師に取り押されられ、学校からパトカーを呼ばれ、その混乱の中、懸命にかおりをかばったのは「くじゅうろさんのお母さん」です。その情景が、かおりの一人称で語られます。
男がまたわたしの腕を取った。わたしはまた振り返った。乱暴はやめてください、とくじゅうろさんのお母さんが言った。この女は不審者ですよ、ともうひとりの男が言った。いいえその人は不審者なんかじゃありません、とくじゅうろさんのお母さんが言った。
「受付で他人の名前をかたって校舎に入り込んだんですよ」
「他人の名前? その人は何と名乗ったんですか」
「自分は田中拓くんの母親だと名乗ったんですよ」
「その人は田中拓くんの母親です」
「え?」
(略)
「田中拓くんのお母さんはいまのマスクのかたでしょう」
「ええいまのマスクのかたもそうだし、そのひとも田中拓くんのお母さんです」
「何を言ってるんですか」
「話は複雑なんですよ。この学校の新入生たちが全員、シンプルな家庭の子供とは限らないんですよ」
「もうけっこう、話が複雑ならその話は警察にしてください」
くじゅうろさんのお母さんーー久住路百合という保険会社に勤める女性の懸命な弁護によって、かおりは警察で無罪放免となります。
死んだ母親になるべき
しかし、すでに元夫が再婚して息子に母親がいることを知ったかおりは、生きる気力を失います。そして第4章の終盤、栃木の刑務所で元夫に言われた言葉を思い出します。
「母親が犯罪者の子供と、母親に死なれた子供と、どっちがより不幸か、考えてみろ。これから子供が成長して社会に出て生きていくうえで、どっちが彼の障害になると思うか、よく考えてみろ」
よく考えて、わたしは死んだ母親になるべきかもしれない。
その選択が正しいような気がした。元夫に面と向かって問われたとき以上に、いま、息子に新しい母親がいると知ったいま、わたしにはその選択が正しいことに思われてならなかった。
かおりは久住路百合に連絡を取ります。
「久住路さん、わたしを、久住路さんの会社の生命保険に入れてください。どうかよろしくお願いします」
「それで可能なら保険金の受取人を息子にしたいんです。受取人の名義を田中拓に」
(略)
「不可能でしょうか。許されないのでしょうか、別れてしまった息子を受取人にして母親が生命保険に入るのは」
「それは……別れたと言っても、市木さんの産んだお子さんなんだし、許されないことはないと思います。でも」
「良かった。では契約をお願いします。保険金の金額はどのくらいが適切かわかりませんが、多ければ多いほど、できれば一億円くらいのお金を息子に残したいんです」
こうして、かおりは山梨の石和温泉の仕事に付き、息子に残す生命保険のために、それだけを生きがいに生きることを選択するーー。
選択を何度も間違え
不運の連続、不幸の連続。それが「熟柿」の書き出しから第4章まで、歳月で数えればかおりの人生の8年間が描かれます。
主体性もなく、情況に流されるまま、時に親友(?)の無責任な言葉に煽られて、転げるように堕ちていく。目の前の選択を何度も間違え、ついには「死んだ母親になるべきかもしれない」と思い詰めるところまでーー。
その転落の人生を、主人公の一人称で読まされても、そもそも主人公に共感ができないため、読んでいてとてもつらい前半部です(何度か別のエンタメ系の小説に逃避してしまいました…)
見て見ぬふりはできない
そんな絶望の人生の中で一条の光とも言えるのが、久住路百合とその娘・咲の存在です。
百合の放った言葉が反芻されます。そのくだりを引用します。
見て見ぬふりはできません。
それは平凡な言葉だった。平凡だから言うのは簡単で、行うのも簡単なはずの言葉だった。目の前で起きている出来事、目の前で困っているひと、目の前で助けを必要としているひとを、見て見ぬふりはできない、だから見て見ぬふりをしないというのは、誰に言われるまでもなくひととして当然のふるまいだった。でもその当然のふるまいが、ときとしてひとには難しいのだということをわたしは深く身に染みて知っていた。わたしは車で撥ねたひとを見殺しにした。車の外に出て、そのひとに駆け寄るべきだったのに、怖くて見て見ぬふりをした。わたしはひととして当然のことを当然に行わなかったがゆえに、人生を踏み外してしまったのだ。
かおりが思うほど「見て見ぬふりはできない」ということが簡単なことだと思えませんが、学校の教師たちを前にひとり敢然とかおりを擁護する久住路百合さんの登場する場面と、そんな母親に育てられた咲ちゃんの登場する場面、それ以外は読んでいてとてもつらく、苦しい描写の連続です。
未来に目を向ける瞬間
石和温泉に職を求めて移って以降も、かおりには不運と不幸がついて回りますが、それが変わるのはーー読者が「おや?」と変化に気づくのは第8章ーー大阪のパチンコ店を前科が露見して解雇され、パチンコ店の店長の紹介で福岡に移ってから。2023年、かおりはすでに42歳です。
その変化の場面を紹介しましょう。
店長が紹介した就職斡旋会社の女性から最初に介護施設を勧められ、かおりは次に紹介されたホテルの清掃と厨房補助の仕事を選び、そこで友人と呼べる存在もできたものの、その時の選択が果たして正しかったのかと自問する場面です。
将来的に継続して長く携われる仕事ーーその馬渡さんの発言にわたしは魅力を感じなかっただろうか。感じた自分を一瞬でも押さえつけなかっただろうか。長期的な展望を持つべきだという助言に、少しも心を動かされなかっただろうか。できればそのほうがいいに決まっている、そうは思わなかっただろうか?
でもわたしは一も二もなくホテルスタッフの職を選び、介護施設の職を一顧だにしなかった。それはとりもなおさず、将来の長期的な展望を捨て、過去に犯した罪、刑務所に入って償ったはずの罪をもうなかったものとして忘れたい一心の、臆病な選択に過ぎなかったのではないか。
(略)
わたしはこの先も変わらず昼間は客室の清掃スタッフ、夜はレストランの皿洗いやウエイトレスの掛け持ちで働くことを望んでいるのか。すでに四十歳を過ぎているわたしは、そう遠くない未来に待ち受ける、老いを迎えたときの自分の人生を想像してみるべきではないのか。
本当にこれでいいのか。順調ないまだけを見て、確実に訪れる未来から目を背けたままでいいのか。ずっと独りぼっちで、会うこともかなわぬ息子のことを思いながら仕事に精を出し、お金を貯めつづけるだけの人生。そのことに一片のためらいもないのか。
「熟柿」の主人公かおりが、ようやく、主体的に自身の人生を考え始める瞬間です。
ページで数えると「熟柿」の半分を超えたあたり、ここから「熟柿」を彩るカラーが、ずっとモノトーンで久住路母娘の登場する時だけ少し色づくだけだったのが、ようやく全体に暖色系のカラーに変わるーーそんな印象を強くします。
「熟柿」に込めた意味
「熟柿」というタイトルに著者が込めた意味は、本の装丁にも出ています。

熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つことーーこの表現のとおり、終盤に物語は動きます。ふたたび久住路母娘が登場して、高校生になった娘・咲の登場するあたりから大きく動き、読む側も息が詰まり、涙がこぼれ始め…という展開が待っています。
でも、わたしは、念願の「時機が来る」のは、かおりの内面が変化したこと、そして場面場面で登場する一条の光ーー久住路母娘やパチンコの店長、就職斡旋の女性、ホテルで出会った友人と呼べる人たちーーを誤りなく選び取ることができたこと、そのことがあってはじめて「時機」がかおりの前にめぐって来たのだと思います。
前半部で描かれるような、流されるままの人生では到達できない、かおりの内面の変化があってこそ物語のラストーー「時機が来る」ことの至福を、読者はかおりとともに噛みしめることができるのだろうと思えてなりません。
中央公論文芸賞の選評で、浅田次郎氏はこう書いています。
禍福は糾(あざな)える縄のごとしというが、けっして交互に綯(な)われてはいない。そうした真実を体現した主人公は、多くの読者が共感を寄せたはずである。
「婦人公論」11月号より
かおりはすばらしいヒロインだった。
読み終えて「かおりはすばらしいヒロインだった」とわたしも思いました。かおりの再生と成長の物語を、ぜひ多くの人に読んでもらえたらと思います。
(しみずのぼる)
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