スパイ映画の歴史に刻まれる名作『裏切りのサーカス』。ジョン・ル・カレの原作を基にした本作は、派手なアクションを排し、冷徹な心理戦と組織内の裏切りを静謐に描き出します。実在の事件を背景に持つ重厚な世界観と、引退した老スパイが「もぐら」を追う緻密なストーリーを、背景知識とともに詳しく解説します。(2023.11.27)
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目次
スパイ小説の最高峰:ジョン・ル・カレの代表作
2011年に製作された『裏切りのサーカス』(原題:Tinker Tailor Soldier Spy)のあらすじと予告編を紹介します。

東西冷戦下、英国情報局秘密情報部MI6とソ連国家保安委員会KGBは熾烈な情報戦を繰り広げていた。 ある策略により、英国諜報部〈サーカス〉を去ることとなった老スパイ・スマイリーの元に、困難な任務が下される。
それは、長年に渡り組織の幹部に潜り込んでいるソ連の二重スパイ〈もぐら〉を捜し出すこと。 標的は組織幹部の4人、〈ティンカー(鋳掛け屋)、テイラー(仕立屋)、ソルジャー(兵隊)、プアマン(貧乏人)〉。
過去の記録を遡り、証言を集め、容疑者を洗いあげていくスマイリー。浮かび上がるソ連の深部情報ソース〈ウィッチクラフト〉、そしてかつての宿敵、ソ連のスパイ〈カーラ〉の影。やがて彼が見いだす意外な裏切者の正体とは―。
キム・フィルビー事件から着想を得たスパイ小説
よく知られているとおり、ジョン・ル・カレの原作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974年)は、キム・フィルビー事件に着想を得て書かれたスパイ小説です。

キム・フィルビーは、ソ連がイギリス政府中枢部に築いたスパイ網「ケンブリッジ・ファイブ」の中心人物です。MI6の長官候補にも擬せられたほど栄達しましたが、二重スパイであることが発覚して1963年にソ連に亡命。ソ連で勲章を授与されています。
余談ですが、他のケンブリッジ・ファイブのメンバーとして、イギリス外務省勤務だったガイ・バージェスは1951年にソ連に亡命していますが、1984年のイギリス映画『アナザー・カントリー』はガイ・バージェスをモデルにしています。

ガイ・ベネットはパブリック・スクールの代表を狙い、将来はフランス大使を目指している野心家。その一方で、彼は同性愛者で別の寮にいるハーコートに恋している。そんな彼を親友で共産主義のジャドは静かに見守っている。ある日、学生2人の性的行為の現場が教師に目撃されてしまい、学内は規律を厳しくする方向に傾いていく。やがて目立つガイを快く思わない者が同性愛を理由に彼への批判を高めていく…。

リアリズムを追求した冷戦下の重厚な諜報戦の世界観
映画『裏切りのサーカス』が優れているのは、原作に忠実でありながら、ある意味、原作以上に諜報戦の世界観を見事に浮かび上がらせている点でしょう。
正直に打ち明けると、映画を見てからは、主人公のジョージ・スマイリーはゲイリー・オールドマン、スマイリーの協力者であるピーター・ギラムはベネディクト・カンバーバッチ以外の顔が思い描けなくなりました。
カンバーバッチ演じるギラムがMI6内の倉庫から保安日誌を盗み取るシーンは、この映画でもっともスリリングなシーンです(予告編で「もし捕まっても、わたしの名前はいうな」とスマイリーが釘を刺す場面です)
コードネームに隠された「もぐら」を炙り出す特命
この2人以外にもはまり役が勢ぞろいです。
例えば、MI6の元チーフ「コントロール」を演じたジョン・ハート。
コントロールはMI6の幹部にソ連のスパイーーもぐらがいると疑念を強め、ハンガリー(原作ではチェコスロバキア)に工作員ジム・プリドーを送り込む。
ハンガリーの将軍が亡命したがっている。
彼は重要な情報を持っている。もぐらの名前だ。
サーカス幹部の誰かだ。
ソ連が英国諜報部に送り込んだスパイだ。
コントロールはプリドーにもぐらの名前を暗号名で伝えるよう指示する。
- ティンカー(鋳掛け屋)
- テイラー(仕立屋)
- ソルジャー(兵隊)
- プアマン(貧乏人)
- ベガーマン(乞食)
ベガーマンの暗号名を与えられたのは、コントロールの右腕スマイリー。そこまで徹底して内部を疑い、ハンガリーの極秘作戦を独断で敢行するも、それ自体がソ連の欺瞞で、プリドーは狙撃され、コントールは作戦の失敗の責任をとって失脚。スマイリーも引退を余儀なくされる。
しかし、まったく別のところから「サーカスにもぐらがいる」「モスクワ・センターは大笑いしている」という情報が、MI6のお目付け役である外務次官のもとへ寄せられ、スマイリーが極秘調査を命じられるーー。
組織内部に潜む裏切り者を見極めるための孤独な捜査
〈コントロール=ジョン・ハート〉と並ぶはまり役が、コニー・サックス役のキャシー・バークです。
コニー・サックスはMI6で「サーカスの”調査の女王”」と言われたソ連担当の調査員。コントロールの失脚、スマイリーの引退からほどなく解雇され、スコットランドの家に引っ込んでいるところにスマイリーが訪れる(ここは原作から引用しましょう)
「いけない坊やが、コニーになんの用なの」
「記憶を借りたい」
「なんの記憶を」
「少々古い領域にもどる」
「フラッシュ、きいた?」スパニエルに大声で呼びかけた。「古びた骨を一本あたえて放り出したのが、いまになって頼みごとにきたんだって。どの領域よ、ジョージ」
コニーはソ連大使館員で文化アタッシェを務めるポリヤコフが元軍人であり、KGBの諜報トップ〈カーラ〉が送り込んだスパイであると主張する。しかし、MI6の上層部は無視を決め込み、代わりにコニーを解雇した。
なぜポリヤコフがカーラの”私設軍隊”の一員であるとにらんだか、当時の記憶を洗いざらいスマイリーに説明し終え、コニー宅を去るスマイリーに声をかける(ここは映画のセリフから)
私は正しかったのね。
ポリヤコフのこと。
もぐらがいるのね。
余韻を残すエンディング曲「ラ・メール」の選曲意図
映画では、コニー・サックスが「古き良きサーカス」「私の坊やたち」と回顧する往時のパーティーの場面が何度か挿入されるのですが、映画のエンディングもまたそのパーティーの場面で終わります。
フリオ・イグレシアスの「ラ・メール」が流れるパーティーの場面は、原作にはまったく出てきません。でも、パーティなのに儚げなエンディングはとても映画の締めくくりとしてあっていて、このシーンをユーチューブで流している人も多くいるほどです。
誰がもぐらなのか、そのあたりは映画を観るか、原作をお読みいただくとして、ジョージ・スマイリーやピーター・ギラムのことを書きましょう。
スマイリー3部作:宿敵カーラとの長きにわたる闘い
「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」は《スマイリー3部作》の1作目で、2作目『スクールボーイ閣下』(1977年、原題:The Honourable Schoolboy)、3作目『スマイリーと仲間たち』(1979年、原題:Smiley’s People)と続きます。

ソ連情報部の工作指揮官カーラの策謀で、英国情報部〈サーカス〉は壊滅的打撃を受けた。だが、その長に就任したスマイリーは、即座に反撃を開始する。〈サーカス〉の膨大な記録を分析し、カーラの弱点を解明しようというのだ。そこで浮かび上がったのは、パリから東南アジアへと伸びる極秘送金ルート。その受取人を突き止めるべく、スマイリーは臨時工作員ウェスタビーをルートの終着地、香港に派遣した! (『スクールボーイ閣下』上・下、ハヤカワ文庫)

将軍と呼ばれる老亡命者がロンドンで殺された。将軍は英国情報部の工作員だった。醜聞を恐れる情報部は、彼の工作指揮官だったスマイリーをふたたび引退生活から呼び戻し、後始末を依頼する。将軍は死の直前に、ある重要なことをスマイリーに伝えようとしていた。彼の足どりをたどるスマイリーは、やがて事件の背後に潜むカーラの驚くべき秘密を知る! 英ソ情報部の両雄が、ついに積年の対決に決着をつける! (『スマイリーと仲間たち』、ハヤカワ文庫)


『寒い国から帰ってきたスパイ』から続く冷徹な系譜
ジョン・ル・カレの出世作でベストセラーとなった『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963年、原題:The Spy Who Came in from the Cold)には、「コントロール」の指示で東ドイツに送り込まれる主人公アレック・リーマスの(かつての?)同僚としてスマイリーもギラムも出てきます。
処女作『死者にかかってきた電話』(1961年、原題:Call for the Dead)はスマイリーが主人公で、ギラムも(『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』でギラムとともにスマイリーの協力者として登場するロンドン警視庁の)メンデルも登場します。

ベルリンの壁を境に展開される英独諜報部の熾烈な暗闘を息づまる筆致で描破! 作者自身情報部員ではないかと疑われたほどのリアルな描写と、結末の見事などんでん返しとによってグレアム・グリーンに絶賛され、英国推理作家協会賞、アメリカ探偵作家クラブ賞両賞を獲得したスパイ小説の金字塔! (『寒い国から帰ってきたスパイ』、ハヤカワ文庫)

スパイの容疑をかけられたがゆえの自殺、外務官僚フェナンの死はそう断定された。だが、英国諜報部員スマイリーは釈然としなかった。すでに疑いが晴れたことは本人も承知のはずである。やがて判明した事実に彼の疑念は裏づけられた。死亡当夜、フェナンは翌朝のモーニング・コールを依頼していたのだ! 調査を開始したスマイリーの行く手にはやがて東ドイツ諜報部の黒い影が浮かび上がる。 (『死者にかかってきた電話』、ハヤカワ文庫)


ファン待望の続編小説『スパイたちの遺産』の衝撃
そして、2017年に出版された『スパイたちの遺産』(原題:A Legacy of Spies)は、なんとピーター・ギラムが主人公で、スマイリーが現役時代の事件ーー『死者にかかってきた電話』と『寒い国から帰ってきたスパイ』の真相を描いています。

引退した元スパイ、ピーター・ギラムは、かつて所属していたイギリス情報部から緊急の呼び出しを受けた。冷戦期、作戦中に射殺された同僚の子供たちが、親の死亡原因はギラムとジョージ・スマイリーにあると訴え出たのだ。だが、スマイリーの行方は知れず……。傑作『寒い国から帰ってきたスパイ』『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』、世紀を超えた続篇! (『スパイたちの遺産』、ハヤカワ文庫)

ここで挙げたジョン・ル・カレのスパイ小説群は、読み始めたら途中で止めるのが難しいほど、物語世界に浸れる傑作ばかりです。
映画『裏切りのサーカス』を大いに楽しみ、《ジョージ・スマイリ=ゲイリー・オールドマン》と《ピーター・ギラム=ベネディクト・カンバーバッチ》にはまったら、そこから一気にル・カレが紡ぐスパイ小説の世界に足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。
(しみずのぼる)
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