天才画家の評伝から探りあてる恐るべき真実…松本清張「装飾評伝」

天才画家の評伝から探りあてる恐るべき真実…松本清張「装飾評伝」

同じ文章なのに真相を知るとまったく違った意味が浮かびあがってくるーー。そんな仕掛けを施したミステリー短編を紹介します。昭和を代表する推理作家、松本清張の「装飾評伝」です(2026.1.26) 

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昭和を代表する推理作家

松本清張の代表作と言えば「点と線」(1958年)「ゼロの焦点」(1959年)「砂の器」(1961年)あたりでしょうか。ほかにも「眼の壁」(1958年)「波の塔」(1960年)……と数多くの長編小説を量産していて、わたしも大学生のころに新潮文庫やカッパブックス(光文社)など次々に読み漁った記憶があります。 

しかし、「松本清張の魅力は短編にあり!」という人も多いのではないでしょうか(確か宮部みゆきさんがそう書いていたような記憶が…) 

わたしも松本清張は初期の短編が好きで、新潮文庫から出ている6冊の初期短編集ーー「或る『小倉日記』伝」「黒地の絵」「西郷札」「佐渡流人行」「張込み」「駅路」ーーがいちばん再読率の高い文庫です。 

この6冊に収められた短編群は、芥川賞を受賞した「或る『小倉日記』伝」(1952年)、悲劇の女流俳人・杉田久女のモデル小説とされる「菊枕」(1953年、「或る『小倉日記』伝」所収)、映画にもなった「鬼畜」(1957年、「張込み」所収)……と傑作揃いですが、もしひとつだけ選べと言われたら、わたしは断然「装飾評伝」(1958年、「黒地の絵」所収)を挙げます。 

早世の天才画家がモデル?

私が、昭和六年に死んだ名和薛治のことを書きたいと思い立ってから、もう三年越しになる。或る人からその生涯のことを聞いて、それは小説になるかもしれないとふと興味を起こしたのが最初だった。 

「装飾評伝」はこんな書き出しで始まります。 

今では、名和薛治の名は、その独自の画風の理由で有名だし、遺作展も度々ひらかれて、一般向きの画集も出ている。彼の在世記録も一部ではそうだったが、現在では彼が強烈な個性をもった天才であったことを、画壇を含めて世間の大ていの人が認識している。その上に彼の晩年から四十二歳の死に至るまでの一時期の生活の妙な崩れ方を入れると、異端の画家としてはまず申し分のない大物といえるのであった。それに彼は生涯独身であった。 

「或る『小倉日記』伝」も「菊枕」もそうですが、実在する人物の生涯をもとに創作したモデル小説を次々発表していた時期の作品であることに留意してください。 

名和薛治について、私が小説になるかもしれないと思ったのは、彼のその晩年の退廃的な生活と、冬の北陸路の断崖から堕ちた最期の部分であった。彼はその画題を求める為によく旅行していた能登半島の西海岸にある福浦という漁村に近い海岸の絶壁から足を滑らせて墜死した。 

きっとこのあたりでモデルは誰だろう?と思うはずです。昭和4年に38歳の若さで亡くなった岸田劉生を思い浮かべた人も多いでしょう。 

冬の日本海に身を投じた最期

ボッシュやブリューゲルの影響を強く受けて、北欧の幻想的な画を描いていた彼が、その愛好する冬の暗鬱な雲の下に拡がっている黝(くろ)い海に身を投じた最期を想像すると、私には名和薛治を一度は調べて書いてみたいという気持ちが動いたのである。 

「私」は名和薛治のことを小説に書くなら芦野信弘の話を聞いておきたいと思っていたが、芦野の死亡記事を目にして「口の中で声をあげて、しまった、と思った」 

というのは、私が名和薛治を怠惰ながら少しずつ調べて知ったことだが、芦野信弘ほど名和薛治の生涯に随伴した親友はいなかった。 

からだった。芦野は若い時に同じ下宿で暮らし、ある時は隣家同士で住み、芦野ほど名和を詳細に知る者はいなかった。 

彼は『名和薛治』という評伝めいた本を出しているが、惜しいことに頁が薄い。然し、名和薛治のことを書いた他のすぐれた美術批評家の著書の悉くが芦野信弘著のこの小著を参考としているのである。 

拒絶する芦野の一人娘

芦野信弘の死で小説の執筆をいったんは諦めた「私」だったが、芦野の未発表の原稿があるかもしれないと思い、芦野の一人娘の陽子に会いにいくことにした。 

しかし、陽子はつれなかった。 

「そんなものは父に遺っていません。名和先生についてはあの本があるだけです」 

「父からは何にも名和先生の話は聞いていません。父は無口で、あんまり話を好まない性質でした」 

明らかに拒まれていると「私」は感じた。芦野の別れた妻のことも訊ねたが、 

「わたしが母と別れたのは三つの時でしたから分かる筈もありません」 

とにべもなかった。 

懊悩…彼が行き詰っている

この後、名和薛治の美術史上の功績や生涯、特に晩年の破綻を予感させる日々について、芦野信弘の残した評伝を引用しながらページを進めます。 例えば芦野の評伝から、次のような文章を引用しています。

私は一週間に二度くらいは青梅に行った。彼は一ころのように仕事をあまりしないで、大てい家にごろごろしていた。機嫌のいい時もあり、悪い時もあった。 

酔うとかなり乱暴なことを言ったが、それはどこか懊悩じみていた。私は彼が行き詰っていると思った。それは次の年にはじまる彼の放浪生活の前兆なようなものだった。 

機嫌の悪い時は、私でさえも雇い女に面会を拒絶させた。私は遠い道を長い時間電車に揺られて帰ったが、それでも三日目には彼に逢いに行かずには居られなかった。私は青梅に何度無駄足を踏んだか分からないが、少しも苦にはならなかった。時には陽子を抱いて行ったーー 

名和薛治のことを最もよく知る芦野はすでにこの世におらず、芦野の一人娘にも話を聞くことがかなわず、それでも「私」は、名和の晩年ーー二年にわたる放浪と困窮、ボッシュに触発された地獄絵図のような妖怪画ーーの謎を探ろうとする。 

彼の画面における生命の急激な衰退は事実だし、それが生活の崩壊と繋がるのは明瞭だった。だが、彼の敗北の原因は何か、ただ芸術の漠然たる行き詰りだけなのか、芦野の文章には、名和が懊悩している状態は覗かせてはいるが、確たるその辺の説明がない。 

「あの細君も自殺したね」

「私」は新聞社の友人の紹介で、名和とわずかながら交流のあった画家・葉山光介の家を訪ねた。 

「君は芦野の本読んだかね?」
ときいた。私が読んだというと、彼はうなずいて、
「名和のことはあれに書かれた通りだ」
と言った。そのほかに言うことはないと断言しているようだった。
私は芦野さんから、あの本以外のお話を伺おうと思っていたのですが、亡くなられて残念です、と言うと、葉山はそのときだけ強い眼で私を凝視した。
「芦野は会えたとしても何も話すまい」

その口ぶりに含みを感じた「私」が理由を訊ねると、「いや、彼は話したくないだろう。芦野も名和と知り合って駄目になった気の毒な男だ」と呟いたあと、こう付け加えた。 

「あの細君も自殺したね」 

同じ文章なのに違って読める

わたしは冒頭に、 

同じ文章なのに真相を知るとまったく違った意味が浮かびあがってくる 

と書きました。 

葉山の何気ない一言から「私」が気づいた真相と、芦野の残した評伝に書かれた文章が「まったく違った意味」を持つことが浮かび上がってくる醍醐味は、ぜひとも「装飾評伝」を読んでお確かめください。 

歴史家を錯覚させたリアリティ

最後に、「装飾評伝」を収めた「黒地の絵」の巻末に載る解説(筆者は文芸評論家の平野謙氏)から、歴史学者の桑田忠親氏が「装飾評伝」の読後感を新聞に寄稿したエピソードを紹介しましょう。 

一画家のなにげない評伝から、著者がおそるべき真実をさぐりあてたその眼光には、感服のほかなかった。ひとりの歴史学者として、著者のような史料の読みかたには訓えられるところが多い。いわゆる一等史料だけがたいせつなのではない。一見価値の乏しいような史料から、歴史の真実をさぐりあてる著者のような眼光紙背に徹する態度こそ、私ども史家の学ぶべきものにほかならぬだろう 

桑田氏の寄稿の内容を紹介した平野氏は、桑田氏が「装飾評伝」をモデル小説と錯覚した点に触れて、次のように指摘しています。 

私はここで歴史学者の迂闊を嗤おうとするものではない。反対に、ひとりのすぐれた歴史家をさえ一杯くわせたところに、この作品のリアリティの保証をみたいと思うものである。 

こんなエピソードまで残した「装飾評伝」です。ぜひ読んでみてください。 

(しみずのぼる) 

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