きょう紹介するのは夢枕獏氏の小説「陰陽師 生成り姫」(文春文庫)です。人はなぜ鬼になるのかーー。哀切あふれる物語に涙をとめるのが難しくなる小説です(2025.2.11)
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シリーズ初の長編小説
夢枕獏氏の「陰陽師」シリーズはものすごい冊数になっていて、わたしも最初の頃は出版されるたびに読んでいたのですが、いまはとても追いつけません。でも、いつか読破したいと思っているシリーズです。
文藝春秋の特設サイトから、シリーズの作品紹介をそのまま引用します。
死霊、生霊、鬼などが人々の身近で跋扈した平安時代。陰陽師安倍晴明は従四位下ながら天皇の信任は厚い。親友の源博雅と組み、幻術を駆使して挑むこの世ならぬ難事件の数々。
文藝春秋特設サイト
きょう紹介する「陰陽師 生成り姫」は朝日新聞の夕刊に連載された新聞小説で、2000年に朝日新聞社から出版され、2003年に文春文庫から出版された、シリーズ最初の長編小説です。
そのため、主人公の安倍晴明と親友の源博雅のことも詳しく紹介されていて、最初に手に取る一作としても適しています。そのあたりの事情を、夢枕獏氏はあとがきで次のように書いています。
この朝日新聞社版『陰陽師』では、
「陰陽師とは何かーー」
というそもそもの始めから物語をはじめることにした。
「朝日新聞」の読者の大多数にとって、まず”陰陽師”という言葉自体が耳慣れぬものであろうと考えたからである。

うーん、インテリ層が好む朝日の読者だって、夢枕獏ファンはいると思うけどなぁ
と思いましたが、ともあれこういう事情で、シリーズ物でありながら、それまでの出版物を読んでなくても楽しめる一作になったというわけです。
丑の刻参りに使われる鉄輪
でも、「生成り姫」の魅力を語るうえで、安倍晴明(序の巻)や源博雅(巻ノ一)のことを紹介していたらきりがありません。ここはいきなり「鉄輪」(巻ノ五)の章から入ります。
「鉄輪」(かなわ)とは、ささやななえこさんの少女ホラー漫画で紹介したとおり、「丑の刻参りなど呪詛に使われる小道具」のことです。

安倍晴明と源博雅のいるもとへ壊れた琵琶が持ち込まれた。
その琵琶は12年前、笛の名手の博雅が夜に笛を吹いていると、牛車に乗った名も知らぬ姫が音を合わせた琵琶の音色だった。晴明は貴船神社に人をやり、変わった様子がなかったか探らせると、
「ひとりの女が、夜毎に、手に人形(ひとがた)と金槌を持ち、宮にやってきては、おかしなことをしてゆくのです」
「人形を、宮の周りにある大きな杉の幹にあて、その人形の顔と言わず胴と言わず、五寸の釘を打ちつけてゆくのですよ」
神社の者たちは、呪詛の手伝いをしていると噂になることを恐れた。そこで一計を案じた。龍神が夢の中に出てきて「汝が願い聞きとどけたり」と告げよ、と命じられたと女に言い、こう付け加えたという。
「身には赤き衣を裁ち着、顔には丹(に)を塗り、髪には鉄輪(かなわ)を戴き、三つの脚に火を灯し、怒る心をもつならば、すなわち鬼神となるべし……」
神社には2つの人形(ひとがた)が落ちていた。藁の人形には「藤原済時」と書かれた紙、木の人形には「綾子」と書かれた紙が貼りつけてあった。折しも清明は、藤原済時(なりとき)から「自分に恨みを抱く者が呪詛している」と相談をかけられていた。
すると、綾子という名の姫が亡くなったという知らせが入った。「昨夜、丑の刻、何者かに首をねじり取られて、お亡くなりにあそばされました」
清明と博雅は姫の屋敷を訪れ、事情を知る者に昨夜の様子を訊ねた。
「凄い力の鬼でな。門を蹴破り、蔀度(しとみど)を打ち破って、中へ入ってきたのさーー」
「貌は真っ赤。赤い破れた衣を身に纏い、頭には、脚に火を灯した五徳を被っていたではないかーー」
鬼は姫の髪をつかむなり、「あら憎らしやこの女。我が夫(つま)ばかりか、琵琶までもーー」と言うや、首を三度回転させた。
「おう憎らしや、おう恨めしや」
頬肉に歯をあて、眼玉を音をたててすすった。
ねじ切った綾子の首を抱えたまま、女は、おうおうと、悦びの声とも泣き声ともつかぬ声をあげた。
次に危ないのは済時だった。清明と博雅は済時の屋敷に赴き、鬼と化した女の心当たりを訊ねた。
「十二年ほどの前のことです。想うお女(かた)があって、前々から文をやったり届けものをしたりしていたのですが、なかなか色よい返事をいただけませんでした。堀川小路の五条に近い辺りに屋敷があり、そこに住んでいた、徳子という姫でした……」
徳子姫は没落貴族だった。父母の死ととも屋敷が荒れ、弟も流行り病で亡くなり、屋敷の者の手引きもあって済時はようやく徳子姫と会うことができた。
「御様子では、姫にもひそかに想う方がおられたようなのですが、お逢いしたらばわたしを気に入って下さって、通うようになったのです」
しかし、五年ほど前から自然に足が遠のき、済時は綾子姫のもとへ通うようになった。徳子姫の父母の形見だった琵琶も、強く所望されて綾子姫に渡してしまったという。

自分の蒔いた種だよな…いまも昔もこういう男っているんだなあ…
生成りと化した姫
そして丑の刻。鬼と化した徳子姫が済時の寝所に現れた。布団に寝ているのは「済時」と書いた紙を貼った藁人形。結界を張って徳子姫には見えないようにして、済時、清明、博雅がかたずをのんでいると、徳子姫は藁人形に近づいた。
「やれ嬉しや……」
「そこにござりましたか、済時さま……」
「あら、恋しや憎らしや、久かたぶりに見るその姿ーー」
「こうしてまたお姿を見れば、おなつかしや、切なや、苦しやのう……」
徳子姫は、顔に塗られた丹と混ざって血のような涙を流しながら、歌い始めた。
〽捨てられて
捨てられて「つい思うてしまう、思えば苦しい。思えば切ないーー」
踊り出した。〽思ふ思ひの涙に沈み
思ひに沈む恨みの数「積もって執心の鬼となるも理(ことわり)やーー」
そういって綾子の首を藁人形のほうへ放り投げた。
「ほうれ。もう、あなたのお慕いあそばされた綾子殿は、もう、この世にはおりませぬ。ああ、よい気味、ああ、よい気味ーー」
しかし、恐怖のあまり、済時は声を出してしまった。結界が破れた!
ここからの展開は本書を手に取ってお確かめ頂きたいのですが、鬼と化した徳子姫を人の側にとどまらせるのは、かつて笛と琵琶を合わせ、徳子姫も秘めた想いを寄せた博雅です。
博雅が琵琶の音を鳴らすと、徳子姫は済時を放し、音の聴こえてくる方を見やった。
博雅の上で止まった徳子の眼の中に、ふっ、と一瞬正気の色がもどった。
「博雅さま……」
徳子が、博雅が知っているあの声でつぶやいた。
「徳子姫……」
徳子は突然叫び、身をよじった。
「今の……」
やっと、徳子は言った。
「今のあれをごらんになったのですね」
「ーー」
「今のわたくしをごらんになったのですね……」
博雅は、答える言葉を持っていなかった。「おう……」
「おう……」
慟哭した。
「恥ずかしや」
「恥ずかしや」
こうして徳子姫は「生成」(なまなり)に転じてしまいます。
嫉妬に狂った女が鬼に変じたのが般若である。生成というのは、まだ女が般若になりきる手前の状態にある存在を指す言葉である。
人であって人でないもの。
鬼であって鬼でないもの。
その生成に、徳子は変じていたのである。
「そなたが愛しいのだよ」
生成と化した徳子姫の最期ーー博雅のやさしさに涙をとめるのが難しくなります。
「取りて、喰おうと思うたに……」
「取りておれを喰え。我が肉を喰(くら)え」
「ああ、できませぬ。博雅様を取りて啖うなどというおそろしいことはーー」「博雅様、泣いていらっしゃるのですかーー」
「そなたが、愛しいのだよ」
12年前、笛と琵琶を合わせていれば幸せだったふたり。お互いに想いを寄せながら、すれ違ってしまったふたり。 12年前に戻れたら……。そんな哀しみが徳子の言葉にこもった。
「こんなに、わたくしは歳をとりました……」
「歳をとられたそなたが愛しいのだよ」
「皺が増えました」
「増えたそなたの皺が愛しいのだよ」
「腕にも、腹にも、顎の下にも肉が付きました」
「付いたそなたの肉が愛しいのだよ」
「このような姿になってしまっても?」
「はい」
「このような貌になってしまっても?」
「はい」
「このような鬼になってしまっても?」
「はい」
博雅はうなずき、
「わたしは、鬼であるそなたが愛しいのだよ」
いかがですか。生霊が出てきても、鬼が出てきても、これはホラー小説ではなく、哀しい愛をせつなく描いた恋愛小説だと思えませんか?
人は自ら鬼になる
最後に清明と博雅の「鬼」に関する問答を紹介しておきましょう。
「その姫が鬼であったにしろ、なかったにしろ、神が人を鬼にするのではないぞ」
「ほう……?」
「博雅よ、人は自ら鬼になるのだ。鬼にならんと願うのは人よ。貴船の高龍神も闇竈神も、人にわずかの力を貸すにすぎぬ」「人と、鬼とは、ふたつにわかつことができぬものだ。人あらばこその鬼で、鬼あらばこその人なのだよ」
「ーー」
「博雅よ。これは、五徳の姫だけではない。人は誰でも、時に、鬼になりたいと願うことがあるのだよ。誰でも皆、心には鬼を棲まわせているのだ」
人は自ら鬼になる。誰でも心に鬼を棲まわせている……。
ささやななえこさんの少女ホラー漫画「生霊(いきすだま)」や「鉄輪」を読むと、平安の時代から現代にまで通じる清明の言葉が心の奥深くに沁みてきます。
哀切きわまりない「生成り姫」は、前述のとおり、夢枕獏氏の「陰陽師」シリーズの最初の一冊としても最適です。ぜひ手に取ってみてください。
(しみずのぼる)
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