きょう紹介するのはSF作家グレッグ・ベアの短編「タンジェント」です。四次元空間の視覚的イメージを研究する老科学者と音楽好きの少年が”発見”する四次元の世界を文章にしたもので、SF界の賞を総ナメした傑作です(2024.8.20)
〈PR〉
おうちでトランポリン目次
ヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞
「タンジェント」(原題:Tnagents)は1986年に出版され、優れたSFに贈られるヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞した、いわゆるダブル・クラウンです。
ヒューゴー賞、ネビュラ賞についてはこちらの記事をごらんください
SFでもホラーでもない…ジョン・ヴァーリィ「PRESS ENTER■」
手元にある山岸真氏が編纂した「グレッグ・ベア傑作集 タンジェント」(ハヤカワ文庫SF)の奥付をみると、1993年11月発行とあるので、かれこれ30年以上前に読んだSFです。
カリフォルニアの草原の古びた農家で、少年は四次元空間の視覚的イメージを研究する老科学者と出会った。四次元空間では立方体や球はどんなふうに見えると思う? そう問いかけられた少年には、実際に四次元空間が見えていた! もともと音楽好きの少年は、四次元空間へ音楽のメッセージを送るのだが……
自死した天才数学者がモデル
きょうひさしぶりに本棚から取り出して、喫茶店で再読したら、
あれ? これはアラン・チューリングのこと? それとも実在の人物?
と疑問に思いました。
老科学者の名前(本名はピーター・ソーントン、偽名はタシー)をネット検索しましたが、それらしき人物名はヒットしません。再読し終えて、山岸氏の解説をみると「ピーターのキャラクターはアラン・チューリングをモデルにしている」と書いてありました。やはり……。
アラン・チューリングは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツの暗号機械「エニグマ」の解読に成功しながら、戦後、同性愛者であることを暴かれて自殺したイギリスの天才数学者です。
チューリングの栄光と悲劇を含めて暗号の歴史を描いた傑作ノンフィクション、サイモン・シンの「暗号解読」(上下巻)が新潮文庫から出版されたのは、2007年のこと。そして、ベネディクト・カンバーバッチがチューリング役を務めた映画「イミテーション・ゲーム」が製作されたのは2014年のことです。
ですから、グレッグ・ベアの「タンジェント」をはじめて読んだ1993年時点では、わたしはアラン・チューリングのことをまったく知りませんでした。
やっぱり再読っていいなあ…知らない間に知識が増えて、ぜんぜん気づかなかった読後感が味わえるんだ!
というふうに、ちょっと感動したので「タンジェント」を紹介しようと思ったのです。
難易度高い四次元の描写
まだ前置きが続きます(すみません)
わたしは以前、音楽系のライターをされていた方に「音や匂い、味を文章で表現するのは難しいんだよね」と言われたことがあります。
なるほど確かにそうですね。読み手がその文章を読んで、自身の記憶から情報を引き出し、脳が意識する…というプロセスとなりますから、例えば、ビールの一杯目を美味しそうに飲む描写なら、ビール党なら思わず喉がごくりとしますし、まったくアルコールを受けつけない人なら何も感じない…というように、読み手の経験や記憶に依拠した文章になります。
とすると、誰も経験したことのない「四次元の世界」を文章で描写する……というのは、人の経験や記憶に頼れず、それでも読み手にイメージさせないといけないわけで、これは難易度のきわめて高い文章になるはずです。
漢字とルビで表現した名訳
「タンジェント」の面白さは、その四次元空間の描写にあります。
「いまね、ピーターにプログラムの使い方を教わっているんだ」パルがいった。
「知っているかね?」とっておきのケンブリッジの教授ふうの発音で、タシーは説明した。「立方体が平面と味わると、その断面はいろいろな幾何学的図形をなすんだよ」
(略)
「立方体が平面をつきぬけるとき、その平面に住んでいる二次元人から見てーーこいつを平面人と呼ぼうーーその形はさまざまに変化する。三角形、長方形、台形、平行四辺形、正方形……そういったぐあいだ。立方体が平面をつきぬけるところを、二次元人が最初から最後までずっと見ていたとすると、そのつきぬけかたによっては、それがしだいに大きくなって、唐突に形を変え、また縮んでいき、最後に消えてしまうように見えるはずだ」
三次元と接点(タンジェント)を持った二次元の説明をしたうえで、ピーターは続けた。
「では、四次元立方体がこの三次元空間に侵入してきたら、いったいどんなふうに見えるだろう?」
最初は「わかんない」と答えたパルという名前の少年は、ピーターが翌日もディスプレイを前にして「四次元の球が三次元空間に侵入してきたとしよう。すると、どんなふうに見えるかな?」と訊ねると、少し考えてからこう答えた。
「へんてこな形だよね」
「そうでもないさ。そのイメージを視覚化したところは、さっき見せたじゃないか」
「あ、三次元空間での話かあ。それなら簡単。風船みたいなのがどんどんおっきくなって、それからまたちぢんで消えちゃうんだよ。でも、四次元で四次元球がどんな形に見えるかっていうと、よくわかんない。つまり、●(りだひ)がね」
「●(りだひ)?」
●は「左」を反転させた文字です。だから「りだひ」
訳者は酒井昭伸氏(*)です。これは名訳ではないでしょうか。英語の原典にあたっていないので想像で書きますが、きっとtfelと書いてあるのではないでしょうか。left(左)のアルファベットを後ろから表したスペルと想像します(あるいは、leftの4文字がそれぞれ反転しているか、そのどちらかでしょう)
英語はアルファベットしか表記文字がありませんが、日本語は漢字もあればひらがなもカタカナもあります(3種類の表記文字を使うのは、世界広しと言えど日本語だけです)
だから「左」を反転させた文字に「ひだり」を逆さに読んで「りだひ」のルビをふるーー。そんな芸当を思いついたのではないでしょうか(想像で書いているので、違ったら許してください)
(*)元の文章は編者の山岸真氏の訳だと記述していました。ご指摘があり修正しました(2024.8.20 7:32)
「タンジェント」の引用に戻りましょう(●はすべて反転文字。ルビで想像してください)
「ほんとうに見えるのか?」
「●(りだひ)?」
「そうだよ。●(りだひ)と●(ぎみ)。●(えう)と●(たし)。ほんとはなんて呼ぶのか知らないけど」
タシーはしげしげと少年を見つめた。どちらも戸口のローレンには気づいていない。
「専門用語では、古代ギリシャ語の”上”と”下”からとって、”アナ”と”カタ”というんだ。それはどんな形をしてる?」
パルが絵を描いて説明すると、パシーは訊ねた。
「ほんとうに……それが見えるのか?」
「うん。だって、そのためのーーそれを見えるようにするためのプログラムなんでしょ?」
パシーは同居するローレンに向かって「あの子は四次元の形状が見えるらしい」と説明し、その日からタシーは、四次元空間がどう見えるか、パルを質問攻めにした。
「頭のなかでは見えるんだけど、でも……」
「じゃあ、そっちの方向にはなにが見える?」
パルは目をすがめた。
「すっごく大きいもの。ぼくらが住んでるところは、ほかのいくつもの場所の上に積み重なってるみたい。なんだかさびしい気持ちになってくる」
「なぜ?」
「だってぼくは、ここに縛りつけられてるんだもの。あっちの人たちは、だれもぼくらに注意をはらわないし」
タシーはごくりとつばをのみこんだ。
「いままで、たんにその方向を直感的にとらえているだけだと思ってたんだがーー。まさかーーほんとうに向こうが見えているのか?」
「うん。あっちにも人がいるよ。正確には人じゃないけど。ぼくの目が見てるんじゃないんだ。目は筋肉とおんなじでーーあっちを見ることはできないから。でも頭はーーたぶん、脳だねーー見えるんだ」
そして音楽好きのパルは提案した。
「向こうの人たちに、音楽を弾いて聞かせたいんだよ。ぼくらの存在に気づくように」
シールがはぎとられるように
パルは数日かけて自作の曲を完成させた。バッハのカノンに似た、主旋律と対旋律で構成した曲だった。パシーは一晩中、プログラムをつくってパルの曲を流しつづけた。そして翌日、それは突然起こった。
そのときだったーー一階からローレンの悲鳴が聞こえてきたのは。
パルとタシーはもつれあうようにして階段を駆けおりた。ローレンはリビングルームの真ん中で、胸を抱きしめて立ちつくしており、片手で口を押さえていた。リビングルームの床と東の壁の一面には、彼らが侵入してきたあとがあった。
「なんてぶきっちょなんだ」とパル。「彼らのひとりがぶつかったんだよ、これ」
(略)
だしぬけに、タシーのすぐそばに、直径一ヤードほどの、薄膜でできたような明るいブルーの球が出現し、急速にふくれあがり、ねじくれ、凍りつきーー瞬時に消滅した。
「いまのはひじみたいだった」パルが説明した。「腕の一本だよ。たぶん、音楽がどこから聞こえてるのかしらべてるんだ。ぼく、二階にいってくる!」
パルは違うメロディで音楽を奏でた。「あの人たちにはね、三次元だとものがはっきり見えないんだよ」と言っていると、
そのとたん、まるでシールがはぎとられるように、トロンクラヴィア、コーン、それにつながるすべての配線が、三次元からすーっとはぎとられだしたーーちょうど平面に張ったラベルが急いではぎとられていくように。
「あっ!」パルの顔に、警戒するような表情がうかんだ。
つぎは少年の番だった。パルの場合は、もっとゆっくりと、ずっとていねいにはぎとられていった。からだが徐々に消えていく。最後に頭だけが残った。頭だけになったパルは、そのまま数秒間、宙に浮いていた。
「なんだか、あの曲が気にいったみたいだ」にっこり笑って、パルがいった。
その笑みとともに、すうっと消えた。タシーにもローレンにも目では追うことのできない方向へと落ちていったのだ。
いかがですか。四次元と三次元が接点を持ったらきっとこうだろう…という場面がとてもよく描けているように思いませんか。
孤独な老科学者と少年
パルがパシーとローレンの家を訪れるようになったのは、養い親から一日中家にいるといい顔をされないためだった。パルは韓国人だったが、本当の名前は「おまえは養子にきたんだから」という理由で使うことを禁じられていた。
そんなパルだから、ピーターの孤独も理解ができた。
「ーーねえ、ピーター? ピーターは……ほんとはここに居場所がないんじゃないの?」
パルは図書館で「エニグマ」や「ウルトラ」(しみず注=イギリスの暗号解読チームのこと)のことを調べたと明かした。
「そのうちに、ピーター・ソーントンという人物の説明に出くわしたんだ。その写真の人はピーターにそっくりだった」
「その人はなにかの事件で訴えられて、一九六五年に失踪したって」
ピーターは「わしは……ホモなんだよ」と言って、イギリスで刑務所送りになるところを、ローレンの手助けによってカナダ経由でアメリカに密入国したことをパルに打ち明けた。
「……そのとおりだよ。たしかにわしは、ここに自分の居場所があるとは思っていない」
「ぼくもだ。家族はあんまりかまってくれないし、友だちもそんなにいないし。ここで生まれたわけじゃないし、といって、韓国のことはなにも知らないし」
「おいでよ、こっちは楽しいよ」
こんなふたりだからこそ、物語のラストで、四次元空間に消えたパルがふたたび現れる場面はとても感動します。
ふいに、タシーのそばに薄膜でできたような不定形の青い風船が出現し、直径四フィートほどにふくれあがって、振動しながら宙にただよった。三人があとずさった。その風船の中央に、ひょいとパルの顔が浮かびあがり、つづいて異様に引きのばされた片腕が現れた。タシーは風船に顔をちかづけて、パルの顔を見つめた。パルの手がおいでおいでのしぐさをした。
「おいでよ、こっちは楽しいよ」と、パルはいった。「みんな親切にしてくれるよ」
孤独な老科学者が選んだ結末は……。これはもう、書かなくてもわかるでしょう。
モデルとなったアラン・チューリングが自死を選んだことを知るだけに、筆者のグレッグ・ベアが用意したエンディングは、とても温かな印象を抱かせてくれます。四次元空間の描写とともに「タンジェント」の放つ大きな魅力のひとつであるとわたしは思います。
(しみずのぼる)
〈PR〉
21万名の作家さんによる260万点の作品が集まる国内最大級のハンドメイドマーケット≪minne(ミンネ)≫