まるでパズル・クイズのような連作短編集:佐藤正午「事の次第」 

まるでパズル・クイズのような連作短編集:佐藤正午「事の次第」 

読み終えた後、登場人物の相関図を作ってみたことはありませんか? 複雑に入り組んだ登場人物たち。時間軸も異なる。まるでパズルやクイズのような…。そんな不思議な読後感が味わえる小説を紹介します。佐藤正午氏「事の次第」(小学館文庫)です(2025.11.3)

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連作短編集と気づかず…

先日紹介した佐藤正午氏の「熟柿」がとても面白かったので、久々に佐藤正午ブームとなり、何冊かまとめ読みしました。 

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まとめ読みした一冊ーー「事の次第」は、 

確か「鳩の撃退法」の関連本だったな… 

程度の前知識で、ほんとに久しぶりに読んだのですが、まったくストーリーを覚えていませんでした。連作短編集であることも覚えていなかったぐらいです。 

そのため、第2話(「そのとき」)になったら 

あれ?主人公が違う。これって短編集?

と思い、第1話(「寝るかもしれない」)に出てくる怪しげな女性が「もしかして同一人物?」と思ったものの、第3話(「オール・アット・ワンス」)で、第1話の登場人物の奥さんが主人公だったので、ようやく 

ああ、これは連作短編集なのか!

と思い至りました(それでもラストまで、ストーリーはまったく思い出せませんでした…)

背表紙のあらすじは読まないで

ちなみに、文庫の背表紙にあるあらすじは読まない方がいいです。 

いま書いた登場人物の関係性が、第1話「寝るかもしれない」からラストの第7話「七分間」まで、すべて要約して書かれています。 

この小説のいちばん大事な部分を、わずか数行でまとめられても… 

と思ってしまいます。ですから、下記のあらすじは、その要約部分を省いたものです。 

ひとつの街を舞台に炙り出されていく、夫婦の関係、恋人の関係、不倫の関係、一晩かぎりの関係、過去の関係……。それぞれの事情を抱えた男と女が、それぞれの人生の境界線に直面したときに生まれる“事の次第”を巧みに描き出し、交錯し連鎖していく至極の小説集。 

「事の次第」(小学館文庫)

読み終えて数日間、「これは紹介文は書けないな…」と半ば諦めていました。自分が楽しんだのに、ネタバレにも等しい登場人物の関係性を明かしてしまったら、それは他の人の読書の楽しみを奪うことになると思ったからです。 

でも、読み終えて登場人物をノートの書き出してみて、 

ああ、やっぱり、この人は前の話の〇〇だった…

みたいな”当てっこ”クイズを楽しんでいると、この小説の魅力ーーまるでパズルやクイズのような面白みを紹介したい気持ちがムクムクと大きくなってしまいました。 

しかも、佐藤正午氏の筆の進め方が秀逸で、ひとつひとつ短編として読んでも面白いので、肝心な部分(登場人物の関係性)はなるべく明かさず、「事の次第」所収の短編として紹介できないだろうか…と考えた次第です。 

人生の「境界線」を描く

その前に、各短編を通底する部分を書いておきたいと思います。 

第5話(「事の次第」)の登場人物ーー拳銃の入手を依頼した新聞記者に対して”その筋”の人物がこう言います。 

「俺たちには俺たちの世界がある。新聞記者には新聞記者の世界があるようにな。どっちもこぢんまりした世界だ。世界が広いって言い草は嘘だぜ。この世界はいくつもの小さな世界に分かれてて、たいてい人はそこから出てゆきたがらないし、事実、行ったり来たりはめったにない。あんたとおれがこんなところで話しているのは何かのまちがいで、おれがあのきれいなお嬢さんと知り合ったのも何かのまちがいだ。おれにはそのことがよくわかる。ところがあんたはいま、何もわからずに自分の世界を踏み越そうとしてる」 

こう忠告された新聞記者は、拳銃で狙う男を待つ間、先ほどの忠告を思い返します。 

今夜おれは実に簡単に、世界から世界への境界線を踏み越えたことになる。むきだしの拳銃をコートのポケットに入れたまま、バーのカウンターで水割りを飲むのも悪くなかった。二軒目へまわる頃には右側のポケットの重さにも慣れてしまったし、バーテンや他の客たちは自分たちの小さな世界の出来事にしか関心がないから、今夜もう一つの世界へ境界線を踏み越えた人間のことなど気にもかけない。 

連作短編集「事の次第」のキーワードは「境界線」です。 

境界線を越えてしまった人(放火、自殺、犯罪…)もいれば、踏みとどまった人もいる。無自覚に境界線を踏んでいる人もいるーー。「事の次第」は先述のあらすじのとおり、「それぞれの事情を抱えた男と女が、それぞれの人生の境界線に直面したときに生まれる“事の次第”」を描いた小説です。 

7つの短編の中からひとつだけ紹介するのは第3話「オール・アット・ワンス」です(All at Onceを日本語に訳せば「突然に」という意味です) 

夫に内緒で郵便貯金をする主婦

主人公の武上和恵は42歳の主婦。家計をきりつめた分と内職の手間賃から毎月積み立て金を捻出して、夫には内緒で郵便貯金をしている。 

郵便貯金を勧めてきた「内田さん」に誘われて、繁華街で昼ご飯を付き合うことになった。和恵と内田さんはバスに乗って繁華街に向かった。 

うららかな春の一日だった。十一時五十二分発のバスは空いていたし、おなじバス停から乗り込んだのは彼女と内田さんともうひとり、一見予備校生ふうの痩せた少年だけだった。 

お昼をご馳走してくれた内田さんと別れた後、「朝刊の折り込みに載っていた九八〇円のトレーナーを見にダイエーまで歩いた」。お昼代が浮いたから夕飯の材料も買っていこうか…と思案していたら、後ろから少年に「奥さん」と声をかけられた。 

「下で買物するんだろ、一緒に降りよう」 

「人違いだ」と言うと、どこかで見覚えのある少年は囁き声になった。「こんなところに並んで立ってちゃ人目につく」 

「西本さん」と呟いて少年が背をかがめ、反応を見るように彼女の顔を覗きこんだ。「あんた、西本って名前なんだろ?」
「人違いだと言ってるでしょう」
「騒ぐなよ、奥さん」背を伸ばした少年はあたりを気にしてみせた。「落ち着いてくれ、いいかい、おれは別にあんたをナンパしてるわけじゃないんだ」
「武上」と彼女が言った。
「え?」
「あたしの名字は武上というの、わかった? これは人違いよ」

しかし、少年は笑った。「おれがいまあんたに思い出してほしいのは結婚する前の名字なんだ」 

そういってジーンズのポケットから紙切れを取り出した。そこには「ニシモトカズエ」という殴り書きの文字と一緒に和恵の家の住所が書かれていた。「おれは今日、奥さんが家を出てからずっとあとをつけてきたんだ」 

ようやくバスで一緒だった予備校生ふうの少年と同一人物だと認識した和恵は、「何のためにあとをつけたりするの」と問うと、少年は言った。 

「佐久間さんが会いたがってる」
としばらく間を置いて少年が答えた。まるで呪文の効果を試すように、彼女の目を見据えて。そしてその一言でじゅうぶんだった。
そのたった一言で彼女の身体からは力が抜けたようだった。懐かしい名前だろ? と少年が嬉しそうな声で言って彼女の手から紙袋を奪い取った。彼女は抵抗する素振りもみせなかった。

少年が口にした「佐久間」は和恵が結婚前に付き合った恋人で、17年前、ある日突然、和恵の前から姿を消した男だった。 

「てみじかに話す」と少年が切り出した。「よく聞いてくれ。おれがこれから渡す物を、佐久間さんに届けて欲しいんだ。そしてその代わりに佐久間さんからある物を受け取って、今度はおれに届けて欲しい。奥さんの仕事はそれだけだ。いいね? おれの言ってることがわかるかい?」 

少年はこうも口にした。 

「おれたちだって、本当を言えばこんな面倒は避けたい。かたぎの人間なんか巻き込まずに、じかでやれることはやるべきだと思う。でも、たぶんこれが佐久間って人のやり方なんだろう、奥さんにはとんだ迷惑かもしれないけど、なにしろ奥さんを指名してきたのは佐久間さんのほうなんだよ」 

こうして和恵はタクシー運転手の夫に内緒で佐久間と会い、少年に依頼された物の受け渡し役を務めることになるーー。 

境界線を越える危うさ

「オール・アット・ワンス」では、受け渡しの物が何であるか、最後まで明かされません。「佐久間」がその後どうなるかも不明ですし、17年ぶりの元恋人との再会でやけぼっくいに火がつく…という展開でもありません。 

それを「物足りない」「つまんない」と思う人もいるかもしれません。そういう意味では、どの短編も消化不良の部分を必ず残しています。 

「事の次第」のおもしろさは、人生の境界線が誰にでも横たわっていて、ひょんなことで境界線を越えてしまう、そんな人生の危うさ、不思議さを描く点にあります。 

第1話の主人公ーー和恵の夫にも、妻に内緒の秘密があり、第2話の主人公にも、妻にバレないように不倫関係を続ける女性がいて、そして第3話、夫に内緒で郵便貯金を貯めているような平凡な主婦にも、17年前に恋人から預かった「決して開けるな」と言われた封筒があるーー。 

ふつうの人たちがそれぞれ秘密を抱えていて、ふとしたことで人生の境界線を越える、その瞬間を切り取って描いているのが「事の次第」です。 

「佐久間」と接触して受け渡しを終えた和恵について、「オール・アット・ワンス」は次のように描写して終わります。 

額の生え際がすっかり後退してしまった中年男の顔を思い出し、同時に四十二歳の自分の体型に思いを馳せながら彼女は歩いていった。もし人が老いることがなければ、十七年間あの男の言いつけを守って保管していた封筒のように黄ばんで古びてしまうことがなければ、と意味のないことを考えながら歩いていった。だがその先を考えつづける前に彼女の手は店の扉にかかっていた。
武上和恵は卵を買うために深夜営業のコンビニエンス・ストアの扉を開けた。
時刻は午前二時を回ったところで、夫が帰宅するまでにはまだじゅうぶん余裕があった。

誰の人生にも横たわっているであろう境界線を覗いてみたいーー。そんな方にはお勧めの小説です。 

「鳩の撃退法」の登場人物

最後に蛇足ですが、「事の次第」に出てくる登場人物のひとりは、さらにパズルのような複雑極まりない長編小説「鳩の撃退法」(上下巻、小学館文庫)に登場します。 

「事の次第」は1997年刊行の「バニシングポイント」を改題して2011年に出版された小説で、「鳩の撃退法」は3年後の2014年刊行。山田風太郎賞の受賞作で、2017年に出版された直木賞受賞作「月の満ち欠け」(岩波書店)と並ぶ佐藤正午氏の代表作です。 

おや? とすると第7話「七分間」の舞台となるバーの店長は、名前が出てこないけど、もしかして「鳩の撃退法」で妻子とともに行方不明になる幸地秀吉なのかな? 

気になったので「鳩の撃退法」をひもといたらバーの店名は違ってました。でも、そんな気がしてなりません… 

ということで、「事の次第」は、どこまでもパズルのような、クイズのような小説です。読後に登場人物を書き出してみて、各話の関係性を”答え合わせ”するのをお忘れなく! 

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(しみずのぼる) 

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