〈怪人=エリック〉が唯一の友人を得るペルシャ時代:「ファントム」 

〈怪人=エリック〉が唯一の友人を得るペルシャ時代:「ファントム」 

きょうも〈オペラ座の怪人=エリック〉の一代記を描くスーザン・ケイファントム」(上下、扶桑社ミステリー文庫)です。本書でもっとも躍動的に描かれるのが、ペルシャ時代のエリックの冒険譚です。ガストン・ルルーの原作に登場する〈ペルシャ人〉と出逢う場面でもあります(2024.8.12) 

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各章で語り手が異なる

スーザン・ケイの「ファントム」について、前回の記事では紹介をおろそかにしていたので、本書の経緯から書きましょう。 

本書が出版されたのは1990年。邦訳本は1992年に扶桑社から出版され、94年に文庫化されています。わたしの手元にあるのは文庫版で、2011年発行のものです(上巻は14刷、下巻は13刷) 

オペラ座の怪人」が2004年に映画化された後、本書にふたたび脚光が集まり、2005年にペーパーバック版が再刊されているので、事情(例えば二次創作ものにありがちな著作権上の問題)があって絶版・品切れになったというわけでもないようです。 

2005年のペーパーバック版

次に全体の構成です。 

上巻 

  1. マドレーヌ1831-1840年 
  2. エリック1840-1843年 
  3. ジョヴァンニ1844-1846年 
  4. ナーディル1850-1853年 

下巻 

  1. ナーディル1850-1853年(承前) 
  2. エリック1856-1881年 
  3. エリックとクリスティーヌのフーガ1881年 
  4. ラウール1897年 

各章で語り手が異なり、「マドレーヌ1831-1840年」は、母マドレーヌが語り手となって、エリックが醜い顔で生まれてから、音楽や建築の才能を開花させ、しかし村人たちからの迫害の中、母の幸せを願ってエリックがわずか9歳で出奔するまでが描かれます。 

エリック1840-1843年」は母のもとを離れた後、ジプシーと行動を共にしていた男につかまり見世物として扱われた暗黒の日々……。 

ジョヴァンニ1844-1846年」は、興行主の男を殺してローマに流れ着き、年老いた石工ジョヴァンニに息子のように大切にされながら、石工の娘との悲劇的な出会いでジョヴァンニのもとを離れるまでが描かれます(のちの場面で、エリックが「あの人が私にすべてを教えてくれた」「何か美しいものを建てたいーーあの人が誇りに思ってくれるようなものを」と語っています) 

そして、上下巻にまたがる「ナーディル1850-1853年」が、ここで深掘りしたいペルシャ時代ーーガストン・ルルーの原作に出てくる〈マザンダランのバラ色の時代〉です。 

ナーディルは、ペルシャの宮廷の人々が冬のあいだ過ごす海辺の町マザンデランの警察長官(ダローガ)を務めている人物の名前。そう、ルルーの原作に登場する謎めいたペルシャ人であり、エリックが唯一の友人と認めて「ダロガ」と呼ぶ人物です。 

神のように歌う驚異の奇術師

ナーディルが仕える皇帝は、サマルカンドの毛皮商人から耳にした噂ーー「神のように歌い、想像もできないような不思議なことをして見せる驚異の奇術師」ーーを聞きつけ、自らの母の太后のおもちゃとして連れてくるようにナーディルに命令した。「すぐにロシアに発つ支度をするがよい」 

カスピ海の近くの町でテントを張って奇術ショーをするエリックをみつけ、ナーディルは「あなたの名声は、遠く、あなたの思いも及ばぬ遠方にまで伝わっております。私はあなたに皇帝陛下直々のご招待をお伝え申し上げるためにペルシャからやって参りました」と伝えた。 

「それでは、お前は私が他の者たちのように、王の気まぐれに付き合うと思っているのだな?」 

「私がお前とともにペルシャに行かなければ、お前はどうなる……王の使者とやら?」 

「私が願いを聞いてやれば、皇帝はその見返りに何をくれる?」 

ナーディルは「権力」と答えた。「皇帝と太后を喜ばせることができれば、あなたの言葉が法律になるでしょう」 

警察長官の息子を気遣う

ペルシャに赴くことに同意したエリックは途中、ナーディルの家に立ち寄った。ナーディルは妻を亡くし、息子のレイザーも健康を害していた。 

「息子さんの目はいつ頃から悪くなったんです?」不意に問いただすように尋ねた。
「一年半ほど前から」
「筋肉の衰弱はその後から?」
「そうです」私はやっとのことで自分のコーヒーを飲みほした。「医者は、子供特有の病気で、いずれ成長すれば治ると言っています」
エリックはため息とともにカップをテーブルに置いた。
「あれは、機能が低下していく進行性の病気だよ、警察長官」
私はエリックをじっと見つめた。「では……息子の視力は回復しないと?」
「それは期待しないほうがいい」と、言いよどむ。「急ぎの仕事があるので、すまんが、今夜の夕食は失礼するよ」

エリックが夕飯を抜いて作業したのは、ナーディルの息子レイザーに贈るからくり人形を作ることだった。 

「奥さんが亡くなられてだいぶたつらしいね」意外な言葉だった。「君たちの宗教では複数の妻を娶るのが習慣だろうに、よっぽど奥さんを愛していたんだね」
(略)
「レイザーは奥さんに似ているのかい?」
「うん」私の声は細く、ささやくようになり、突然その場から逃げ出したい衝動に駆られた。「気の毒にーー」
(略)
自分の息子が死にかけている。そして、この不思議な仮面の男ーー良心の呵責なしに人を殺し、いかなる道徳にも煩わされることのない男ーーが、私の苦しみに深く同情している……。

エリックは依然として容赦のない、危険で、呆れるほど道徳心の欠如した男だった。

それなのに気がつくと、私はもうエリックを冷たく心のない怪物だとは思っていなかった。

ミュージカルにも、映画にも、ルルーの原作に登場する〈ペルシャ人〉はまったく出てきません。原作では〈ペルシャ人〉は重要な役どころを与えられてはいますが、なぜ、エリックが親しみを込めて「ダロガ」と呼び、〈ペルシャ人〉がエリックからクリスティーヌとの愛の顛末を聞く役を務めるのか……という点は書かれていません。 

それだけに、スーザン・ケイの「ファントム」を読むと、原作で語られなかった謎が解き明かされるような気分になります。エリックのやさしさに触れる記述が出てくるのも、ナーディルと接する日々が圧倒的に多いです。 

虹色に染めさせてくれないか

エリックは皇帝に気に入られ、郊外の新しい宮殿の設計・建築を任された。太后にも気に入られるが、日々を「退屈」といらだつ太后はエリックを持て遊ぶように挑発した。 

「そなたはわらわの楽しみのためにペルシャに連れてこられたのじゃ。わらわのために! だからわらわを楽しませるのじゃ、エリック。手をかえ品をかえ……。新しい楽しみを考え出すまでその宮殿に戻ることはまかりならぬ。ーーそう、死を楽しめるものがいい。さあ、行って考えるのじゃ」 

怒りに燃えたエリックがつくったのは拷問部屋だった。 

「そなたは退屈を知らないというわけじゃな? では一体どんな感情なら感じられるのじゃ、エリック?」 

「怒りなら」エリックは穏やかに答えた。「殺したくなるほどの怒りならーーそれでしたら感じられるなどという生やさしいものではございません、マダム!」 

皇帝にも太后にも、心の中では従わぬエリックは徐々に疎まれるようになり、毒まで盛られるようになるが、エリックがこの地に残るのは、ナーディルの息子レイザーが理由だった。 

「あと二カ月ーーそれだけでいいんだ」
「宮殿の完成までに?」私は驚いて尋ねた。「まさか……絶対に無理だ」
エリックは深い哀れみのこもった目で私を見下ろした。
「宮殿のことを言ってるんじゃない」穏やかに言う。
全身を流れる血が止まってしまったように、私の体は冷たくなった。
「二カ月ーー」私は虚ろに繰り返す。「エリックーー馬鹿な、あの子はもっともつはずだーーもっと!」
エリックは私の横に腰を下ろし、身を乗り出して無理やり顔を覗き込んだ。
「ナーディル……あの子に間もなく始まる恐ろしい苦しみを味わわせたくない」
「一体何のことを言っているんだ?」私は感覚が麻痺したように言った。
「何のことでもないーーただ、死にもいろいろあることを覚えておいてほしいだけだ。死の中には、見ていられないほどつらく苦痛に満ちたものもあれば、日が沈むように穏やかで美しいものもある。私は芸術家だ。私のパレットには色とりどりの絵の具がある。あの子を虹色に染めさせてくれないか。そして、それを消す手伝いも……」

さようなら、友

太后の求めを無視してレイザーの最期の日々に付き添ったため、エリックは太后や皇帝の怒りを買い、皇帝は宮殿の建築が終わると同時に、エリックを逮捕するよう警察長官のナーディルに命令する。 

「逃げるんだ。海岸の道を命ある限り走り続け、ペルシャを出るんだ。シャーの衛兵が君の捜索を開始するまでのほんの数時間しか稼げないと思う」
(略)
「罰せられるぞ」
「それは私の問題だ」エリックは深刻な口調でさらに言った。「たとえ、シャーが話を信じたとしても。それに、もし信じなかったらーー」
「それは私の問題だ」
「なぜこんなことをしてくれるんだ?」突然詰問する口調になった。
私は人気のない道路に目を移した。
「息子なら、君に生き延びてほしいと思うはずだ……今夜の私の行動は、すべて息子の思い出のためにしているのだ」

そして、ナーディルはこう続けます。 

「今度は君の魂のことを考える番なんだよ、エリック」 

「君が何を信じようと、君には良心があるーーそして今夜、私は君の良心の監視役になることにしたんだ」 

ルルーの原作で、オペラ座で最初の犠牲者が出た直後から〈ペルシャ人〉が出てくるのも(それによってもたらされる読者の戸惑いも)こうやってスーザン・ケイが補ってくれれば、とてもつながりがよくわかります。 

最後にお互いを「友」と呼び合うペルシャ時代は、スーザン・ケイの「ファントム」でもっとも美しい場面に彩られています。 

「さようなら、友よ」 

そしていよいよ、舞台はパリへーー。 

(しみずのぼる) 

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