ミュージカルの最高傑作「オペラ座の怪人」が好きな方なら、ぜひ手にとってほしい本があります。絶版・品切れなのが残念ですが、古本屋や図書館で探してでも読む価値のある本です。〈怪人=エリック〉の一代記を描くスーザン・ケイ「ファントム」(上下、扶桑社ミステリー文庫)。複数回にわたって紹介します(2024.8.11)
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原作はガストン・ルルーの小説
この記事は、アンドリュー・ロイド=ウェバーのミュージカル版「オペラ座の怪人」(もしくは、その忠実な映画化)のあらすじを承知している前提で書きます。そのことをあらかじめお許しください。
「オペラ座の怪人」は、ガストン・ルルーが1910年に発表した小説が原作です。ロイド=ウェバーは壮大なロマンチックストーリーを描きたいと考え、「オペラ座の怪人」のミュージカル化に踏み出したと述べています。
ですから、ルルーの原作のうち、クリスティーヌをめぐる〈怪人=エリック〉とラウル・シャニー子爵の三角関係にスポットを当てたのは当然で、ミュージカルの成功も、3人の恋愛感情の揺れに焦点を絞ったことにあったのは間違いありません。
でも、ミュージカルの制約上、歌詞だけで3人の心のひだを表現するのは難しくもあり、そのためミュージカルや映画だけ観た人は、いろいろと疑問というか”モヤモヤ”した感情が残ることになりがちです。
クリスティーヌのキス
わたしの場合は、おもに2つの”モヤモヤ”でした。
1つめは、〈怪人=エリック〉かラウルかどちらか選べーーと迫られたクリスティーヌが、〈怪人=エリック〉を選んでキスしたとたん、〈怪人=エリック〉がラウルとクリスティーヌを解放するエンディングです。
ここで流れる曲「Down Once More/Track Down This Murderer」(劇団四季版では「地下の迷路/怪人の隠れ家」)では、クリスティーヌがこう歌った後で〈怪人=エリック〉にキスをします。
Pitiful creature of darkness
闇に生きるかわいそうな生き物What kind of life have you known?
どんな人生を生きてきたの?God give me courage to show you
神がくれた勇気であなたに示そうYou are not alone
あなたが一人ではないことを
雷に打たれたような表情になった〈怪人=エリック〉は、クリスティーヌには何も言わず、檻の格子に両手を縄で縛られたエリックのほうへ歩いていき、縛っていた紐を解いて、
Take her, forget me, forget all of this
彼女を連れて行け 私を忘れろ すべて忘れるんだLeave me alone,forget all you’ve seen
一人にしてくれ 見たことはすべて忘れろGo now, don’t let them find you!
すぐに行け 奴らに見つかる前に!
とふたりを逃がします。そして、ふたりはボートで隠れ家を逃れていきます。
このエンディングしかない…と理性ではわかるのですが、自分は〈怪人=エリック〉への感情移入が過ぎるのでしょうか、クリスティーヌはなぜ、ラウルと一緒に立ち去ってしまうの? という気持ちになってしまうのです。
指輪は誰のもの?
2つめは、1つめと直接かかわるのですが、クリスティーヌとラウルを解放して地下の隠れ家に残った〈怪人=エリック〉が、泣きながら猿のオルゴールに向かって、
Masquerade
マスカレードHide your face, so the world will never find you
顔を隠せ 世界が二度と見つけられないように
とささやくように歌っているところへ、クリスティーヌがひとり戻ってくる場面です。
泣きはらした〈怪人=エリック〉がささやくような小さな声で、
Christine, I love you…
クリスティーヌ 愛している…
と言うのに対して、クリスティーヌはだまって指輪を〈怪人=エリック〉に渡します。
ウィキペディアを見ると、この指輪の部分は、
怪人は近づいてくるクリスティーヌに小さく愛をつぶやき、クリスティーヌは静かにラウルとの婚約指輪を外して怪人に握らせる。
ウィキペディア「オペラ座の怪人 (2004年の映画)」より
と書いています。「ラウルとの婚約指輪? いくら何でもそれはないだろう!」とわたしは思うのですが、ともかく、この指輪を返す場面がわかりません。
〈怪人=エリック〉がクリスティーヌにかつて渡した婚約指輪を、ラウルを選んで去る際に〈怪人=エリック〉に返して寄こした…という解釈ならまだわかりますが、それでも、これでは〈怪人=エリック〉があまりにかわいそう…と思ってしまうのです。
原作が描くキスと指輪
というような”モヤモヤ”を抱えた人が、最初に手に取るのがガストン・ルルーの原作です(2004年製作の映画をみた直後のわたしがまさにそうでした)

ルルーの原作は、わたしの2つの”モヤモヤ”にきちんと答えてくれました(文中に「ダロガ」と出てくるのは、きょうの時点では気にしないでください)
……焦がれ死にだよ……ダロガ……私は愛しすぎたせいで死ぬんだ……そういうわけだ……私はほんとうに深く彼女を愛していた!……いまも愛しているよ、ダロガ、だから焦がれ死にするんだ……私が生きている彼女にキスするのを許してくれたとき、彼女の美しかったことといったら……あのとき私は、生まれて初めて女性にキスしたんだ、ダロガ……そう、生きている彼女に、私は生きている彼女にキスしたのだが、彼女は死んでいるように美しかった
〈怪人=エリック〉がラウルを助けた後のくだりはこうです。
……ああ! ダロガ、彼女の涙が私の額をつたうのがわかった! 私の! 私の額を! 熱い涙……やさしい涙だった! 彼女の涙は私の仮面を沁みとおった! 私の目から流れる涙と混ざりあった!……私の口のなかにまで流れこんだ……そうなんだ! 彼女の涙が私のうえに注がれていたんだ! 聞いてくれ、ダロガ、そのとき私がどうしたか聞いてくれ……私は、彼女の涙を一滴も無駄にしたくなかったので、仮面をかなぐりすてた……それでも彼女は逃げださなかった!……彼女は死んでしまわなかった! 彼女は生きていた、泣いていた……私のうえに涙を注いで……私といっしょに……私たちはいっしょに泣いたんだ!……ああ、天にまします神よ! あなたは私にこの世の幸福をすべて与えてくださった!……
いかがですか。クリスティーヌのキスが〈怪人=エリック〉にとってどれほど尊いものだったか、とてもよく伝わってきませんか。この部分だけは、わたしはロイド=ウェバーのミュージカル版や映画版より原作のほうがはるかに好きです。
指輪のことも出てきます。
私が彼女にやった金の指輪……彼女がなくし……私が拾った指輪……いわば結婚指輪だ!……私はそれを彼女の小さな手に握らせて言った。『さあ!……これをあげよう!……おまえ自身のために……それから彼のために……これが私からの結婚祝いだ……可哀想な不幸せなエリックからのプレゼントだ……おまえがあの青年を愛していることはわかっている……もう泣くのはおよし!……』
解放したエリックと抱き合うクリスティーヌを見ながら、〈怪人=エリック〉はクリスティーヌに頼みごとをします。
私はクリスティーヌに誓わせた。私が死んだら、夜、スクリブ街の湖のほうから来て、こっそり私を埋葬する。金の指輪もいっしょに埋めるが、それまで指輪は彼女がはめている。そう誓わせたのだ……
こうやって原作を読めば、あの指輪は〈怪人=エリック〉がクリスティーヌに贈った指輪であるのは当然です。
それこそ私が読みたい物語
さて、これではスーザン・ケイの「ファントム」の紹介になりませんね。
ミュージカルや映画から原作に辿り着けば、その次に手に取りたくなるのがスーザン・ケイの「ファントム」です。
というのも、ルルーの原作は、〈怪人=エリック〉が「ダロガ」(ペルシャの警察長官のこと)と呼ぶ、唯一の友人とも言える〈ペルシャ人〉を重要な役柄として登場させながら、オペラ座に居着く以前の〈怪人=エリック〉については〈ペルシャ人〉に簡単に触れさせるだけにとどめているからです。
スーザン・ケイはあとがきで「ルルーの原作の登場人物の中で私が最も興味をひかれたのは、あの謎めいたペルシャ人だった」と書いて、こう続けます。
次第に私の注意は、ファントムの過去に触れ、簡単な歴史的概略を述べた最後の三ページに集中していった。ルルーの原作の大半ーーそして他の映画、劇場作品もすべてそうなのだがーーは、五十歳くらいと思われる主人公の最後の六カ月しか取り上げていない。
(略)
ルルーが暗示した、盛りだくさんの出来事をちりばめた読者をわくさくさせる過去には、当然数々の意義深い出会いがあったに違いない……ひょっとしたら、若き日の初恋の思い出さえ……。それこそ、私が読みたい物語だった。そして、それが自分の書きたい物語でもあることに思い至った。

さあ、いよいよスーザン・ケイの「ファントム」です。この壮大な〈怪人=エリック〉の一代記について詳しく書くのは次回に取っておくとして、この記事で触れたクリスティーヌのキスの部分だけ、先出しして紹介しましょう。
5歳の誕生日の願いごと
最初に、5歳の誕生日の場面です。
「ママも、プレゼントくれるの?」
私は震える手でナプキンを並べた。
「もちろんよ」機械的に答える。「何か特別欲しい物でもあるの?」
緊張に押し黙り、私の横にやってきたエリックを見て、急に落ち着かなくなった。私に断られるのを恐れているらしいところを見ると、よほど高価な物らしい。
「欲しい物、何でもくれる?」自信なさそうに尋ねる。
「常識の範囲でならね」
「二つでもいいの?」
「どうして二つもいるの?」面倒くさそうに尋ねた。
「一つを使っちゃったときのために取っておけるから」
それを聞いてほっとした。その口調から推して、上質の紙をたくさんとか、飴を一缶とかーーたいしたことはなさそうだ。
「一体何が欲しいの?」すっかり自信を取り戻して尋ねた。
(略)
「僕ーー僕、二つ欲しいんだ……」ナプキンをいじるのをやめると、体を支えるようにテーブルに手をついた。
「だから言いなさい! 何が二つ欲しいの?」
エリックは私を見上げた。
「キスしてほしいんだ」恐る恐るささやく。「一つは今。もう一つは取っておく」
恐ろしさにエリックを見つめていた私は、不意に込み上げてきた涙を抑えきれず、テーブルに顔を埋めた。
「そんなこと頼んじゃいけません」すすり泣く。「もう二度とそんなことを頼んじゃいけません……。分かったわね、エリック。もう決して……!」
そんな私の騒々しい脅えように、エリックはドアの方に後ずさった。
「どうして泣くの?」どもるように尋ねる。
「泣いてなんか……いません」喘ぐように答える。
「泣いてるよ!」エリックは突然の怒りに声まで変わって、怒鳴り返す。「ママは泣いてる。それにママはプレゼントをくれないんだ。欲しい物を言えって言ったくせにーーママが僕に言わせたんだよーーそれなのにだめだって……。だったら誕生日なんかいらない。嫌いなんだ。誕生日なんて大嫌いさ!」
両親にお嬢様のように育てられ、しかし両親を失い、夫を亡くして精神が幼いままの母マドレーヌが、息子エリックに対して行った数々の過ちのひとつです。
このあと、仮面をかぶることを拒否するエリックに対して、「自分の顔を見てご覧なさい!」と言って鏡の前に立たせる場面になります。
精神的にも肉体的にも、私はエリックに生涯治ることのない傷を負わせてしまった
マドレーヌがエリックを愛していないわけではないのです。それでも、外に出したら迫害されて村にいられなくなると神父に言われ、家に閉じこもる生活が続く中で、マドレーヌもまた母親になり切れぬ存在だったのでしょう。
幼いエリックが音楽や建築の才能を次々と開花させ、ひとり遊びから奇術や腹話術を身に着けるうちに、エリックへの接し方がどんどんわからなくなる……。エリックの幼少期のくだりは読んでいて切なくなります。
でも、この場面があるから、クリスティーヌのキスの尊さが心に沁みるのです。
5歳の少年に戻るエリック
エリックにラウルの命を助けるよう頼み、「エリック、もし彼を逃がしてくださったら、フランス中のどの教会でもいいわ、あなたと結婚します」とクリスティーヌが繰り返しても、〈怪人=エリック〉は「お前は気高い殉教者になろうっていうんだな!」と冷笑したり、怒鳴り返したりするだけ。そして、クリスティーヌが自信なさげに「何がお望みなの?」と尋ねる。
「エリック、お願い……何が欲しいのか言ってちょうだい」
ーー何が欲しいのかはっきり言わないと、何も上げられませんからねーー
クリスティーヌのはっきりと率直な視線にあうと、自分が縮んでいくような気がした。私はまた、自分のお願いが否定されはしないかと脅えきって、指にナプキンを巻きつける少年に戻っていた。キスなんて小さなものなのに……ほとんどの人は、それをするのに考えもしない。会ったとき、別れるときの軽いキスーーそんな単純な肉体の触れ合いは、人間の基本的な権利として当たり前に交わされるのに……。
私はこの地上に半世紀も暮らして、まだキスされるのがどんな気持ちか知らない……そして今だって知らせてもらえないのだ。
今日が誕生日なわけでもないのだし……いい子でもなかったのだから……。
いかがですか。クリスティーヌの言葉が引き金となって、〈怪人=エリック〉は5歳の少年に戻るのです。原作にはまったくない部分です。
〈怪人=エリック〉はクリスティーヌに背を向け、地下に貯蔵する火薬樽に火をつけようと暖炉に向かう。背後に気配があり、振り向くと、ウェディングドレスを纏ったクリスティーヌだった。
クリスティーヌは花嫁がするように顔からベールを持ち上げ、溢れる涙を黒い隈が縁どった目が現れた。震える手で私の仮面を外し、二人の間の床に落とすと、私の礼服の滑らかな襟をためらいがちに撫でた。
(略)
「さあ、いいようにして! 教えてちょうだい!……」クリスティーヌがささやいた。驚き呆れ、今耳にしたこと、目にしたことが信じられず、私はわななく手でクリスティーヌの顔を持ち上げ、痣ができ血がにじんでいる額に、脅えきった少年のように臆病に口づけした。
その瞬間、私はもう師ではなく生徒になっていた……クリスティーヌの腕が私の首に絡みつき、手で私の頭蓋を執拗に愛撫しながら、信じられない力で私を引き寄せ抱き締めたのだ。
クリスティーヌに唇を重ねられたとき、涙の塩辛い味がした。しかし、その涙がクリスティーヌのものか私のものかは分からなかった。
クリスティーヌは深海のような抱擁の中を深く深く潜って来て、海の底のすべてを飲み尽くす泥層から一粒の真珠を取り出すように私を引っ張り、容赦なく日の光の下に連れ出した。今までずっと私をささえ続けてきた憎しみという支柱を蹴散らし、頼りなげに立つ私の頭をもう一度自分のほうへ引きつけた。
とても離せないとでも言うように、クリスティーヌはずっと私を抱き締め続け、やっと身を離すと、今二人が分かち合ったものの深さにうたれ、ものも言えず、じっと見つめあった。
私はもう何もできなかった。もちろん……キスがすべてを終わらせたのだ。
〈怪人=エリック〉の母マドレーヌの哀しい過ちを知り、花嫁衣裳のクリスティーヌを前にして、5歳の少年に戻ったエリックの気持ちと重ね合わせてはじめて、あのキスの場面の意味が過不足なく理解できるようにわたしは思います。
原作も好きですが、わたしにとって一番しっくりくるのは、スーザン・ケイ版の〈怪人=エリック〉であり、クリスティーヌなのです。
次の記事では、ペルシャ時代のエリックを中心に紹介します。
(しみずのぼる)


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