きょうから3回に分けて志水辰夫氏の魅力について書きたいと思います。わたしがはじめて読んだ志水作品は「裂けて海峡」で、夜遅くに読みだしたのに読み終えるまでページをめくるのをとめられず、翌日の仕事がきつかった……そんな思い出深い小説です。シミタツ節と呼ばれる疾走感あふれる筆致に酔わされるハードボイルド・ミステリーであり、国際謀略小説の傑作です(2023.10.14)
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代表作は「行きずりの街」
志水辰夫氏は1936年生まれ。高校卒業後、公務員等の職を経て、出版社勤務。のちに雑誌のフリーライターとなり、40歳代で本格的に小説を書き始めます。1981年に「飢えて狼」(講談社刊)でデビュー。叙情的な文体で冒険アクションから恋愛小説、時代小説まで手がけ、特に初期の作品はクライマックスを散文詩のように謳いあげ、シミタツ節の異名を取りました(ウィキペディアによる)
代表作は「行きずりの街」(1990年、新潮社)で、日本冒険小説協会大賞を受賞したほか1991年度の「このミステリーがすごい!」1位に選ばれています。
「行きずりの街」も好きですが、わたしが特に好きなのが初期の代表作「裂けて海峡」(講談社文庫、新潮文庫)と「背いて故郷」(講談社文庫、新潮文庫)です。前者は1983年に日本冒険小説協会賞優秀賞、後者は1985年に日本冒険小説協会大賞と日本推理作家協会賞に選ばれています。
「裂けて海峡」のあらすじを紹介します。

海峡で消息を絶ったのは、弟に船長を任せた船だった。乗組員は全て死亡したと聞く。遭難の原因は不明。遺族を弔問するため旅に出た長尾の視界に、男たちの影がちらつき始める。やがて彼は愛する女と共にある陰謀に飲み込まれてゆくのだった。歳月を費やしようやく向かいあえた男女を、圧し潰そうとする“国家”。運命の夜、閃光が海を裂き、人びとの横顔をくっきりと照らし出す。
冴子に違和感を抱く主人公
主人公の長尾は遺族のひとり、遭難で婚約者の榊原功を失った宮沢冴子の家に弔問に赴く。
「もうすんだことですから」
努めて平静を装う声で冴子は言った。玄関先で受けたのとは違う印象を感じた。一種の構えのようなものがある。未婚の女が持つ恥じらいや潔癖観とは異質なものだ。冴子の表情は固くなり、伏眼がちになった。
わたしを避けようとしている。
直感的にそう感じた。あるいは嫌悪感か。いたしかたなかった。彼女にとってはわたしはむしろ会いたくない人間なのだ。
しかし、長尾は冴子に違和感を持つ。それは、冴子が自家の墓地に墓参りをしながら、目と鼻の先にある功の墓には見向きもしなかった場面を目撃したからだった。
小室孝雄との面会も奇異だった。小室の父は遭難と同じ日に銛状のもので重傷を負って数日後に病院で死亡していた。長尾は船の遭難と関係があるか訊ねるため電話で面会を求めていた。
「なるほどわかりました。しかし」と言葉を切り、わたしに眼線を向けた。「それと父の事故を結びつけるのはどうですかねえ」
「たしかに突飛かもしれません。だが、今のところ何の手がかりもないのです。同じ日に起きた事故というだけで、飛びつかざるを得ないのです」
「お気持はわかります。だがぼくの父は海へ落ちただけですよ」
(略)
「ぼくの父が目撃者だったかもしれないと疑っているんですね」
「疑っているわけじゃありません。万一の可能性を期待しているだけです」
彼は首を横に振った。「聞いていません。何か見たらぼくに話しているはずです」
別人がなりすましていた
冴子の墓参をたまたま目撃したことがきっかけで、長尾は小室孝雄に改めて電話をした。
彼は在宅していた。ひどく不愛想だった。
「昨日はどうも失礼しました。じつはちょっと聞きもらしたことがあったものですから」
わたしは丁寧な口調で言った。
「最近どなたかお父さんの墓参りに行かれましたか」
「それがどうしたんです」ひどくつっけんどんな声が返ってきた。「ぼくの父があなたにどんな関係があると言うんだ」
「お気を悪くされたら謝ります。ただもう一度確かめてみたかったので」
「失礼だよ、あんたは。え? 自分の都合だけで電話してきて、他人の立場など考えてみたことがあるのか」
「申訳ないと思ってます」
「あんたがどうしても会ってくれというから仕方なしに承知したんだ。それを、一時間も待たせっ放しにしといて、詫びひとつ言わないじゃないか」
面会をすっぽかされたと電話口で怒る小室孝雄。では、きのうの男は誰だったのか? 会いに行くと小室孝雄は昨日会った男とはまったくの別人だった。
「昨日わたしと会うことを、誰かにお話しになりましたか」
「いや、女房にも母にも話しておりません」
「わたしもです。ですからわたしがあなたに会うことを知ってそんな小細工をした人間は、電話の盗聴でもしていたのでない限り、ごく少数の範囲に限られます。(中略)今推測できることは、何者かが、わたしをあなたに会わせたくなかったということです。双葉丸の遭難原因を、これ以上追及されたくない人間がいるんです」
ただの事故と思いますか
長尾は冴子にふたたび会いに行く。
「双葉丸の遭難がただの事故だったと思いますか」
冴子の顔を見ながら言った。冴子は微動だにしなかった。その眼にも顔にも、もう何らの変化を読み取ることはできない。冴子は自ら自分を凍らせてしまった。
(略)
「あなたを苦しめるつもりはありません。ただ知っていることがあれば教えてほしいとお願いしている」
「私は何も知りません」
(略)
「いいですか、冴子さん。わたしは今双葉丸が撃沈されたと申し上げた。榊原君をはじめ七人の人間が死んでいる。相良の小室さんを入れると八人だ。あなたがそれに対して何の反応を示さないというのはおかしい」
それでも冴子は何も語らなかった。冴子のアパートを見張っていると、夜遅くに冴子がアパートから出てきた。冴子を尾行する長尾。冴子が向かったのは小倉駅のホームだった。
印象的な小倉駅の場面
以下、わたしがいちばん好きな場面です。
冴子は立っていた。やや緊張しているのか、肩で大きな呼吸をしている。列車から少し離れ、進行方向に向かって姿勢を変えた。必ずしも人を探しているポーズではない。数人の見送りを残して、ホームにいた乗客全員が車内へ消えた。
降りた客は一人もいなかった。
すぐに発車のアナウンスがあった。
そうか、わかった。やっとその意味に気づいた。
降りる客があるもんか。これは寝台列車だ。夜の十一時過ぎに小倉へ着くためわざわざ寝台列車を利用する者などいるはずがない。冴子は誰かを出迎えに来たのではなかった。やはり見送りに来たのだ。
あの男だ!
気づくなりわたしは列車に飛び乗った。その瞬間、列車が動き始めた。
デッキに顔を押しつけて冴子の動きを見つめた。冴子は歩き始めた。少し列車から離れたところを、列車の動きに合せるように。
前を見ている。真っ直ぐ顔を上げて。
列車が滑るようにスピードを上げた。冴子は止った。そして初めて列車の方に視線を向けた。自分の心をもう隠していなかった。歪んだその顔が、異様な輝きを放っていた。濡れている。冴子は泣いているのだった。
何という意志の強さだ。見事な女だった。最後まで無関係を装いつづけた。言葉はおろか、視線さえ交わそうとしなかった。それでも彼らはお互いに相手の姿を視野に置いていた。終始相手の姿をとらえていることで、無言の別れを交わしていた。
こうして長尾は唯一の生き証人である榊原功にたどりつき、双葉丸の沈没が国際諜報戦を目撃してしまったための撃沈だったことを探り当てる……。
国際謀略小説の傑作
あらすじに「圧し潰そうとする“国家”」と書いてあるので、ここまであらすじを紹介してしまいましたが、徐々にヴェールを脱ぐ真相に驚くとともに、まさに国家が長尾らを「圧し潰そうとする」後半の怒涛の展開に圧倒されるばかりです。
長尾が愛する理恵との絡みは割愛しましたが、理恵がまたいいのです。「裂ける海峡」は、ミステリーであり、ハードボイルドであり、恋愛小説であり、広い意味のスパイ小説ーー国際謀略小説です。
国際謀略戦に日本人が巻き込まれてしまうというストーリーのスパイ小説は、結城昌治氏「ゴメスの名はゴメス」、三好徹氏「風塵地帯」などの傑作が思い浮かびますが、「裂けて海峡」と次回紹介する「背いて故郷」も、これらの流れを汲む小説として傑出しています。
シミタツ節が炸裂
なお、「裂けて海峡」は冒頭紹介したシミタツ節ーークライマックスを散文詩のように謳いあげる作風の代表作でもあります。シミタツ節のくだりを紹介しましょう。こんな感じです。
行かなくては。
もう行かなくてはならない。
星だ。星が流れている。わたしの光芒だ。理恵の瞬きだ。
そうだ。
理恵。
そばに行くのが少し遅れる。
まだ、し残していることがある。
すませてからそこへ行く。
おまえのために祈っている。
天に星。
地に憎悪。
最後に、せっかくの機会ですから、先ほど触れた日本のスパイ小説の傑作2作と志水辰夫氏の代表作「行きずりの街」のあらすじも紹介しておきます。「裂けて海峡」がお好きなら、きっと気に入るはずです。

失踪した前任者・香取の行方を探すために、内戦下のサイゴンに赴任した坂本の周囲に起きる不可解な事件。自分を尾行していた男が「ゴメスの名は…」という言葉を残して殺されたとき、坂本は、熾烈なスパイ戦の渦中に投げ出されていた。香取の安否は?そして、ゴメスの正体は?「不安な時代」を象徴するものとして、スパイの孤独と裏切りを描いた迫真のサスペンス(結城昌治「ゴメスの名はゴメス」 光文社文庫)

私は特派員として政情不安なインドネシアに着任した。ところが、現地で再会した日本人カメラマンが殺されたのにつづいて、現地人の助手カルティカも殺された。私は殺人容疑で留置されてしまう。誰が味方で誰が敵なのか。見知らぬ土地で、私は活路を見いだせるのだろうか。独立間もないインドネシアで日本人新聞記者が巻き込まれた謀略事件。混沌とした政情を背景に、冷酷非情な世界を描く国際スパイ小説の白眉(三好徹「風塵地帯」双葉文庫)

雅子はわたしのすべてだった。自分の一生を賭けた恋愛だった――。それを、教師と教え子という関係にのみ焦点をあて、スキャンダルに仕立て上げられて、わたしは学園と東京から追い払われた。退職後、郷里で塾講師をしていたわたしは、失踪した教え子を捜しに12年ぶりに東京へ足を踏み入れた。やがて自分を追放した学園がこの事件に関係しているという事実を知り……。事件とともに、あの悪夢のような過去を清算すべき時が来たのか――ミステリー史に残る大傑作(志水辰夫「行きずりの街」新潮文庫)
(しみずのぼる)