志水辰夫氏を紹介する2回目は、日本推理作家協会賞と日本冒険小説協会大賞を受賞した「背いて故郷」です。これも「裂けて海峡」同様にハードボイルド・ミステリーであり、国際謀略小説です。ただ、国家が個人に襲いかかる恐怖を描いた「裂けて海峡」に対して、「背いて故郷」は、国家間の対立に巻き込まれた個人の哀しみに光を当てているのが特徴です(2023.10.14)
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「背いて故郷」(講談社文庫、新潮文庫)のあらすじを紹介します。
第六協洋丸、仮想敵国の領海に接近するためのスパイ船。柏木はその仕事を好まず、親友・成瀬に船長の座を譲った。だが成瀬は当直中に殺されてしまう。撮影済みのフィルムを奪われて。禁忌に触れてしまったとでもいうのか? 柏木は北の大地を餓狼の如き切実さで駆けめぐった。ただ真相に迫りたかったのだ。彼の前に立ちはだかるのは〈国家〉、そして――。
柏木と成瀬はどちらも一等航海士の資格を持ち、柏木は成瀬の歳の離れた妹の早紀子に好かれていた。しかし柏木は、第六協洋丸で部下だった牛島に連れられて出向いたバーでピアノを弾いていた優子に恋心を抱く。成瀬もまた優子にひとめぼれし、優子は成瀬の妻に収まる。
第六協洋丸の船長の座を成瀬に譲った柏木は、優子を成瀬に奪われた傷心もあって日本を離れ、ジャカルタで船員教育の仕事に就いていたが、そこへ成瀬が殺害されたという連絡が寄せられた。自責の念を抱きながら成瀬の墓参りのため帰国した。
船長を譲ったことが遠因だったと後悔する柏木に、早紀子は言った。
「本当は柏木さんが責任を感じてもう二度と来てくれないんじゃないかと、心配していたの。だから同じようにやって来て、母へ同じようにやさしい言葉をかけてくれたときはとても嬉しかった。(略)」
違うんだ、と言ってやりたかった。彼らこそ、見て見ぬふりをしている。成瀬の死を、公式発表の通りに信じたがっている。気づいていないはずはなかった。いまどきただの物盗りが、積荷などありもしないちっぽけな水産監視船をどうして襲うものか。まして相手に発見されたからといって、柔道二段の男と争って殺したりはしない。ただの強盗殺人説を信じようとしているのは他ならぬ成瀬一家だった。
水産監視船だった第六協洋丸は、スパイ任務を帯びた船に変貌しつつあった。柏木が船長になってしばらくして塩津という男が乗船するようになった。
乗船しはじめて二ヶ月後、彼は第六協洋丸をソ連領海ぎりぎりまで接近させて航行するようわたしに命じた。わたしはほどなく、六協洋丸がどれくらいまで挑発行為をすると、ソ連警備艇が駆けつけて来てこちらに警告するか、塩津が試していることに気づいた。
そのうち塩津の上司を名乗る吉岡が現れ、船内を改装して船首に観測計を設置すると切り出した。
「何をするつもりですか?」
「単なる情報資料の収集と言っておこうかな。無論機密に属することなので、乗組員には秘密を守ってもらわなきゃならんが、別に危険や迷惑を及ぼすことはないからそれは心配しなくていい。何が行われているか、黙っていてくれたらいいわけだ」
吉岡は、海流の温度変化を分析して、ソ連原子力潜水艦の活動状況を把握すると説明した。
「最初に第六協洋丸という船があって、必要に迫られた国がその船を利用することを思いついたということだ。ソ連領海近くを自由に航行でき、しかも疑われずにすむ、となればその条件に合致する船は自ずと限られる。まあ、目をつけられた方は迷惑な話に違いないが」
再び接触する塩津と吉岡
成瀬の墓参りを済ませて逃げるように東京に戻った柏木は、成瀬の妻だった優子と再会したが、それがきっかけで塩津と吉岡から接触があった。
成瀬が趣味のカメラで何かを撮影し、妻の優子にも内緒で船内で現像していたこと。しかし、何者かに殺害され、写真はすべて持ち去られたことを塩津から聞かされた。
「全然残ってなかったんですね」
「何もだ。現像だけでなく焼付も同時に行っていたようだが、それも含めて洗いざらい持って行かれた。敵はフィルムを奪い返すことで、最悪の事態を防いだということになるんだろう」
(略)
「ぼくが興味を持っているのは成瀬です。成瀬のものの考え方、行動、多少は推測できます。彼の行動をもう一度洗い直してみたいんです」
吉村は警察官僚だった。柏木は吉村に言った。
「ぼくはただの民間人です。あなたの指定する枠の中でものを考えるいわれはない。そしてその限りにおいては、成瀬が非業の死を遂げたのが絶対的問題なのであって、ゲームのなりゆきはどうだっていい。しかも成瀬を死なせてしまったことで果たした自分の役割に百パーセント責任を感じてます。その責任をどう遂行するか、それなしには今後の生き方も決められない問題なんです。あまりふやけた話をしてこちらの怒りを掻き立てないでもらいたいですね」
こうして柏木は、牛島ら当時の甲板員を訪ね歩き、事件の真相をひとりで探っていく……。
部屋で盗聴器を発見
元甲板員の証言から、成瀬が早い時期からカメラを手に何かを探っていたことを知る。と同時に、柏木は部屋が盗聴されていることに気づく。
これでどうやらわたし目当ての盗聴器だったことがはっきりした。成瀬の事件がけっして終わっていないことも。
廃船となった第六協洋丸の解体場所を訪ねた二人組の男がいることも割り出した。成瀬が撮影したフィルムをいまだに探しているのではないか。そんな疑いが首をもたげた時、元甲板員と会う約束の場所で、柏木は二人組の男に襲われた。
誰が真犯人なのか。襲撃の実行犯を操る人物は、実は柏木の周囲にいる人物なのではないか。柏木は知り得る情報から人物を特定し、成瀬の墓の前で犯人と対峙することを選ぶ。
対決の日、成瀬家の前には早紀子が泣き出さんばかりの顔で立ちはだかった。
「その弓で何をするの。あなた、どこへ行くつもりなの?」
「言えない」数歩後ずさって言った。「黙って行かせてくれ。きみたちには関係ないことなんだ。行かなければならない。そうとしか言えない。許してくれ。ぼくのことは全部忘れるんだ。きみはもっといい人のところへ行く権利がある」
「いや!」半ば叫んで早紀子は首を振った。見据えてきた目から見る間に涙がこぼれた。「まっていたのよ、わたし。ずっと待っていた。兄の友達を子どもの頃からずっと見てきたの。そして十年という時間をかけて自分に尋ね、自分の心で決めてきたことなの。(略)でもこれは別。わたし、その人が思い詰めた目で、弓矢を持って夜中に家を出ていくのを黙って送り出す気にはなれない」
犯人も国家の犠牲者
すがる早紀子を振り切り、柏木は真犯人と対決する。しかし、犯人たちもまた国家に翻弄される犠牲者だった。
ひっそり生きてひっそり死ぬ。それすらできなかった男たちよ。たまたま海で魚を捕っている男たちがいた。よその海で魚を捕ったことで罪に問われ、シベリアで徒刑生活を送るか、国に帰ってある方法で暮らすことを選ぶか、ふたつにひとつの選択を迫られた。一所懸命働いて、ただ働いて国のいかなる庇護も受けられなかった男たちよ。何が国だ。何が政治だ。何の庇護も与えてくれなかった国に、なぜ忠誠を誓わなきゃならん。
これ以上はネタバレになってしまうので引用は控えますが、「背いて故郷」も「裂けて海峡」同様にシミタツ節が最後に炸裂するので、その部分を紹介しましょう。すべてを終えて柏木が早紀子の前を通り過ぎる場面です。
路上にひとり女性が立ちすくんでいた。差し伸べてきて、二本の手。
通り抜けた。声もなく、目もなく。
わたしを許すな。絶対に許すな。罪を今生償わせてもなお許すな。無限の苦しみを課さんがため、永劫わたしを生かしめよ。生きて地獄、果ててなお地獄。貶め、裁き、死してさらにその死骸を笞打て。
うーん、やっぱりいい。シミタツ節には酔わされます。「背いて故郷」、ぜひ手に取って読んでみてください。
(しみずのぼる)