「おいしい」と泣くことから再生は始まる…阿部暁子「カフネ」

「おいしい」と泣くことから再生は始まる…阿部暁子「カフネ」

今年最も売れた国内小説は、今年の本屋大賞受賞作で累計40万部を突破した阿部暁子氏「カフネ」(講談社刊)だそうです。家事代行の世界を描いた小説ですが、ミステリーの要素もあり、イッキ読み×泣ける小説です(2025.12.4) 

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多面的な魅力の詰まった小説

「カフネ」の帯に、こう書いています。 

「おいしい」と泣くことから再生は始まる。 

この小説の良さを一文で言い表すなら、確かにこの通りだと思います。 

でも、きっと一文で言い表すのが困難なほど、とても多面的な魅力の詰まった小説…というのが、わたしが読後に思ったことでした。そんな「カフネ」の魅力を、食べ物の場面を中心に紹介したいと思います。 

最愛の弟が遺した遺言書

主人公の野宮薫子は法務局に勤めるアラフォーの女性。弟の春彦が29歳の若さで急死したが、なぜか遺言書を残していた。しかも、遺言書には、財産の相続人として両親や姉の薫子のほかに、元恋人で春彦が一度だけ実家に連れてきた小野寺せつなの名が書いてあった。 

せつなは春彦と同い年で、家事代行サービス「カフネ」で食事を作る仕事をしていた。薫子は「カフネ」に連絡してせつなを喫茶店に呼び出し、春彦の遺言を告げたが、せつなはにべもなく「いりません」と答えた。 

「本当に心からいらないんです。私は放棄しますから、あとはそちらでよしなにやってください」 

あまりの言いように口論となるが、その場で薫子は意識を失って倒れた。自堕落な生活を繰り返して食事もろくにとっていなかったからだ。 

すぐ意識は戻ったものの、せつなが手配したタクシーに乗せられて自宅の部屋に運ばれ、部屋の惨状ーー大量のごみ袋や未開封の段ボール箱。汚れたシンク。冷蔵庫には大量の酎ハイ缶ーーをせつなに見られてしまう。 

冷蔵庫を覗いたせつなは言った。「このへんの食材、勝手に使わせてもらっていいですか」 

もう彼女にはこの救いようのない醜態を見られたし、でもあと少しすればあの子は帰っていくだろうし、そうすればまた自分はひとりだ。ここには誰も帰ってこないし、春彦がいなくなった今、自分に会いにくる人間なんてこの世にはいない。それならいくら散らかっていようが、どうでもいいじゃないか。 

ベッドにもたれて目をつむっていると、すごくいい匂いがした。「できましたよ」 

トマトとツナの豆乳素麺

ここから少し長く引用しますが、「おいしい」と泣くことから再生は始まる。の部分ですので、お許しください。 

「いただきます……」
美しく手を合わせたせつなにつられて、薫子も長いこと口にしていなかった挨拶を呟いた。湯気を立てるどんぶりを手に取ってみると、本当だ、とろみのある乳白色の液体の中に繊細な素麺が沈んでいる。無垢な雪原のような白を、すりごまの淡い茶色と、角切りトマトの赤が彩っている。
「きれい」
ぽつりと声がこぼれた。今生まれて初めて色を感じたというほど、そのどんぶりの色彩は美しく見えた。
「そうですか」
素っ気なく返したせつなは、ためらいなく音を立てて麺をすすった。
薫子も、何でできているのかわからない、けれどもものすごくいい匂いのする汁を、そっとひと口含んだ。
「ーーおいしい」
とてもやわらかい、豊かな旨味が口いっぱいに広がって、じんわりと体の奥深くまで染み入っていく。やさしい味、という表現がどうにも胡散くさい気がして好きではないのだが、これはそれ以外の形容が思いつかなかった。体の中からいたわられるような味だ。
「これ……豆乳?」
「豆乳とコンソメです。ツナ缶もあったから使わせてもらいました。玉ねぎのみじん切りとトマトとツナを炒めて、豆乳とコンソメで軽く煮て、あとはゆでた素麺にかけるだけ。私、素麺はあったかくして食べるほうが好きなんです」
(略)
「スープは多めに作ったので、あとで好きに食べてください。ご飯を入れてリゾットにしてもいいし、こんがり焼いたパンを入れて食べてもおいしいです。あと訊きたいんですけど、冷蔵庫に入ってる大量のーー」
せつなが言葉をとぎらせて、目をみはった。
「……どうしたんですか?」
言葉なんて何も出てこなくて、薫子はぼろぼろと涙のあふれる目もとを覆った。
やさしい味がしみて、痛いほどしみて、もう耐えられなかった。

薫子は、不妊治療に疲れ、夫には離婚を切り出され、生きる気力を失いつつあった。そんな切羽詰まった思いが、せつなが作った料理を口にして涙となって溢れた。 

ショートケーキで作ったパフェ

薫子がふたたびせつなに世話を焼いてもらうことになったのは、薫子の41歳の誕生日に春彦から誕生日プレゼントが届いたからだった。 

宅配便で届いた荷物は、誕生日プレゼントのほかにもうひとつあり、そちらには「こっちはせつなさんに渡してください」と書かれたカードが同封してあった。 

ここも大事な場面なので、長めに引用します。 

「酒臭い」
薫子が玄関のドアを開けるなり、せつなは顔をしかめて言い放った。
「何本飲んだんですか?」
「……二本だけよ」
「ロング缶ですよね。十分多いですよ。しかもそれだけ目つきと足もとがあやしくなるってことは、あなたはアルコールに強くないんです。人生終わらせたくなかったら、今のうちにやめたほうがいいですよ」
自分より若くてきれいな女の冷たいまなざしに、今の心は簡単にひしゃげた。
「今日は私の誕生日なの!」

「朝からお腹痛いし夫には離婚されて母親には息苦しいって言われて、ちっともおめでたくないしうれしくなんかないけど四十一歳の誕生日なの! ケーキもぐちゃぐちゃで春彦も死んじゃったけど、今日くらい嫌な思いも不安な思いもしないで気持ちよく眠りたいの! それがそんなにいけないこと!? お酒だってちゃんと自分で働いてもらったお給料で買ってるし、納税だってしてるじゃない!」

「ちょ、なにも泣かなくても」
「だって、ケーキがぐちゃぐちゃなのよ……!」

薫子は酒に酔ってショートケーキの入った透明パックを床に落としてしまったのだった。 

すすり泣く薫子に、せつなは声をかけた。「座って待っててください。このへんの板チョコとか冷蔵庫にあるもの、勝手に使いますよ」 

「どうぞ」
目の前に置かれたのは、信じられないことに、パフェだった。
ふっくらと艶やかな曲線を描くビアグラスは、公隆が可愛がってくれている法律事務所の上司が結婚祝いに贈ってくれたものだ。グラスの底にはスライスされた赤い苺、次に真っ白なクリームと、サイコロ状にカットされた淡い黄色のスポンジケーキが交互に重ねられている。その上層には、翡翠色と乳白色、二色のアイスクリームが美しい色の対比を見せながら盛られ、その上をまたスポンジケーキとクリームが覆う。クライマックスであるパフェの頂点には真っ赤な苺が女王のように飾られ、その脇には、小さな薄紅色の薔薇が三つ咲いていた。半透明のガラスで作ったような、なんとも愛らしい薔薇だ。これは何? 顔を近づけて凝視すると、驚いたことにリンゴでできているようだった。食べたくなって買ったはいいものの、皮をむくのが億劫で野菜室に放置していたリンゴがあったが、まさかあれで作ったのだろうか? こんなに繊細なものを、この短時間でどうやって?
「あなた……魔法使いみたいね」

せつなが作った「トマトとツナの豆乳素麺」と「お手軽ローズチョコパフェ」のくだりを紹介しましたが、どちらも「カフネ」の公式サイトにレシピが載っています。 

2024年05月22日発売『カフネ』(著:阿部暁子)作品公式サイト。物語や登場人物の紹介、作家インタビュー、書評、書店員のコメントなど、作品の魅力を紹介するコン…
cafune.kodansha.co.jp

春彦はなぜ死んだのか

こうやって引用してみると、食べ物が重要な要素であり、食べ物を通じて薫子とせつなの物語が展開していくのは間違いありませんが、ミステリーの要素も含まれています。 

弟の春彦はなぜ遺言書を残し、そこに元恋人の名を加えたのか。薫子への誕生日プレゼント(高価なエメラルドのピアス)とせつなあての包み(花が咲くのに30年から50年にかかるアガベの鉢植え)はなぜ、春彦の死後に届いたのかーー。 

「私の誕生日プレゼントは一万円以内厳守。お金は将来のために貯金しなさいって春彦には言ってたの。姉のプレゼントなんかにこんな浪費するような教育、あの子にはしてないの。おかしいの、こんなの」 

「そもそも、宅配便で届いたのがもうおかしいの。私たち、お互いの誕生日は必ず会ってお祝いして、プレゼントを手渡ししてたのよ。ずっとずっとそうだったのよ。それなのに、どうして? どうして今年だけプレゼントが送られてきたの? いつ準備していたの? どうしてこんなーー」 

「あの子、春彦、もしかして自分でーー」 

春彦はなぜ死んだのか。もしかして自殺なのか? そして、せつなだけが気づいた、春彦が家族に知られないようにしていた秘密ーー。そんな謎が、せつなに誘われて薫子が家事代行の手伝いをする過程で、徐々に明らかになっていきます。 

せつなと薫子が家事代行で出向く先のさまざまな家庭の抱える悩みも描かれますし、せつな自身が抱える秘密も明らかになっていきます。 

帯に「食が繋ぐ愛の物語」とありますのでジャンル的には恋愛小説なのでしょうが、それでも、ページをめくるたびに明かされる謎と伏線の回収は、まるで上質のミステリー小説を読んでいる気分にさせられます。

訳すのが難しいニュアンス

せつなが勤める家事代行サービスの社名であり、本書のタイトルでもある「カフネ」のことも書いておきましょう。「カフネ」社長の常盤斗季子と薫子の会話です。 

「あの、弊社のカフネという社名、意味はご存じですか?」 

「ポルトガル語で『愛しい人の髪に指を絡める仕草』をあらわす言葉ですよね。日本語に訳すのが難しいニュアンスの言葉だとありました」 

「さすが、そういうこともちゃんと調べている野宮さん、好きです」 

恋愛らしい場面もなければ、「愛してる」という言葉も出てこないけれど、相手をいたわる、やさしく思う気持ちが存分に伝わってくる本書の魅力を、端的に言い表している題名と思います。 

最後に、本書は家事代行のディテールが魅力のひとつですが、つい最近、家事代行会社の「ベアーズ」(東京都中央区)が企画した作者の阿部暁子さんも出席したトークイベントが催され、その様子が記事になっています。 

興味がある方は覗いてみてください。 

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(しみずのぼる)

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