クリスマスが近づくと街中に流れる音楽は、山下達郎「クリスマス・イブ」、ワム!「ラスト・クリスマス」、そして、きょう紹介するBAND AIDの「Do They Know It’s Christmas?」ではないでしょうか。制作過程のドキュメンタリーを見ると、奇跡のような曲作りだったことがわかります(2024.12.15)
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1984年のチャリティー・プロジェクト
BAND AID(バンド・エイド)は「イギリスとアイルランドのロック・ポップス界のスーパースターが集まって結成されたチャリティー・プロジェクト。1984年、エチオピアで起こった飢餓を受け、発起人のボブ・ゲルドフとミッジ・ユーロにより書かれた「Do They Know It’s Christmas?」を同年12月3日にリリースし、大きな成功を収めた」(ウィキペディア)とあります。
ユーチューブに公式動画があります。
最初のソロは当初D・ボウイだった
最初にソロで歌うのはポール・ヤングです(説明文はすべてウィキペディアより)
ポール・ヤング 1982年にソロ・デビュー。ブルー・アイド・ソウルのシンガーとして、イギリスやヨーロッパでは人気者であったが、1985年にホール&オーツのカヴァー曲であったシングル、「エヴリタイム・ユー・ゴー・アウェイ」がUSチャートで1位となるなど、世界的なヒットとなり、広く知られるようになった。
イギリスで2004年に製作されたドキュメンタリー番組(制作:Class Films Ltd.)によると、歌い出しのパートはデヴィッド・ボウイを予定していたそうですが、1984年11月24日の録音日にスタジオに現れず、その場でポール・ヤングが指名されたそうです。
自分のパートは自分の曲だと思って歌えと言われたよ(ポール・ヤング)
NYから呼び戻されたボーイ・ジョージ
2番目のパートは、絶頂期にあった「カルチャー・クラブ」のボーイ・ジョージです。
ボーイ・ジョージ 1982年、カルチャー・クラブのヴォーカリストとしてデビュー。奇抜なメイク、深みのある低音ボイスを特徴とした歌声で「君は完璧さ」「タイム」「カーマは気まぐれ」「ミス・ミー・ブラインド」といったヒットを連発。1980年代の第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンを牽引した。
ボーイ・ジョージは録音日当日はニューヨークにいて、朝4時にボブ・ゲルドフの電話で起こされてロンドンに呼び戻され、夜7時にスタジオに到着。10分後には歌詞の紙を渡されて録音ブースに入れられたそうです。
4時間しか寝ていなくてひどい声だったと思う。髪形もだらしない主婦みたいだった(ボーイ・ジョージ)
声がなめらかになるようにブランデーを1口飲みたいと所望して、ビンごと渡されて口にふくむ場面が映像に残されています。
当初予定になかった生ドラム
ドラムを叩いているのは「ジェネシス」のフィル・コリンズです。
フィル・コリンズ 1970年、プログレッシブ・ロック・バンドであるジェネシスに、ドラマーとして加入。当時のリーダー的存在だったピーター・ガブリエル脱退後は、彼に代わってボーカリストも務めた。ソロ・アーティストとしても多大な成功を残している。
フィル・コリンズがドラムを叩きたいと言った。(作曲を担当した)ミッジ・ユーロが怒り出した。ところがフィルはお構いなしに叩き続け、みんなを黙らせてしまったんだ。生のドラムが加わったおかげで音に厚みが出た(ボブ・ゲルドフ)
この歌詞は唄えないと言ったボノ
ボノ(U2)が唄うパートは、ボノが「この歌詞は歌えない」と言って、ぎりぎりまで揉めたそうです。
ボノ アイルランド・ダブリン出身のミュージシャン。ロックバンド、U2のボーカルであり、バンドのフロントマンとして知られる。国際的な慈善活動家としても知られ、ノーベル平和賞の候補に3度選ばれている。
ボノが難色を示したパートは、次のような歌詞です。
悲惨な目にあっているのが
僕らではないことを神に感謝しよう
ボノはこう振り返っています。
ボブから渡された歌詞に目を通して、このフレーズだけは歌えないと反論した(ボノ)
これに対して、作詞を担当したボブ・ゲルドフは次のように説得したそうです。
自分の家族が死にそうになっている状況を想像できるかい? この歌はそれを訴えようとしているんだ。僕らは暖かい家の中で楽しいクリスマスをしている。でも窓の外にはまったく違う現実の世界が広がっているんだ(ボブ・ゲルドフ)
ボブの説得に負けてボノは歌詞どおりに歌っていますが、20年後の2004年に製作されたドキュメンタリーで、ボノは「あの歌詞は今も好きになれないな。とても…ごう慢(big)な感じがする」と言っています。
偶然に偶然を重ねたプロジェクト
BAND AIDは、エチオピアの飢餓を取り上げたBBCのニュース番組をたまたま見たボブ・ゲルドフ(ブームタウン・ラッツ)が「自分たちに何かできることはないか」と思ったのが発端です。もしボブ・ゲルドフがニュース番組を見ていなかったら、このプロジェクト自体が存在しなかったわけです。
ボブはすぐさま友人のミッジ・ユーロ(ウルトラヴォックス)に相談を持ち掛け、ミッジはBBCの番組を見ていなかったものの「ヒットするクリスマスソングを作ったらどうか」と提案、ボブがミッジに曲作りを依頼したことでプロジェクトが動き出します。
参加メンバーも偶然に偶然を重ねて決まっていきます。
ボブがロンドンの骨董品店でゲイリー・ケンプ(スパイダー・バレエ)を見かけて、ミッジとの構想を話すと「僕も参加したい」と言い、さらにゲイリーと別れた直後に今度は通りを歩いていたサイモン・ル・ボン(デュラン・デュラン)と遭遇。参加を打診すると「もちろん」と答えが返ってきたそうです。ロンドンの街中をたまたま当時絶頂期の人気ミュージシャンがブラブラ歩いていた…というだけでも凄い偶然です。
LIVE AIDの成功と厳しい現実
このようにして出来上がったシングル・レコードは英国史上最速・最大のヒットナンバーとなり、翌85年のLIVE AID(ライヴエイド)の成功に結実します。
LIVE AID 「1億人の飢餓を救う」というスローガンの下、「アフリカ難民救済」を目的として、1985年7月13日に行われた、20世紀最大のチャリティーコンサート。「1980年代のウッドストック」とも一部でいわれていたが、その規模をはるかに超越したものとなった。2004年にDVDとして発売された。
しかし、2004年のドキュメンタリーは、BAND AIDの取り組みを称えつつも、アフリカの厳しい現実が変わったわけではないことも指摘しています。ボノがこう話しています。
ライヴエイドで集めた募金は2億5000万ポンドぐらいだろう。大変な額で驚いたよ。皆少しは貢献できたと誇りに思っていたんだ。 でも現実は厳しいものだった。アフリカは負債の利息として寄付金と同じ額を毎月支払っている(ボノ)
いろいろと考えさせられるクリスマス・ソングですが、それでも名曲であることに変わりはありません。
なお、縷々引用したドキュメンタリーは「THE BAND AID STORY」という番組です。
日本のBS放送をダビングした海賊版DVDも出ています。入手困難ではありますが、興味がある方は探してみてください。
(しみずのぼる)
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