きょう紹介するのは、江戸の遊郭・吉原を舞台にした伝奇小説の傑作「吉原御免状」(新潮文庫)です。隆慶一郎氏のデビュー作であり、「吉原とは何か」を深く考察した作品でもあります(2025.1.26)
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「生まれては苦界」
吉原は、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の舞台です。せっかくですから、NHKの記事(大河ドラマ「べらぼう」蔦屋重三郎はどんな人?吉原はいま 台東区のゆかりの地をかたせ梨乃さんと巡る)から引用しましょう。
ドラマで現在、物語の舞台として描かれている「吉原」。当時、幕府から公認を得た唯一の遊郭街として、2000人を越える遊女がいたといわれています。
吉原があったのは、江戸城から徒歩で1時間ほどの浅草寺の北側、現在の台東区にあたります。
吉原大門(おおもん)やお歯黒ドブも出てきます。
吉原は当時、遊女の逃走を防ぐため高い堀に囲まれており、出入り口は基本的に大門1つとなっていました。
「お歯黒ドブ」と呼ばれる周囲に張り巡らされていた堀。犯罪者の不正な出入りや、遊女の逃亡を防止するために作られたと言われています。
吉原の遊女たちが弔われている浄閑寺のくだりはこう紹介されています。
豪華絢爛(けんらん)に着飾り、一見華やかに見える遊女たち。
一方で、性病や栄養失調などで命を落とし吉原から一歩も外に出ることなくその一生を終える人も少なくありませんでした。当時、投げ込み寺とも呼ばれ身よりがない遊女たちの亡骸(なきがら)が持ち込まれたというこのお寺。
今も彼女たちの供養をおこなっています。
慰霊塔の傍らには一編の句が。「生まれては苦界、死しては浄閑寺」
遊女たちの人生をしのんでうたわれたといわれています。

「遊女の逃亡を防ぐ」という記述や「生まれては苦界」という慰霊碑の一節が、吉原でからだを売る遊女たちの境遇を表している…というのが一般的な受け止め方でしょう。
きょう紹介する隆慶一郎氏(1923-1989)が1986年に発表、直木賞候補ともなったデビュー作「吉原御免状」は、そんな”常識”を大きく揺さぶります。

宮本武蔵に育てられた青年剣士・松永誠一郎は、師の遺言に従い江戸・吉原に赴く。だが、その地に着くや否や、八方からの夥しい殺気が彼を取り囲んだ。吉原には裏柳生の忍びの群れが跳梁していたのだ。彼らの狙う「神君御免状」とは何か。武蔵はなぜ彼を、この色里へ送ったのか。――吉原成立の秘話、徳川家康影武者説をも織り込んで縦横無尽に展開する、大型剣豪作家初の長編小説。

「おいらん、って、なんですか」
剣豪宮本武蔵の遺言ーー「二十五才まで山を出すな。二十六才になったら、江戸にゆき、吉原に庄司甚右衛門を訪ねさせよ」ーーのとおり、肥後の山中で剣の修行がすべてだった誠一郎は、だから吉原に着いても吉原がどういうところかすら知らなかった。
「おいらん、って、なんですか」
「へっ?」
男は、どぎもを抜かれたような、かん高い声をあげた。「ああた、丁へおでかけじゃ、ないんで」
「丁って?」
「悪い冗談だ」
男は手をふってみせた。
「丁は丁でさァ。吉原五丁町のことって……」
「ああ。それなら、確かに私の行先です」
「丁へゆくのに、おいらんをご存知ない?」
男は、からかわれたと思ったらしい。むっ、とした表情になった。
しかし、誠一郎の次の言葉で空気が一変した。
「私は、おいらんという人に会いにゆくんじゃないんです。庄司甚右衛門という方に用があるだけで……」
不意に、空気が凍りついた。このおかしげな男の体内から、思いもかけぬ凄まじい殺気が、放射されたのである。
吉原を歩いていても「八方から殺気がとんで来る」「確たる目標を持った、刺すような殺気である」
ところが、誠一郎が宮本武蔵の弟子と知れると、空気がまた一変した。
不意に、放射され続けていた夥しい殺気が、ハタとやんだ。一瞬の変化である。替って、奇妙な温かさが、誠一郎を包んだ。
(どういうことだ、これは)
案内された湯屋で幻斎と名乗る老人に声を掛けられた。
物語の途中で明かされますが、幻斎が武蔵が「訪ねさせよ」と遺言を残した庄司甚右衛門ーー吉原を創設した男です。
「御免状はどこだ?」
幻斎の口から吉原成立秘話が語られるのですが、その前に、あらすじにある「神君御免状」のくだりも紹介しておきましょう。
頭領らしい、やや年かさの武士が、誠一郎の前に立った。唐突に訊いた。
「御免状はどこだ?」
「御免状? 手形のことですか?」
「とぼけるつもりか、お主?」
いつの間にか、四人の武士が縁台をとり囲んでいる。
「手形は宿に置いて来ました。江戸町の西田屋というところですが……」
「御免状は西田屋にあるということか?」
「私の手形なら、確かに……」
「神君御免状のことだ」
男は刺すように、誠一郎の目を見つめた。声は低いが、はっきり『神君御免状』といった。
「シンクン……?」
咄嗟に文字が浮かばぬまま、誠一郎は問い返した。問いながら、どうやら『神君』らしいと判断はついたが、手形とはあんまりかけ離れすぎていて、もう一つしっくりと来ない。
「謎々は苦手です。はっきり云ってくれませんか」
「神君」とは徳川家康のこと。家康が吉原を幕府公認の唯一の遊郭であることを認めた書状ですが、それが公になれば江戸幕府が転覆するほどの秘事が書かれていて、そのために2代将軍・秀忠の命を受けた裏柳生が御免状を奪おうと躍起になっている…ということが、物語が進むにつれて明らかになっていきます。
御免状に書かれている秘事とは何か、それは「吉原御免状」を手に取ってお確かめ頂きたいのですが、先に触れた吉原成立秘話を明かしましょう。
幻斎が語る吉原成立秘話
幻斎は自らが傀儡子族であることを明かし、「あらゆる世俗の権力の『不入の地』である公界」を求め、吉原を作ったことを誠一郎に説明します。
「われら傀儡子だけではなく、『公界往来人』、又は『七道往来人』と呼ばれ、関渡津泊の通行を許された種々雑多な漂泊の人々が、ひたすらその地を頼りに転化を歩き廻っていた時代が現実にあった」
「それも決してそれほど遠い昔のことではないぞ。室町・戦国の時代まで、そうした世は続いていた。そうした公界では、『理不尽の使、入るべからず』といってな、いかに強大な権力をもつ国司又は戦国大名と雖(いえど)も、勝手な介入は出来ず、すべての貢物は免除され、そこに属する無頼の徒・公界人は誇り高く、いずれも諸国往来勝手の特権を持っていた…(中略)公界はさながら桃源郷であり、理想郷であった……」
そのような公界の存在を望まない徳川幕府は「公界つぶしのために世にも狡猾な方法をとった」 ーーそれは差別だった。
公界を苦界に変え、無縁を無縁仏というような暗いイメージに変えたのも、徳川幕府の陰謀といっていい。現代風にいえば、徳川幕府が最も恐れたものは、自由にほかならず、その自由を封じるために、『無縁の徒』『公界』を『差別』の殻の中に閉じこめたのである。
差別意識で貶められた傀儡子出身の遊女を救うため、幻斎は「城を造るしかない」と思い定めた。
「女たちを大鴉共から守り、その身を洗ってやることの出来る城だ」
そのような思いで徳川家康に直訴し、家康に一筆認めさせたのが「神君御免状」だった。
もっとも、なぜ家康が御免状を書いたのか、そこには何が書かれていたのか、その謎こそが裏柳生が血眼になって御免状の奪取に駆り立てるのですが、それは明かさないでおきましょう。
今も吉原の遊女たちの菩提寺に残る「生まれては苦界」の文字。しかし、実際は「苦界」ではなく「公界」を追い求めて出来たのが吉原だったーー。そんな考えを物語の柱に据えているのが「吉原御免状」です。
「吉原御免状」は、武蔵を師に持つ誠一郎と裏柳生の総帥・義仙との冴えわたる剣技の末の死闘や、誠一郎と太夫との絡みなども相まって、読みだしたら止められない展開となります。
巻末につく隆氏の「後記」
ですから、読後の充足感はひとしおなのですが、その余韻に浸る間もなく、巻末に添えられた隆慶一郎氏の「後記」で深く考えさせられるのです。
書き出しは関東大震災です。
新吉原は壊滅した。焼跡には夥しい遊女の死体が転り、お歯黒どぶは水ぶくれになった遊女たちで埋っていたという。
この遊女たちが、お互いの身体をロープでつないでいたことが、評判になった。鬼のような楼主たち(昔の亡八ども)が、遊女がこの機会を利して逃亡することを恐れ、こうしてロープでつなぎ合わせた、このために、女たちは自由に逃げることが出来ず、この惨状を招いた、と多くの人々が語った。ロープの最先端にいたのが、殆どいわゆる牛太郎であったことが、この噂に輪をかけることになった。勿論、遊女たちの監視人、と信じられたからだ。
しかし、隆氏は、これが偏見、固定観念が生んだ俗説だったと説きます。
牛太郎の役割は、監視ではなかった。大地震と火事のショックで、オロオロと逃げまどうことしか出来なかった遊女たちを誘導するために、ロープをかけたのである。
このお陰で、多くの遊女は生命を拾い、誘導に失敗した牛太郎は遊女もろとも死んだ。…(中略)寧ろ彼等(=牛太郎)の方が犠牲者だったのである。
この震災のエピソードから、隆氏は疑問を投げかけます。
吉原が遊女たちを縛り、足抜きをふせぐためにどんな残虐なことでもするというのは、本当に事実なのだろうか。
お歯黒どぶや大門の両脇にある面番所の目的が俗説といかに異なるかを説明し、「徳川幕府の制度から見れば誠に驚くべきことだが、吉原の内部は完全な自治が認められていた」こと、そして、「これほどの自由が許される場所を示す言葉は一つしかない。中世の公界である…(中略)今風にいえば自由都市のことだ」と続けます。
幕府は明かに吉原が公界であることを知っていた。従ってその本来の政策上、吉原をつぶそうとした筈だし、その試みは歴史の中に何回も刻まれている。だが不思議なことに、この試みは常に挫折し、吉原はしぶとく生き残っていった。幕府が巨大な権力をもってしても、吉原をつぶすことが出来なかった理由とは何か。ここに大きな謎がある。
僕は、この僕にとって初めての小説の中で、敢てこの巨大な謎に挑んでみた。
「べらぼう」で吉原がドラマの舞台となっている時だからこそ、隆氏の「吉原=公界」説にも興味を持っていただけたらと思います。
なお、「吉原御免状」には「かくれさと苦界行」という続編がありますし、神君御免状のプロットの中核を成す隆氏の最高傑作「影武者徳川家康」(上中下)があります。

徳川家康より与えられた「神君御免状」をめぐる裏柳生との争いに勝ち、松永誠一郎は色里・吉原の惣名主となった。だが、一度は敗れながら、なお執拗に御免状を狙う裏柳生の総帥・柳生義仙の邪剣が再び誠一郎に迫る。加えて吉原を潰すべく岡場所が各所に乱立し、さらに柳生の守護神・荒木又右衛門も江戸に現れた。ついに吉原と裏柳生全面対決の時が――。圧倒的迫力で描く時代長編(「かくれさと苦界行」新潮文庫)
慶長五年関ヶ原。家康は島左近配下の武田忍びに暗殺された! 家康の死が洩れると士気に影響する。このいくさに敗れては徳川家による天下統一もない。徳川陣営は苦肉の策として、影武者・世良田二郎三郎を家康に仕立てた。しかし、この影武者、只者ではなかった。かつて一向一揆で信長を射った「いくさ人」であり、十年の影武者生活で家康の兵法や思考法まで身につけていたのだ……(「影武者徳川家康」上中下、新潮文庫)


隆氏の小説の難点をひとつあげるとしたら、読みだしたらとめられないことです。
今回「吉原御免状」を二十数年ぶりに再読しましたが、とめられずに「かくさと苦界行」まで一気読みしてしまいました。傑作揃いです。おすすめです。
(しみずのぼる)
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