きょう紹介するのは浅田次郎氏の新刊「完本 神坐(いま)す山の物語」(双葉社刊)です。太古から神を祀ってきた霊山・御嶽山で美しい伯母に聞かされた夜語りは、どれももの哀しい怪異譚ばかりだった……。清浄なものがたりに心酔わされます(2024.8.7)
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書き下ろしを加えた完全版
「完本 神坐す山の物語」は単行本で2000円(+税)。しかも、収められている短編の大半は既読のものばかり……。書店で手にとって正直迷いました。

未読は書き下ろしとあとがきだけか…
でも、収録された短編はどれも鮮烈な印象を持つものばかり。題名を見ただけで「ああ、あの話か…」と思い出すものもあれば、すぐに記憶が蘇らなかった短編も書店で少しページをめくるだけで思い出すものもあればで、

この短編群をひとつひとつ丁寧に読んでいったら幸せだろうな…
と思ったらもう欲しくなってしまいました。
本書には、「あやし うらめし あな かなし」(集英社文庫)から2篇、「神坐す山の物語」(双葉文庫)から7篇、それに単行本未収録の1篇、書き下ろしの1篇の合計11の短編が収められています。集英社が双葉社に協力したのでしょうが、こうやって1冊にまとまって読めるのは本当に幸せなことです。



奥多摩の、太古から神を祀ってきた霊山・御嶽山の上にある村。そこにある神官屋敷は浅田氏の実家である。彼が少年だったころ、美しい伯母から聞かされた怪談めいた夜語り。それは怖いけれど、美しくも哀しく、どれも引き込まれるものばかりだった。これら神主の家に伝わる話を元に脚色して書かれた短編を編み直し、単行本未収録作品「神上りましし諸人の話」(あとがきにかえて)と、書き下ろし作品「山揺らぐ」を加え、完本とした永久保存の決定版!

どれも清浄なものがたり
11の短編を貫くものは、ひとことで言えば「清浄」ということばです。帯にも「精霊や神霊といった清らかな存在」とあります。
例えば、著者が子供の時に経験した早逝の伯父、秀(すぐる)との日々を綴った「見知らぬ少年」という短編に、こんなくだりが出てきます。
急勾配のケーブルカーの窓から、遠ざかる山頂を見上げた。そのときふと、御嶽山は八百万の神々が坐す山なのではなく、山そのものが神なのではないか、と思った。その肩や胸や膝を借りて人々が暮らし、遙かな昔から、不死の神々に較べれば虫けらのように短い生を、くり返してきたのではないか、と。
(略)
滝本の駅に降り立つと、山上にはありえぬ蒸し暑さを肌に感じた。山麓をバスで下るみちみち、不快感は強くなった。
気温が上がるばかりではなく、空気が穢れるのである。そして悲しいことには、肌が穢れてゆくほどに、秀の清冽な記憶は喪われていった。
神坐す山という磁場で語られる怪異譚だからこそ、「清浄」「清冽」「清らか」ということばがふさわしく感じられるのでしょう。
ちとせ伯母が語る寝物語
どれも好きな短編ですが、ひとつだけ選んで紹介しましょう。巻頭を飾る「赤い絆」です。
その男女の客は月のない真冬の山道を、抱き合いながら登りつめてきたのだと伯母は言った。
枕を並べて耳を欹(そばだ)てる子供らは、寝物語の初めのひとことで怖れをなし、悲鳴をあげて布団に潜りこんだ。
子供たちに寝物語を語るちとせ伯母は、著者の母親とはだいぶ年の離れた姉で、若い時分に嫁ぎ先を追われ、息子を嫁ぎ先に残したまま実家に出戻った人だった。
ちとせ伯母がまだ幼子の頃のこと、山中の神社に身を寄せた男は帝国大学の学生で、その親は名の知られた財界人。女は吉原の遊郭で金看板の太夫だった。ふたりは赤い紐でそれぞれの手首を結んでいた。
武蔵御嶽神社は太古の森に鎧われた山頂に鎮まっている。日本武尊を祀った社の裏手には、大菩薩峠を超えて甲州にまでつらなる深い山が拡がる。渓流に沿うた岩石園があり、多くの滝が落ちるあたりは、飛び降りるにしろ首をくくるにしろ、自殺には格好の幽谷であった。
身分の違いから心中を図って果たせぬまま辿り着いた男女を、曽祖父は出迎え、
「それで、この五番のお部屋に通した」
子供らはまた悲鳴を上げて布団に潜りこんだ。
死にそびれた女の懇願
しかし、曽祖父の説得もむなしく、男女は殺鼠剤を飲んで心中を決行。男はこと切れたが、女はまだ息が合った。喉をかきむしりながら「殺して殺して」と懇願した。
「介錯をいたしましょう」
曽祖父のその言葉を、伯母ははっきりと記憶していた。当然そうするべきだと、幼な心にも思ったそうだ。
(略)
「いや、それでは御師さまが殺人罪に問われます」
と、医師が否んだ。
「残りの猫イラズを嚥ませればよいでしょう。人殺しにはあたりますまい」
曽祖父がそう言うと、女は虚空に白い手を挙げて、「ちょうだい、ちょうだい」とうわごとのように言った。
(略)
「それはなりません」
「なにゆえですか。私は人殺しをするのではなく、人助けをするのです」
「いや、人殺しです」
「本人に手渡すだけのことが、人殺しのはずがない」
「いや、それも立派な人殺しです」
押し引きするうちに、曽祖父が屈した。「もはや神様にお任せするよりほかはありません」という医師の言葉が効いたふうだった。曽祖父は一個の人間や武士である前に、やはり神官であった。
母を恋ふる思いと伯母の言葉
こうして二日二晩、苦しみながら死んだ女の話が語られると同時に、著者の母親のことが織り交ぜられます。
駆け落ち同然に山を離れた母が、父の事業の失敗から離婚。夜の仕事をしながら、著者とその兄の二人の子供を育てたことや、母を恋ふる著者の気持ちが語られながら、著者はこう思い当たる。
もしや伯母は、ほかの子供らはともかくとして、私ひとりにこの話を聞かせていたのではなかろうか。蒲団の中にちぢこまって耳を欹(そばだ)てていた子らのうち、話の内容を誠実に受け止めることができたのは、母を通して大人の世界を覗き見ていた私だけであったはずなのだから。
ともあれ私は、伯母の話を聞きながら頭の別の部分では母のことばかり考え続けていた。
私のいない夜を、凍えながら過ごしているのではなかろうか。あるいは私のいぬことを幸いに、ほかの男と添い寝をしているのではあるまいかーーなどと。
心中を遂げられなかった女の亡骸は、麓の寺に無縁仏として届けられた。
金で売られた時に親との絆は切れ、足抜けによって買主との縁もみずから断ち切った。そして最後に残っていた赤い絆も、男の死によって断たれてしまった。事件にかかわった人々は非情であったわけではなく、女との絆を誰も持っていなかっただけなのだ。
伯母は背骨の折れるような溜息をついた。それからわずかに首を転らして、子供らの寝顔を確かめながら呟いた。
「おまえ、おかあさんのそばにいておやり。はたが何を言ってきても、好きな女の人ができても、おかあさんの手を放すんじゃないよ」
私は闇の中で肯いた。嫁ぎ先に息子を奪われた伯母のその言葉は、骨の軋みが聞こえるくらい切実だった。
むせび泣く悲しみを癒すすべ
女の死後、五番の客間は怪異に見舞われた。
ある客は夜中にひどく咽が渇くと訴えて、台所に水を貰いに来た。またある客は、一晩じゅう熱い熱いと訴えた。
ことに極め付きは、真夜中に何ものかが蒲団の中に忍んできて、背中をするりと抱きしめるというのである。
母の哀しみ、伯母の哀しみを織り交ぜた哀切極まりない怪異譚の最後を、そのまま紹介して拙文を閉じます。
障子が開いて、檜の匂いのする夜気が流れこんだ。
私はわずかに瞼をもたげ、睫の間から冬の星ぼしを見やった。三千尺の山頂に豁(ひら)けた夜空は、眩いほどの星あかりに満ちていた。遠い昔に、すべての絆を失って身じろぎすらできなくなった瀕死の女が、この世で最後に見た景色にちがいなかった。
夢とうつつとが判然としないまま、私は「おかえりなさい」と呟いた。
何ものかが私の背中に体を合わせてきた。氷のように冷え切った手が首筋に滑りこみ、もう片方の手が胸を抱き寄せた。私は十分に熱した掌で、その両手をくるみこんだ。冷たい素足に、私のあしうらを当てた。
慄えがおさまると、耳元に圧し殺した噎(むせ)び泣きが聞こえた。その悲しみを癒すすべは、熱しきらぬこの体のぬくもりでしかないことを私は知っていた。なるたけすきまのあかぬように身を綿にして、私は無力だけれども万能にちがいない私の熱を、女の体に分け与えた。
今さらその体のあるじが、母であるのか伯母であるのか死んだ女であるのか、そんなことはどうでもよい。
(しみずのぼる)
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