直木賞作家・佐藤正午氏の『鳩の撃退法』は、山田風太郎賞を受賞し、映画化も果たした傑作ミステリーです。偽札、失踪、そしてピーターパンの本――。一見無関係に見える断片的なエピソードが、物語の終盤に向けてまるでジグソーパズルのように組み上がっていく快感は、本作でしか味わえません。今回は、小説ならではの複雑な構造とその魅力を深掘りして解説します。(2025.2.27)
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目次
まるでジグソーパズルのようなミステリー小説
ジグソーパズルはお好きですか? 最後のピースがカチッとハマる快感ーー。パズルのように複雑怪奇なのに、読み終えるとパズルのピースが見事にハマる、そんな小説ーーそれが佐藤正午氏の『鳩の撃退法』です。
『鳩の撃退法』(上下巻、小学館文庫)は2014年に出版され、翌15年に山田風太郎賞を受賞。2021年には映画化もされています。わたしは文庫化された2018年に読みました。
それ以前は、佐藤正午氏の小説は『ジャンプ』(2000年)ぐらいしか読んだことがありませんでしたが、『鳩の撃退法』に衝撃を受け、『5』(2007年)や『身の上話』(2009年)、『事の次第』(2011年)、直木賞受賞作で映画化もされた『月の満ち欠け』(2017年)も手に取りました。
どれも大変おもしろかったですが、まるでジグソーパズルのような…という衝撃の大きさは『鳩の撃退法』がいちばんでした。
断片が繋がるパズル的な物語の構造
モナ・リザでもいいし、ディズニーのキャラクターでもいい。ジグソーパズルを買ってきたら、ピースを全部嵌め終えてわかる全体の絵がありますよね?
もし、この小説の「全体の絵」を言うなら、下巻の背表紙にある次の一文でしょう。
忽然と姿を消した家族、郵便局員の失踪、うごめく裏社会、疑惑の大金……多くのひとの運命を狂わせた、たった一日の物語が浮かびあがる。
まるでバラバラなピースなのに、上下巻を読み終えて驚くのは、すべてのはじまりは「たった一日」ーー正確には2月28日から29日未明にかけての主人公の作家・津田伸一の行動がきっかけだったーーということがわかるのです。しかもそれが全68章あるうちの68章目、最後の数ページでわかる、という仕掛けです。
そんな小説を、わたしは過去一度も読んだ記憶がありません。
ですから、『鳩の撃退法』だけは、あまり事前の情報がないまま、できれば背表紙のあらすじも読まないで書店でお買い求めいただいて読み始めることをお勧めします。
でも、もう少し中身がわからないと…と思う方もいるでしょうから、文庫版の背表紙のあらすじの範囲内で『鳩の撃退法』の紹介をしようと思います。
失踪した家族と幸地秀吉の謎
『鳩の撃退法』の第1章は、こんな書き出しで始まります。
幸地家の幼い娘は父親のことをヒデヨシと呼んでいた。パパとかお父さんとかのかわりにヒデヨシ、漢字に書けば秀吉という父親の名前を呼び捨てにしたのである。
幸地秀吉はその日、妻の奈々美から妊娠を打ち明けられた。秀吉が何度も妊娠に間違いないかと訊ね、奈々美が間違いなく妊娠していると言うと、秀吉が「だったら、おなかの子の父親は俺じゃない」と告げる……。
そんなスリリングな始まり方なのに、幸地秀吉は主人公ではありません。先ほどの「全体の絵」で言えば、妊娠した・奈々美、父をヒデヨシと呼ぶ幼い娘・茜と一緒に「忽然と姿を消した家族」です。
『ピーターパン』が象徴する違和感
第2章は「半日ほど時間を巻き戻して、その問題の日の明け方、つまり昨年二月二十八日午前三時頃のこと、幸地秀吉は繁華街の一角にあるドーナツショップにひとりで入った」の一文で始まります。
そこで本を読む男と相席となり、近くの古本屋・房州書店で買ったピーターパンの本について言葉をかわします。
「いま読んでるところまでで言うと」男は即答した。「まずものを考えない。それから忘れっぽい。うぬぼれが強くて、なまいき。あと大事な点は、機嫌をそこねた女の子を上手におだてる。その栞をはさんだページをひらくと、いい台詞が出てくる」
本からはみ出している千円札の端に指を触れ、やはりこれは栞のつもりなのだと幸地秀吉は思った。彼がそう思っていることを男は読み取った。
「はさむ癖があるんだよ。本についている紐の栞は使わずに、カバーがあればカバーの折り返しをはさむ。おなじ癖だね?」
名前が出てくるのは幸地秀吉ですし、ピーターパンの本の男はただ「男」とだけ出てくるので読者の錯覚が続きますが、第2章が終わる頃、文庫版で51ページになって次の文章となります。
実はこのとき、コーデュロイのズボンの太腿あたりを指でつまみながら、片足で飛び跳ねていたのは僕である。つまり昨年二月二十八日午前三時過ぎ、ドーナツショップで幸地秀吉と相席していた男、それが僕で、ここからこの物語で活躍することになる。
なんと51ページです。下手な短編よりも長いページにわたって、読者は主人公を錯覚させられながら読み進めていたわけです。
デリヘル嬢との会話に潜むヒント
そこからも、まだまだ「何の話だ?」という状態が続きます。第3章では「僕」ーー津田伸一はデリヘル嬢の送迎ドライバーをしていて、女優の名前を冠したデリヘル嬢とこんな会話をかわします。
「きょうも郵便配達のお兄さんか」
「銀杏の客。浅丘君のご贔屓さんだろ」「それってあれ?」信号待ちでルリ子が言った。「秀子さんのほうと勘違い?」
「なにが」
「郵便配達のお兄さん」
「そうか?」
「うん。ルリ子のリピーターはJRのお兄さん」
秀子さんとはやはりコンパニオンの高峰秀子のことで、リピーターとは、好き者の客のことを社長が従業員にそう呼ばせるよう教育しているのである。
何の話だ???と思いますよね。
本筋にまったく関係なさそうなので、わたしも最初に読んだ時は読み飛ばした部分ですが、これは前述の「全体の絵」で言う「郵便局員の失踪」の部分です。ちなみに、ここで出てくる高峰秀子も失踪するひとりですが、それが明らかになるのはだいぶページが進んでからです。
第3章では、古本屋をたたむ房州書店の爺さんと「僕」の会話ーー貸した3万2000円を返せーーも織り込まれます。 ますますもって「何の話だ???」と思うばかりですが、第4章に入ってすぐに次の文章となります。
さて。
以上で昨年二月二十八日、夜九時三十分頃までの出来事を書き終えた。
これで物語の登場人物の大半が出揃ったことになる。
このなかに現在、ドーナツショップの喫煙席でMacBookを叩いているまさにいま現在という意味だが、僕の前からいなくなってしまった人間が複数いる。具体的にいうなら死亡の確認された人間と行方をくらませた人間が。
死亡したのは房州書店の爺さん、行方をくらませたのは幸地秀吉のわけですが、読者は第3章まで読んで「これは何の話だ???」と疑念を膨らませることはあっても、「そうか、登場人物が揃ったか」とは到底思えないでしょう(でも、最後の第68章まで読むと、ほんとに第3章までに「物語の登場人物の大半が出揃っ」ていたことに驚かされます)
物語を動かす「偽の一万円札」の存在
文庫の背表紙(上巻)から、あらすじに触れる部分をもうすこし抜き書きしましょう。
かつては直木賞も受賞した作家・津田伸一は、「女優倶楽部」の送迎ドライバーとして小さな街でその日暮らしを続けていた。そんな元作家のもとに三千万円を超える現金が転がりこんだが、喜びも束の間、思わぬ事実が判明する。ーー昨日あんたが使ったのは偽の一万円札だったんだよ。
偽札の出所を追っているのは警察だけではない。一年前に家族三人が失踪した事件をはじめ、街で起きた物騒な事件に必ず関わっている裏社会の”あの人”も、その動向に目を光らせているという。
そう、『鳩の撃退法』は偽札にまつわるストーリーなのです。
第4章の冒頭で「物語の登場人物の大半が出揃った」はずなのに、肝心な偽札の話が出てくるのはまだ先で、デリヘル嬢の会社「女優倶楽部」の社長が「僕」にこう言う場面です。
おれが言いたいのは、いや床屋のまえだが言いたがっているのはそこだよ。津田さんひとりが一万円札で支払ったんだ。だから昨日の夕方、店の売り上げ金庫にあった一万円札はもともと津田さんが持ってた一万円札ってことになる。その一万円札を床屋のまえだは女に貸した。女はそれを持ってパチンコ屋に走った。そして騒ぎを起こした。子供でもわかる筋道だろ? 言わずもがななんだよ。去年の事件はまあ別として、今回、騒ぎのもとを作ったのは津田さんだ。昨日あんたが使ったのは偽の一万円札だったんだよ
このセリフが出てくるのは第12章、ページ数で言うと184ページ。少し薄めの文庫本一冊分です。まったくもって何の話だ???ですよね。
それでも「何の話かぜんぜんわからん!」と投げ出さないで済むのは、佐藤正午氏の筆力のなせるワザとしか言いようがありません。
ちなみに、「女優倶楽部」社長が「去年の事件はまあ別として」と言っているのは、ホテルで偽一万円札が使われた事件のことで、それが件の郵便局員と高峰秀子の失踪事件につながるのですが、それが読者にわかるのは下巻に入ってから。まるでジグソーパズル…とわたしが言うのもわかっていただけるでしょう。
そもそも本のタイトルも意味不明です。「鳩」が偽札のことを指すとわかるのも下巻に入ってからです。
「ほら一万円札の裏には鳳凰(ほうおう)の絵柄が刷ってあるでしょう。だから本物の一万円札にあえて裏の呼び名をつけるなら鳳凰、それと区別して、倉田は偽札を鳩と呼んでるんだと私は思うよ。そうではないでしょうか? 津田さん」(第61章)
日常の裏で静かに進む「事件」の正体
実はピーターパンの古本も重要なピースとなっています。途中で次の文章が引用されていて、それが「鳩の撃退法」全体のプロットを指し示しています。
私たちが生きていくあいだに、私たちの上にきみょうなできごとがおこり、しかも、しばらくは、その起こったことさえ気がつかないことがあります(第11章)
この複雑怪奇な小説の最後の章ーー第68章のしめくくりは(ネタバレにならないので引用しますが)次のような文章です。
いま、この瞬間、重要な出来事が起きている。ピーターパンが行方をくらまそうとしている。だがそのことを僕は知らない。そのせいでいつか本通り裏と関わりを持つ日が来ることも、倉田健次郎の名前に怯える日が来ることも。社長と床屋のまえだの世話で上京し加奈子先輩と出会うことも、バーテンとして働きながらこれをMacBookで書いていることも。そしてむろん幸地秀吉とその家族の失踪事件も、その陰に晴山青年がいることも。これが彼らの物語であり、同時に僕の物語であることも。多くのひとの人生を左右する現場に自分が立っていること、降りしきる雪のなか、三羽の鳩がいままさに飛び立ったのだということも。僕はまだ知らない。
映画以上に深みのある原作小説の魅力
『鳩の撃退法』は、主人公の津田伸一を藤原竜也氏が演じて2021年に映画化されています。
映画のエンドロールには、井上陽水「氷の世界」のカバーが流れます(わたしのお気に入りプレイリストに入れています)
映画自体はよくできています。こんな複雑なストーリーを、よく2時間弱の映画にまとめたものだな…と感心します。
でも、小説と比べてしまうと、1000ピースのジグソーパズルを100ピースにしたような感じはどうしても否めません。
『鳩の撃退法』の場合は、あえて映画は見ないで、小説から読まれることを強く勧めます。
(しみずのぼる)
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