NHKの朝ドラ『ばけばけ』が完結し、多くのファンが「ロス」を感じています。本作のモデルとなった小泉セツの口述をまとめた『思い出の記』は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)との穏やかな日常を描いた貴重な記録です。ドラマの世界観をより深く味わい、物語の余韻を大切にしたいーー。そんな「ばけばけ」ロスの方に勧めたい一冊です。(2026.3.29)
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目次
朝ドラ「ばけばけ」の終盤と『思ひ出の記』の背景
『ばけばけ』の最終週(第25週「ウラメシ、ケド、スバラシ。」)のあらすじをNHKの公式ホームページから紹介します。
トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の2人で書き上げた『KWAIDAN』がアメリカから届く。幸せいっぱいな家族たちだが、その数日後、ヘブンの体調が急変。亡くなってしまう。そんな中、アメリカからイライザ(シャーロット・ケイト・フォックス)が訪れる。ヘブンの死を悼む中、トキがきっかけでヘブンが『KWAIDAN』を書いたと知ったイライザは、トキにヘブンのことを書いてほしいと依頼する。
ドラマではイライザが執筆を勧め、吉沢亮さんが演じた錦織友一の弟・丈がトキの口述をまとめる役を果たしますが、史実はすこし違って、小泉家の遠縁にあたる歴史家の三成重敬という方がまとめたそうです(小泉凡氏『セツと八雲』(朝日新書)による)
『思い出の記』は、ドラマの中核を成すもので、脚本家など制作陣はこれをヒントに『ばけばけ』を作ったそうです。
あの忘れがたい主題歌ーーハンバート・ハンバートの「笑ったり 転んだり」も、NHKの演出チーフからこれを読んで曲想を練ってほしい…と言われて出来上がった曲です。
小泉セツさんの「思い出の記」を何度も読んで、その世界観を大切にして作曲し、後から歌詞をつけました。世の中の流れから少しはみ出してしまったトキとヘブンが、つまずいたり転んだりしながら、支え合っていく居場所を見つけていく……そんな2人の姿を「笑ったり 転んだり」というタイトルに込めました。
NHKドラマ・ガイド「連続テレビ小説 ばけばけ」Part 1、68ページ 日に日に世界が悪くなる
気のせいかそうじゃない
そんなじゃダメだと焦ったり
生活しなきゃと坐ったり
夕日がとても綺麗だね
野垂れ死ぬかもしれないね
何があるのかどこに行くのか
わからぬまま家を出て
帰る場所などとうに忘れた
君とふたり歩くだけ
トキが大号泣しながら口述する場面が描かれる最終話、メロディが流れるたびにうるんでしまう「笑ったり 転んだり」につながる『思い出の記』ーー。
ばけばけロスに襲われている方なら、ぜひ手に取ってほしいと思います。
青空文庫で読める、八雲とセツが過ごした何気ない日常
『思い出の記』は青空文庫で読むことができます。わたしもAmazonのkindleでダウンロードして読みました。
小泉節子『思い出の記』(青空文庫版)
ヘルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。
こんな書き出しで始まる『思い出の記』は、八雲とセツの何気ない日常が淡々と描かれ、八雲が亡くなるまでが書かれています。
ドラマのような盛り上がる場面があるわけでもないですし、続きが読みたくてページをめくるのが止まらない…みたいな読み物でもありません。ほんとうに淡々と書かれているだけです。
それでも『ばけばけ』のあの場面この場面がパッと思い浮かぶ。そんな気づきにつながるので、ドラマにハマった方なら楽しめるはずです。
例えば子どもたちとの日常風景ーー。
『パパ、カムダウン、サッパー、イズ、レディ』と三人の子供が上り段のところから、声を揃えて案内するのが例でした。いつも『オールライト、スウィートボーイズ』と云って、嬉しそうに、少し踊るような風で参りますのでございます。しかし一所懸命の時は、子供だちが案内致しましても、返事がありません。また『オールライト』と早く返事を致しません。こんな時には、待てども待てどもなかなか食堂に参りませんから、私がまた案内に行きます。『パパさん沢山時、待つと皆の者加減悪くなります。願う、早く参りて下され。子供、皆待ち待ちです』『はー何ですか』などと云っています。『あなた何ですか、いけません。食事です。あなた食事しませんか』『私食事しませんでしたか。私は済みましたと思う。おかしいですね』こんな風ですから『あなた、少し夢から醒める、願うです。小さい子供泣きます』ヘルンは『御免御免』など云って、私に案内されて、食堂に参りますが、こんな時はいつも、トンチンカンでおかしいのです。
おトキちゃんやヘブンさん、子供たちの情景が目に浮かんできませんか。
ドラマの登場人物を彷彿とさせる、実在の知人たちの描写
懐かしい人たちも登場します。吉沢亮さんが演じた錦織さんのモデル・西田千太郎さんなら、
ヘルンは西田さんを全く信用してほめていました。『利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆云ってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です』お気の毒な事にはこの方はご病身で始終苦しんでいらっしゃいました。『唯あの病気、如何に神様悪いですねーー私立腹』などと云っていました。又『あのような善い人です、あのような病気参ります、ですから世界むごいです、なぜ悪き人に悪き病気参りません』
と出てきます。
吉沢さんの真面目でいながら、どこかユーモラスな演技は「可愛らしいの男です」のくだりを意識されたんだろうな…と想像して微笑ましくなります。
佐野史郎さん演じた島根県知事(「ゆったりした御大名のような方で、撃剣が御上手でした」「この籠手田さんからも、大層優待されまして…」)
生瀬勝久さん演じた宿屋の主人(「「宿の小さい娘が眼病を煩っていましたのを気の毒に思って、早く病院に入れて治療するようにと親に頼みましたが、宿の主人は唯はいはいとばかり云って延引していましたので『珍しい不人情者、親の心ありません』と云って、大層怒ってそこを出たのでした」)
ドラマの場面を思い出しながら、佐野さんや生瀬さんの表情を思い浮かべながら、読み進めることができます。
鳴き声や生き物への愛着に見る、夫婦の共通した世界観
阿佐ヶ谷姉妹が担当したナレーションの蛙と蛇も出てきます。
山で鳴く山鳩や、日暮れ方にのそりのそりと出てくる蟇がよい御友達でした。テテポッポ、カカポッポと山鳩が鳴くと松江では申します、その山鳩が鳴くと大喜びで私を呼んで『あの声聞きますか、面白いですね』自分でも、テテポッポ、カカポッポと真似して、これでよいかなどと申しました。蓮池がありまして、そこへ蛇がよく出ました。『蛇はこちらに悪意がなければ決して悪い事はしない』と申しまして、自分の御膳の物を分けて『あの蛙取らぬため、これを御馳走します』などと云ってやりました。
阿佐ヶ谷姉妹の「ねえーー」を思い出しながら、おトキちゃんとヘブンさんが可愛らしく山鳩の真似をする場面を思い出しながら、心の奥のほうがじーんと温まる気持ちになります。
名作『怪談』誕生の裏側にある、セツの語りと八雲の執筆
セツが語って八雲が執筆した怪談話ももちろん出てきます。
私が本を見ながら話しますと『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければいけません』と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。
個々の怪談話にも触れています。
たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。…私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。『アラッ、血が』あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ってたんでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います。あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。
『怪談』の初めにある芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。中々苦心致しまして、もとは短い物であったのをあんなに致しました。『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないと云うので、色々考えて『開門』と致しました。
『天の河』の話でも、ヘルンは泣きました。私も泣いて話し、泣いて聴いて、書いたのでした。
前に紹介した『新編 日本の怪談』(角川ソフィア文庫)には、ここで紹介した「幽霊滝の伝説」「耳無し芳一」を読むことができます。
八雲が残した「天の川」に関する文章はいくつかありますが、そのうちのひとつ「天の川叙情」は、同じシリーズの『新編 日本の怪談II』(角川ソフィア文庫)に入っています。
『新編 日本の怪談』(角川ソフィア文庫) 『新編 日本の怪談II』(角川ソフィア文庫)
八雲の最期と、セツが書き残した「夫の愛したもの」
『思い出の記』の最後の方は八雲が亡くなる前の数日が描かれます。ドラマにも出てくる庭の桜の返り咲きや、亡くなる当日の描写も出てきます。
日本では、返り咲きは不吉の知らせ、と申しますから、ちょっと気にかかりました。けれどもヘルンに申しますと、いつものように『有難う』と喜びまして、縁の端近くに出かけまして『ハロー』と申しまして、花を眺めました。……この桜は年々ヘルンに可愛がられて、賞められていましたから、それを思って御暇乞を申しに咲いたのだと思われます。
小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で『ママさん、先日の病気また帰りました』と申しました。私は一緒に参りました。暫らくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んで居りました。
セツが八雲をこう評した部分が出てきます。
ヘルンの好きな物をくりかえして、列べて申しますと、西、夕焼、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、食物や嗜好品ではビフテキとプラムプーデン、と煙草。嫌いな物は、うそつき、弱いもの苛め、フロックコートやワイシャツ、ニュ・ヨーク、その外色々ありました。
制作陣や演者が大切にした『思い出の記』の世界観
こうやって読み返すと、『ばけばけ』の製作陣も役者さんたちも『思い出の記』を繰り返し読んで『ばけばけ』の世界を築き上げたんだな…ということがとてもよくわかります。
連続テレビ小説 ばけばけ Part1 (NHKドラマ・ガイド) 連続テレビ小説 ばけばけ Part2 (NHKドラマ・ガイド)
『ばけばけ』の世界にもう一度触れたいと思ったら、きっとNHKオンデマンドでも視聴できるとは思いますが、『思い出の記』をそっとひもといてみてはいかがでしょうか。
(しみずのぼる)
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