サイレント映画への愛をせつなく描く…フィニィ「マリオンの壁」 

サイレント映画への愛をせつなく描く…フィニィ「マリオンの壁」 

きょう紹介するのはジャック・フィニィの長編小説「マリオンの壁」です。サイレント映画時代の女優の卵が現代の若夫婦の奥さんの方に憑依して過去の夢を果たそうとする…というファンタジー小説です。過去への郷愁が溢れかえる佳篇です(2025.7.31)

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 過去への郷愁を描く

作者のジャック・フィニィ(1911-1995)は、SF・ファンタジー小説を多く残しており、以前に短編「愛の手紙」と長編「盗まれた街」で記事にしました。 

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「愛の手紙」と「盗まれた街」では雰囲気がまるで異なりますが、1973年に出版された「マリオンの壁」(原題:Marion’s Wall)のテイストは「愛の手紙」サイドーー過去への郷愁を基調にした小説です。 以下、わたしの手元にある角川文庫版(1993年刊)から紹介します。

本書は巻頭の献辞からまず驚きます。見開き2ページにわたって女優や男優の名前を列挙して、「過去、現在、そして未来の何千人もの映画人たちに 愛をこめて」と書かれています。 

ざっと見て、自分が知っている名前は後ろの方、ケイリー・グラントあたりからで、それ以前の大半の名前は聞いたこともありません。リストの最初の方の名前と(ウィキペディアの)経歴を列記しましょう。 

  • ニタ・ナルディ(1894-1961)アメリカ合衆国の女優。サイレント映画期に最も成功したヴァンプ(毒婦)女優の一人 
  • ルネ・アドレー(1898-1933)1920年代にハリウッドの無声映画に出演したフランスの舞台兼映画女優 
  • アラ・ナジモヴァ(1879-1945)ロシア出身の女優・脚本家・プロデューサー。その美貌と独特の個性でサイレント期最大の女優と言われている 

映画愛、とりわけサイレント映画への愛に満ちた小説であることがわかっていただけるでしょう。 

壁一面に口紅の文字

ニック・チェイニー(30)と妻のジャン(27)は、かつてニックの父が1920年代に住んでいたことがあるヴィクトリア朝の一軒家に住み始めた。 

壁紙を貼り変えるため古い壁紙をはがすと、「一フィートもある真っ赤な口紅のMの字が、バラ模様の壁紙の上に現れはじめた」 

やがて、そこーー高い天井のすぐ下の壁面に、長さ一フィートもあるマリオンMarionという口紅で書いた文字が現れた。 

さらに隣の壁紙を数フィートはがすと、マーシュMarshという字が出てきた。 

僕は先を急いだ。長さ一ヤード幅一フィートほどはがすと、第二の壁紙の下からはlived here(ここに住めり)という文字が出てきた。 

ジャンは声に出して全文を読み上げた。「マリオン・マーシュここに住めり。一九二六年六月十四日。読んで泣面かくがいい!」 

ニックとジャンがニックの父に事情を聞くと、マリオンは当時付き合っていた女優の卵で、「燃える女」という映画で端役を務め、それが認められてハリウッドに向かう途中で交通事故で亡くなったという。ニックの父はジャンに言った。 

彼女は、顔はそれほどきれいではなかったが、それを上回る精気とでもいうべきものがーー動物的な磁石とでもいうべきものがあった。それが、どんな人間よりも、強かった。彼女が部屋にいるだけで、それが感じられたんだ。 

「ニック、わたしよ」

そんないわくのある家に住みだしてしばらくして、マリオンが端役で出ている「燃える女」をテレビで放映し、ニックとジャンはふたりで観た。 

ジャンは途中で寝室に移動したが、ひとり居間に残ってテレビを観ていたニックは女性の声を聞いた。 

「ニック、わたしよ」
「だれ?」
「マリオンよ」
「マリオン?」「マリオン・マーシュか?」
「もちろんよ! わたし、自分の映画を見ないではいられなかったわ。ああ、神様! すてきじゃなくって?」

マリオンの姿は見えなかった。マリオンの説明だと、「どうしてもこの世に戻りたい」と思ったから戻れたという。「だって、わたしの映画なのよ。それを、まだ一度も見ていないのよ。それが見られるっていうじゃない。しかもここで、自分の家でやるって」 

ニックが「きみは姿を現すことはできないのかい?」と訊ねると、マリオンはこう返した。 

「方法は一つしかないーー憑依よ」「だれかの肉体を借りるのよ」 

その夜、ニックはやたら激しいジャンにからだを求められたが、それはジャンに憑依したマリオンだった! 

ハリウッドの夢を再び

前半はマリオンとの”浮気”に悩むニック、徐々にマリオンに感化されるジャン、果たせなかったハリウッドデビューを熱望するマリオンの不思議な三角関係が(時々コメディタッチで)描かれます。そして、最後はジャンも同意してハリウッドへーー。 

マリオンが昔の知り合いを頼って、マリオンの孫と偽ってオーディションを受ける場面を紹介しましょう。 

マリオンの身体が、何の苦もなく、歩行から踊りへと滑りこんだ。足をとめもせず足調を変えもしなかった。自由自在なリズムだった。彼女は曲を聞いているのではなく、注意深く自分の動きをそれに合わせているのだった。そして彼女の身体は、曲の中に自然に融けこみ、その野性的で陽気なジャズの一部になっていた。(中略) 

ダンスに火がついた。彼女の脚が、コントロールされた恍惚感をあらわしてみごとに宙に舞い、顎はしだいにあがり、目が官能的な悦びに閉じられた。マリオンは自ら踊りを楽しんでいたーーそれは、見るものの目にはっきりとわかったーー彼女の身体を構成する原子の一つ一つまでが、踊りに励起されていた。奔放だったーーと、いきなり最後の音節が来て身体が急停止した。目が開き、彼女は笑みをたたえてぼくらにウインクした。それがあまりに挑戦的だったのでだれかが思わず何か叫んだ。ぼくらも、たまらず拍手していた。 

おもしろうて やがて悲しき…

見事に女優の才を見せつけるマリオンですが、悲しいかな…時は1920年代ではなく1970年代です(出版は1973年) 

せっかくのマリオンの熱演がトマトケチャップのコマーシャルだったり、次に与えられた役は1970年代なら普通でも1920年代なら考えられないシーンだったり……。 

細かく紹介はしませんが、サイレント時代の映画を賛美する場面やせりふも何度も出てきます(これがフィニィの偽らざる本心なのでしょう) 

それだけに、サイレント映画の収集家の家で迎えるマリオンとサイレント映画の”終焉”のシーンは「おもしろうて やがて悲しき…」という雰囲気に包まれます。 

訳者の福島正実氏が文庫版のあとがきで、こう書いています。 

フィニィのファンタジイは、たんなる幻想物語ではないから、この小説の面白さ、充足感は、気のきいたアイデアや語り口の滑らかさからだけ来るのではない。時の流れの無常さを、過去と現在の対比によって示したところから来るのです。この世にし残した未練を、どうでも果そうとする過去の幽霊の怨念が、余りにも変わってしまった現在によって破綻させられるという、さからうことのできない現実を、踏まえているところから来るのです。 

「マリオンの壁」はすでに絶版・品切れ扱いですから、結末を知りたい方ーーせつなさ溢れる「時の流れ」を噛みしめたい方は、どうぞ古本を探してみてください。 

(しみずのぼる) 

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