きょう紹介するのは一穂ミチさんの短編「特別縁故者」です。「ああ、あの直木賞の…」。そうです。3度目の正直で直木賞を受賞した一穂さんの「ツミデミック」所収で、他の作品と趣がまったく異なり、まるで落語の人情噺のような佳篇です(2023.7.23)
目次
最初に読んだ「スモールワールズ」
わたしが一穂ミチさんの小説を最初に読んだのは「スモールワールズ」(講談社刊)で、通勤電車内の広告で見かけて「おもしろそう」と思ったのがきっかけです。

夫婦、親子、姉弟、先輩と後輩、知り合うはずのなかった他人ーー書下ろし掌編を加えた、七つの「小さな世界」。生きてゆくなかで抱える小さな喜び、もどかしさ、苛立ち、諦めや希望を丹念に掬い集めて紡がれた物語が、読む者の心の揺らぎにも静かに寄り添ってゆく。吉川英治文学新人賞受賞、珠玉の短編集。

「光のとこにいてね」に感動
「スモールワールズ」が非常に面白かったので、続く長編「光のとこにいてね」(文芸春秋刊)が2022年秋に発売された時は、新聞広告を見るなり買い求めました。
そのときの広告をよく覚えていないのですが、あらすじは何も書いてなくて、ただ「光のとこにいてね」という、ちょっと変わったタイトルだけが際立ってました。事実上、「スモールワールズ」の作者なら…という前情報だけで読んだ本ですが、正直、これはすごいと思いました。
一穂さんの小説の中で、今回の直木賞受賞作「ツミデミック」(光文社刊)を含めて、わたしがいちばん好きなのは「光のとこにいてね」です。

『スモールワールズ』を超える、感動の最高傑作
たった1人の、運命に出会った
古びた団地の片隅で、彼女と出会った。彼女と私は、なにもかもが違った。着るものも食べるものも住む世界も。でもなぜか、彼女が笑うと、私も笑顔になれた。彼女が泣くと、私も悲しくなった。
彼女に惹かれたその日から、残酷な現実も平気だと思えた。ずっと一緒にはいられないと分かっていながら、一瞬の幸せが、永遠となることを祈った。
どうして彼女しかダメなんだろう。どうして彼女とじゃないと、私は幸せじゃないんだろう……。
運命に導かれ、運命に引き裂かれる
ひとつの愛に惑う二人の、四半世紀の物語

凪良ゆうと直木賞を争う
「スモールワールズ」も「光のとこにいてね」も、直木賞候補にあがりながら受賞を逃した小説です。とりわけ「光のとこにいてね」は、凪良ゆうさんの「汝、星のごとく」と争い、わたし個人は、どちらも甲乙つけがたく感動した小説でしたが「光のとこにいてね」のほうを推していました。
ですから、一穂ミチさんが3度目の正直で直木賞を受賞したのは、とてもうれしく思いました。
コロナ禍の”犯罪”小説集
前置きがとても長くなりました。すみません。晴れて直木賞に輝いた「ツミデミック」について書きます。

大学を中退し、夜の街で客引きをしている優斗。仕事中に話しかけてきた大阪弁の女は、中学時代に死んだはずの同級生の名を名乗った――「違う羽の鳥」 失業中で家に籠もりがちな恭一。小一の息子・隼が遊びから帰ってくると、聖徳太子の描かれた旧一万円札を持っていた。近隣の一軒家に住む老人にもらったというそれを煙草代に使ってしまった恭一だが――「特別縁故者」 鮮烈なる“犯罪”小説全6話

一穂ミチさんの短編は、「スモールワールズ」でも感じたことですが、とてもバラエティ豊かで、型にはまった感じがしません。
比べて恐縮ですが、凪良ゆうさんの小説は、どれも似た雰囲気を感じます。ご自身がインタビューで「一貫しているのは『どこまでも世間と相いれない人たち』を書いてきたこと」と言っているぐらいですから、当然と言えば当然なのですが。
それに対して一穂ミチさんの短編は、いい意味でばらばらです。
「ツミデミック」のあらすじに出てくる「違う羽の鳥」は、「死んだはずの同級生の名を名乗った」若い女と遭遇したあたりからホラーのような印象が漂いはじめ、読後も背筋が凍るような一篇。「憐光」は幽霊が出てくるのにぜんぜん怖くなくて、軽いタッチのミステリー小説の趣。かと思えば「さざなみドライブ」は怪異現象も幽霊も出てこないのに、「やっぱりいちばん怖いのは人間」と納得させる読後感ーー。とにかく多彩な作風です。
その中でも特に異色なのが「特別縁故者」です。
ダメな主人公と聖徳太子
主人公の恭一は、家でぶらぶらしているダメ親父です。
妻に「仕事はみつかった?」と職探しを促され、家にいても小学一年生の息子の相手をするでもなく、「うるさいぞ、外で遊んでこい」と追い出してしまう。それですることはスマホいじり……。
スマホに大量にインストールしてある漫画アプリを巡回し、無料のものは読み逃していないかチェックしたが、すべて既読だった。読んだことさえ忘れているくせに続きが気になるなんておかしな話だ。仕方なく、これまた無料の麻雀アプリを起ち上げ、イージーモードで対局を始めた。
こんなていたらくですから、息子が聖徳太子の旧1万円札を持ってきたときの対応もひどいものです。
外にでかけた息子の隼が、あやまってスーパーボールが入ってしまった一軒家で、老人に「ヤクルト飲んでけ」と声をかけられ、肩をもんであげたら、「肩揉み上手だなって褒めてくれて、これ、くれたの」
恭一は息子から旧1万円札を取り上げた。それだけでなく、「たんすの引き出し開けてさっと出してきた」ことや「まだいっぱいあった」ことを聞き出した。
タンスに万札が束の老人
翌日、恭一は一軒家を訪ねた。「お礼と、お詫びの御挨拶にと伺ったんですが」
「お返ししなきゃって嫁と話し合って、うっかり目を離した隙に、息子がコンロで火遊びして万札を燃やしちゃったんです。すいません」
実際はタバコ屋でたばこを買って、9000円以上を懐に入れたのに……。
「あの、これ、ささやかですがお詫びのしるしに、澄まし汁です」
恭一はコロナ禍で職を失った料理人だった。佐竹と名乗る老人は「万札のことはかまわん」と言い、かわりに弁当を買ってくることを恭一に頼んだ。
佐竹はまたポケットを探り「駄賃だ、取っとけ」と千円札を二枚差し出した。
「え、あ、ああ、はい、じゃあ、お言葉に甘えて、すんません」
何で隼が一万円で俺が二千円なんだよ、いや、もらえるだけラッキーだ。相反する思いが胸中でせめぎ合い、口ごもる。
「でな、もし暇なら頼まれてくれねえか。また、弁当買ってきてほしいんだよ。それと、きょうみたいにちょっとした一品作ってきてくれたら、二千円払う。何でもいいんだ」
こうして、恭一の佐竹家通いと失職してから遠ざかっていた料理づくりがはじまった。
特別縁故者に、俺はなる
タイトルの「特別縁故者」は、肉親でなくても、身の回りの世話をしていれば財産分与の対象として認められるもので、ニュースでそのことを知った恭一はこう考えます。
このまま佐竹のもとに通っていれば、あの聖徳太子の大掛かりなおこぼれがいただけるかもしれない。もし気に入られれば、遺言書のいちばん最後にでも名前を書いてもらえる可能性だってゼロじゃない。甚だ不確かな希望ではあるが、宝くじなんかよりよっぽど確率はいいだろう。俄然やる気が出て来た。特別縁故者に、俺はなる。
どこまでも情けない主人公です。わたしは落語に出てくるダメダメな主人公をイメージしながら読んでしまいました。
心の根っこが善人の人情噺
でも、佐竹のもとへ通う日々が恭一にも変化を及ぼします。
スマホいじりで時間をつぶし、酒やパチンコを恋しがった日々だったのが、いつのまにか遠ざかり、代わりに「さっとゆがいた野菜を引き上げるタイミングや、ひとつまみの塩を加えるかどうかを見極めている時間が楽しかった」
しょうもない主人公が佐竹との交流と料理の再開を通じて真人間になっていく……なんて単純な話じゃないのが一穂ミチさんらしい展開です。大晦日の日に佐竹の激高を受けて、つづく元旦の日も最低で、くさりきった恭一がふて寝していると、スパイ・ファミリーにはまる息子の隼があることに気づいて……というあたりで紹介をとめておきましょう。
どこまでもカッコ悪い主人公だけど、心の根っこの部分が善人で、まるで落語の人情噺のような展開とラストに思わず心がほっこりします。
言いたいことは紙の中にある
長らく覆面作家だった一穂ミチさんは、直木賞の受賞ではマスクをつけながらはじめて顔出ししました。
ニュースでみると、すこしふっくらしたお顔と体型。笑みが全開した目元をみるだけでも、とても好印象を持ちました。
でも何よりせりふがふるっています。
「言いたいことは、これからも紙の中にある」
直木賞の一穂ミチさん「パンデミックでなければ生まれなかった小説」 「ツミデミック」で受賞
ますますファンになりました。直木賞受賞おめでとうございます。
(しみずのぼる)