今年話題のミステリー小説の1冊ーー新人作家の松下龍之介氏「一次元の挿し木」(宝島社文庫)を読みました。これが最初に書いた小説とはとても信じられない完成度で、イッキ読みできるミステリー・サスペンスです(2025.9.25)
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面白いのに紹介しにくい
わたしは読んだ小説のことを毎回必ず書くわけではありません。読んでそれほどでもなかった小説のことは書きませんし、読んで面白かった小説でも「紹介しにくい」ものは、やっぱり記事にまとめません。
今年2月に発売され、第23回『このミステリーがすごい!』大賞の文庫グランプリ受賞作である「一次元の挿し木」の場合は明らかに後者です。すごく面白かったにもかかわらず「紹介しにくい」ため、しばらく前に読んだものの記事にするのを躊躇っていました。

「紹介しにくい」最大の理由は、すこしでも書いたらネタバレになってしまいそう…と思うからです。
主人公が妹とはじめて観る映画、文中に紹介される恐怖小説の古典……。 ひとつでも明かしたら、「あ! もしかして……ということなのかな???」と気づかれてしまいそうで、それはこれから読む人に大変失礼なことになってしまうと思うのです。
でも、ひとりでも多くの人に読んでほしいな…という気持ちにも抗いがたく、とにかくネタバレに気をつけて今年おそらく屈指のミステリー小説であろう「一次元の挿し木」を紹介したいと思った次第です。
「あらすじからして面白い!」
あらすじを紹介します。

二百年前の人骨のDNAが
四年前に失踪した妹のものと一致!?
ヒマラヤ山中で発掘された二百年前の人骨。大学院で遺伝人類学を学ぶ悠がDNA鑑定にかけると、四年前に失踪した妹のものと一致した。不可解な鑑定結果から担当教授の石見崎に相談しようとするも、石見崎は何者かに殺害される。古人骨を発掘した調査員も襲われ、研究室からは古人骨が盗まれた。悠は妹の生死と、古人骨のDNAの真相を突き止めるべく動き出し、予測もつかない大きな企みに巻き込まれていく――。
どうです?このあらすじの短い文章だけで「面白そうだな」「読んでみたいな」と思えませんか?
それなら、下手な紹介文(自分の記事のことです)を読むまでもなく、すぐに書店で「一次元の挿し木」を買い求めればいいだけです。
巻末掲載の瀧井朝世氏の解説「大風呂敷をきちんと畳み、骨太のミステリーを描く新人誕生」の中に、著者の松下龍之介氏の言葉が紹介されています。
本作については「『あらすじからして面白い!』というものを目指しました」といい…
あらすじからして面白いーーまさに、その通りです。
ヒマラヤ山中で発掘された200年前の人骨をDNA鑑定してみたところ、4年前に失踪した妹ーー主人公とは血が繋がっておらず、徐々にお互いの愛を育んだ最愛の女性とまったく同じDNA構造だった!?
もうこれだけで書店に駆け込みたくなりませんか?(わたしの場合は電子書籍で購入したので「寝床でポチっ」でしたが…)
遺伝子工学が専門…ではない!
しかも、驚くべきことに、著者の松下さんは遺伝子工学が専門ではまったくないという点です。
作家の中には医療従事者で自身の専門知識をフルに駆使してミステリーのプロットを構築する…という方もおられます。ですから「一次元の挿し木」を読み始めて、

この著者はきっと遺伝子工学を学校で学んだ人なんだろうな…
と漠然と思っていたのです。それだけに、巻末の瀧井氏の解説にはとても驚きました(先ほどの引用のつづきです)
…といい、そこから今回のDNAをめぐる謎を思いついた。DNAや考古学、宗教に関する知識は一切なく、半年ほど関連書籍を読み漁ったという。

う~ん、すごい…。関連書籍の知識だけで、これほど精緻なプロットとストーリーを生み出したなんて!そら恐ろしい作家の誕生だな…
紫陽花の名を持つ少女
ですから、本文からの引用はプロットを明かす部分は控えつつ、それでも読んでみたいと思ってもらえるような紹介文にしたいと思っています(うまくいきますかどうか…)
「自分の目で見たことが、信じられないんだ」
六月の長雨が、見渡す限りの紫陽花(あじさい)を濡らしている。その花々に縁取られた石階段を、まだ高校生だった僕は二歳年下の少女とのぼっていた。
少女が僕の妹になってから、そして、僕の姓が七瀬となってから、まだそう日が経っていないころだった。
大学院で遺伝人類学を学ぶ主人公の悠は高校生の頃、妹となった紫陽(しはる)に対し、子供時分に「牛の頭をした大男」を見たと言っても誰にも信じてもらえなかった過去を明かすと、紫陽は「ふむ。私の兄となったお方に、そんな悲しい過去があったとは」と言って、こう続けた。
「『誰の目でもない、自分の目で見たことを信じなさい』
紫陽花の花弁に乗った雫(しずく)のように透明な肌。肥沃な土壌を思わせる濁りのない茶色の瞳。真実の中の真実を約束するような、その微笑み。
七瀬紫陽のその姿には、五月雨の清らかな美しさのすべてがこめられていた。
「なーんて」
紫陽は茶目っ気のある笑顔を見せた。
「知的な人の言葉を借りれば、賢く見えるかな?」
とても印象的な主人公の悠と紫陽の出会いの場面です。
紫陽が引用したのは女性の遺伝子学者の言葉ですが、「誰の目でもない、自分の目で見たことを信じなさい」という言葉は本書全体を貫くものです。
最愛の妹が台風の夜に行方不明となり、義理の父は遺体が見つからないまま葬式を執り行う。抗うつ剤を常用するようになった主人公は、しかし一度だけ紫陽の姿を見かけたことがある。義理の父は妄想と言うが…
そんな主人公が「誰の目でもない、自分の目で見たことを信じ」続けて、4年前の紫陽の失踪と200年前の古人骨と紫陽のDNA構造が一致した謎を解き明かしていくーーというストーリーです。
ミノタウロス=牛尾の存在
「一次元の挿し木」の魅力は、ミステリーの醍醐味である謎解きにあるのは間違いありませんが、もうひとつ、次々と古人骨の関係者を襲う謎の人物ーー牛尾(うしお)の存在にあります。
くだんの古人骨を日本に送ったインド人の元分子生物学者が牛尾に襲われるシーンを紹介しましょう。
と、そのときだった。
”ちゃぽん”。
背後で、液体の揺れる音がした。
アモールは恐る恐る振り返った。
そこには、東洋系の男が邪悪な笑みを携えながら立っていた。
「追いかけっこはおしまいですか?」
瞬間、アモールの口を何かがふさいだ。
全裸にされ、両足を金属製の針金できつく縛られたアモール。
東洋系の男。大男だ。牛革の茶色い山高帽をかぶり、その厚い胸板はチェック柄のベストと紺のネクタイで覆われている。暗いせいで、容姿は判然としない。二十代にも、四十代にも見える。
男は分厚い革手袋をしていた。その右手には、白のポリタンクが握られている。先ほどから聞こえる液体の音はそこからしていた。
(略)
「私は牛尾」
紳士はポリタンクを地面に置き、自身の胸に手を置くと、穏やかな声でそう告げた。
「人骨の蒐集(しゅうしゅう)を生業(なりわい)としています」
牛尾が登場する場面の直前、読者は、主人公の悠と紫陽が密かに愛を育む美術館に飾られているミノタウロスの絵の説明に目を通しています。
それは、身の毛もよだつような絵画だった。
地下牢のような通路。そこに牛の頭をした大男が、片手に大斧ーー壁に掛けられている実物にそっくりなものーーを持ち、もう片方の手には四肢の千切れた女の肉塊を引きずっている。怪物の目の前には、腰を抜かした男が必死に命乞いをしている様子が描かれていた。
半人半牛の怪物。
石見崎は、この怪物を知っていた。これはーー。
「ミノタウロスですよ」
(略)
「ギリシャ神話に出てくる怪物です。迷宮に潜み、迷いこんだ人間を襲って食べてしまう」
ミノタウロスとして描かれる牛尾が古人骨を追い、悠の身辺に迫り、ついに紫陽の存在に気づくーー。「ちゃぽん」という擬音だけで描かれる牛尾の凶器が、否が応でも恐怖を掻き立てます。
主人公の悠が牛尾に追われる物語の終盤は、もうジェットコースター状態で、ページをめくるのももどかしくなります。
「一次元の挿し木」は表紙に英文が載っています。
Labyrinth of Hortensia and the Minotaur
直訳すれば「紫陽花とミノタウロスの迷宮」です。
紫陽の謎と牛尾の謎が織りなす迷宮にぜひ誘(いざなわ)れてください。出色のミステリー・サスペンスです。
(しみずのぼる)
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