元上司との恋は成就するか:藤原伊織「名残り火」

元上司との恋は成就するか:藤原伊織「名残り火」

きょう紹介する藤原伊織氏の「名残り火」は、以前に「ジャンル分け不能の痛快小説」と紹介した「てのひらの闇」の続編です。前作でリストラに遭って会社を辞めた2年後、主人公が親友の死の真相に迫っていくミステリー小説ですが、前作同様、企業小説でもあり恋愛小説でもあり、読者はこの物語世界に心地よく浸るばかりです(2023.12.25)

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人の矜持と友情を描く

きょうの文章は、必ず「ジャンル分け不能の痛快小説」と紹介した以前の記事を先に目を通してから読むようにしてください。主人公の氏素性やかつての部下ーー大原真理との絡みは既知の情報であるという前提で書きたいからです。 

「名残り火」は、59歳で食道がんのため亡くなった著者の最後の長編です。あらすじは、元担当編集者の言葉から借りましょう。

今はないタイケイ飲料宣伝部の元課長だった堀江雅之は現在、小さな企画会社を経営しています。ある日、彼の一番の友人であり、やはりタイケイ飲料の元取締役だった柿島隆志が殺されます。柿島は大手コンビニチェーンの役員を退職した後、街中で何者かに暴行され、死亡したのです。堀江は死の真相を突き止めるべく動き出します。徐々に明らかになる陰謀と心の傷……。 
引用元:人の矜持と友情を描く、藤原伊織最後の長篇小説! 

柿島の死は、一見、無軌道な若者たちの”オヤジ狩り”の様相を呈しています。目撃者の証言などから「犯人らは髪を染めピアスをするなど、未成年者らしいグループだった」と報じられています。 

しかし、堀江は目撃者を探し出し、その証言から、暴行を加えた男は一人であり、ほかの三人が呆然とする中で、ひとり執拗に柿島の腹部を蹴り続け、殺意が感じられたことを突き止めます。 

サラリーマンの挙措で嘘を見抜く

事件当夜の柿島がコンビニチェーンの会社の元部下と会食後に襲われたため、堀江はその元部下の丸山を探し出して話を聞きます。そこで聞いた丸山の話への違和感から、堀江は丸山とふたたび接触します。 

以下、その場面を引用しましょう(前作の暴力シーンを思い出してください) 

丸山の左手をとると、そのてのひらを眺めた。精気のないホワイトカラーのてのひらだ。中指だけをのばし、てのひらを拳のかたちに包みこむ。一瞬あと、虚空を指す中指を手の甲の方向へ九十度、折り曲げた、骨の折れる音が夜気のなか、かすかに響きわたった。 

(略) 

「じつは私は、人の殺しあうところを間近で見つめていたことがある。ふたりが死にました。拳銃で人の足を撃ち抜いたこともある。申し上げておきますが、これは丸山さんお得意のでまかせや嘘八百ではない。もう一度おたずねするが、私のいったことは理解していただけたでしょうか」 

堀江が丸山の嘘を見抜いたのは、丸山が「私は本部長(=柿島のこと)とわかれたあと、ふりかえりもしませんでしたので」と話したことだった。 

「いま思いだされてもこのとおりですか」 

「え、ええ、そのとおりです。なにかおかしいでしょうか」 

「おかしいと私は思いますよ。きょうは何度、丸山さんの口からサラリーマンという言葉を聞いたかわからない。ですから丸山さんもおかしいと思うのが当然であるはずなんです。柿島は、執行役員兼FC本部長でした。いまの話からしても、変動はあったかもしれないが、柿島と丸山さんのあいだには、およそ三十人の上司がいた。かつてそういう役員の立場にあったほどの人物が帰宅の途につく際、行方も見おくらないということが、サラリーマンの心得としてあるでしょうか」 

こうして堀江は丸山が柿島のおびき出し役を命じられただけで、暴行に関与したのは柿島の前任のFC本部長だった取締役だったことを探り当てる。 

こんなふうに、堀江は亡き友が殺された事件の真相に迫っていきます。その点でミステリー小説であるのは間違いありません。 

でも、前作同様、企業小説の要素もふんだんに出てきます。 

社長の前で市場調査報告

堀江はリストラでタイケイ飲料を去った後、市場調査などを請け負う企画会社をひとりで経営していた。そのクライアントであるサンショーフーズに市場調査の報告に出向くと、社長が急きょ同席するという。頭がつるつるに剃りあげられた大入道然とした社長の三上は会議室の席に着くなり、「では、はじめていただけますか」と報告を促した。 

「御社のチルドデザート分野の主力商品、フルーツカントリーについて実施した店頭調査の結果を報告させていただきます」 

訪問したサンプル店からはじめた。総合スーパーGMSとコンビニエンスストアCVSのバランス、それぞれのサンプルサイズ、店舗規模、地域性をごくかんたんに説明したとき、「うむ」と声が聞こえた。ちらと顔をあげると、うなずく三上の頭が目にはいった。 

気分が楽になった。同時に意外な感をともなっていた。このサンプルの構造が、店頭調査の成否をにぎる重要なポイントであることを知る人間は、業界でもあんがいいない。だが経営者とはいえ、相手が現場のプロでもあるなら、それに越したことはない。あとはたんたんとつづけた。商品フルーツカントリー総体と果実アイテムごとの取り扱い店率、売価、フェイス数、フェイス位置……、それぞれ前回調査の結果を踏まえながら競合商品との比較を連ねていった。 

「以上です」 

すると三上は怪訝な顔をした。「結論部分は? この調査は、品ぞろえ充実の可能性を探るために実施されたはずだが、堀江さんのご意見が見当たらない」 

堀江が前回調査で記載した結論とさほど変わっていない旨の返答をすると、「あれはさきほど拝見しました。精緻な考察だが、否定的な見解でしたな」と返ってきた。堀江は三上が店頭調査の一報告書ごときを読んでいることに驚いたが、こう答えた。 

「率直に申し上げれば、今回の調査で、当初の見解の妥当性について、私の確信はより深まりました。これ以上のラインエクステンションは無意味かと考えます」 

「きみはさがってよろしい」

横から部長の沢田が「フルーツカントリーの市場シェアは2ポイント強、アップしている。果実関係の総合ラインナップは開発当初から、社長が最大目標とされていた」と口をはさんだが、堀江は続けた。 

「私はアイテムごとのシェアを知らされておりません。ですが、私が店頭で見たかぎり、シェアアップには主力のミックス、ピーチ、オレンジ。この三アイテムの伸びが貢献しているとしか思えません。私見では、商品力もひとつ頭を抜いている。びわとライチの導入をお考えのようですが、フェイスカットの状況から判断して、GMS、CVSでともにもう、パイン、グレープフルーツは死に筋に分類されています。おまけにこの分野はライフサイクルが短いうえ、競合も苛烈だ。である以上、ラインエクステンションは屋上屋を架すというしかない。もちろん、死に筋二アイテムのシェア動向をお教えいただければ、意見を撤回するにやぶさかではありません」 

専門用語がバンバン出てきますが、言っている内容はおおよそわかります。でも、前作でCM制作の際に「この種の映像なら音楽もサウンドロゴも、じゃまっけなんじゃないかな」と口にした以上の禁句ーー「死に筋」をクライアントの前で口にしたわけですから、それはもう驚きです。そのことは堀江自身もわかっています。 

クライアントの食品企業に向けて、どんなものであれ、外部の人間が死に筋商品と口にするのは自殺行為に等しい。ここの作業を請け負うことは、もうないか。私がそう考えたとき、「沢田」と呼びかける三上の声が聞こえた。 

「きみが店頭を訪問する頻度は週にどのぐらいだ」 

「毎週末は必ず、近所の量販店三店をのぞいています」 

「近所ね。わかった。この件の検討はつづけるが、きみはさがってよろしい。堀江さんは、いますこし時間をいただけますか」 

三上の顔を見かえした。退場すべき人間は逆であっておかしくない。沢田が冷ややかな視線をこちらに向け、黙って立ち上がった。 

「沢田」ふたたび声があがったとき、ドアまで足を運んでいた当人がふり向いた。三上がつづけた。「きみは不勉強だ。さらに判断力にも問題がある。いつものぞくのが近所の量販店だけなら、きみは店頭をなにも知らないに等しい」 

どうです? かっこいいでしょう? まさに企業小説です。三上はこのあとも、柿島死亡の真相を探る堀江をさまざまな形でサポートしていきます。 

ひそかに渇望したなにか

さて、最後になりましたが、記事の見出し「元上司との恋は成就するか」ーー堀江に恋する大原真理の紹介となります。 

柿島の事件の半年前、大原が酔漢に絡まれたのが引き金で堀江が酔漢を殺しそうになる。現場を遁走したふたりは堀江の部屋で朝を迎える(前作のキスシーンを思い出してください) 

「目が、覚めました?」 

声がすぐそばで聞こえた。だがそれは依然、怯えと震えを帯びていた。 

頭をかたむけた。大原が私の脇で横たわっていた。彼女もスーツを着たままだった。覚えのある麻のサマースーツ。なんだ、おまえさん、まだいたのか。私は笑ったように思う。そして、すまんな、もう一度そういったようにも思う。大原は泣き笑いのような表情を浮かべた。とたんにその目に大粒の涙がふくれあがり、直後、表面張力をなくして崩れていった。涙は彼女の鼻を斜めに横ぎり、そこからまっすぐシーツにおちた。 

ふいに、彼女がおおいかぶさってきた。頭上から、私の頬を力をこめた両手ではさみ、唇を強くおしつけてきた。 

堀江はこう思います。 

かつて、ひそかに願っていたかもしれないなにか。ひょっとしたら渇望さえしていたかもしれないなにか。それがいま、目の前にある。錯覚ではなく、目前で息づいている。 

でも、堀江は思いとどまります。「おれは臆病者だ」の一言を吐いて……。 

再び結び付けてくれた亡き友

そんな事件があって堀江は大原と距離を保つ半年が過ぎていましたが、柿島の死が、ふたりを再び接近させることになります。 

大原の助けを借りて真相に迫る堀江。夫とは離婚に向けて話が進むのに堀江との距離は「かたつむり以下」と周囲にこぼしながら、懸命に堀江を助ける大原……。そんなふたりの、というよりも、この小説のエンディングを紹介しましょう。 

行きつけのバーで、三上も交えて柿島の事件を回想しながら、ふたりはこんなセリフを口にします。 

「おまえさんはご亭主と別居してると聞いたぜ。ほんとうなのか」 

「ほんとうです。まあ、いろいろあって」 

「ふうん。じゃあ、いまは独り身なんだ。独りでどこに住んでんだ」 

「戸越」 

私は唖然とし、まじまじと大原を見つめた。そのまま、声がでなかった。 

大原が堀江の住む近くに越してきていたことを知り、堀江が大原にこう答えるところで「名残り火」は終わります。 

「いいところだな。静かで」 

「名残り火」は、親友の死の真相を突き止める堀江の「友情」の物語です。 

でも同時に、距離のできた堀江と大原を、天国の柿島がふたたび結びつけてくれたようで、その意味でも「友情」の物語であったように思います。 

このエンディングでよかった

作家の逢坂剛氏は藤原伊織氏への追悼文で、

堀江と大原真理がめでたく結ばれるまでの話を、このシリーズで書きたかったのではないか 

引用元:「いおりんの名残り火」

と書いていますし、前回の記事でわたしも「大原と結ばれるまでの話」を読みたかったと書きました。 

でも、今回久しぶりに再読して、このエンディングで堀江と大原が「めでたく結ばれる」予感をきちんと感じさせてくれていると思いました。 

本の末尾に〈おことわり〉が載っています。 

連載終了後、著者はこの作品の加筆、改稿作業に取り組んでおりましたが、二〇〇七年五月十七日に逝去されました。第1章から第8章までは作業が完了しておりましたので、著者の遺志を尊重し、その原稿を使用して二〇〇七年九月、文藝春秋より刊行いたしました。 

著者校正が最後まで進んでいたら、ふたりのエンディングは変わったのでしょうか。そんな想像もしてみますが、それでも、わたしはこのエンディングで十分よかったです。 

ありがとう、藤原伊織さん。 

(しみずのぼる) 

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