子どもを見つめる眼差しが優しい…ゼナ・ヘンダースン「なんでも箱」 

子どもを見つめる眼差しが優しい…ゼナ・ヘンダースン「なんでも箱」 

きょうご紹介するのは、ゼナ・ヘンダースン「なんでも箱」(原題: The Anything Box)です。作者が学校教師だっただけに、子どもを見つめる眼差しの優しさに気持ちが温かくなります。古書を探してでも読んで欲しい佳作です(2024.8.4)

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ニュースで学ぶ、生きた英語。「The Japan Times Alpha」

教壇に立ちながらSFを執筆

ゼナ・ヘンダースン(1917-1983)は、出身のアリゾナ州内で小学校教師を続けながら、小説を書き続けたという経歴の持ち主です。代表作は、超能力を持って地球に隠れ住む異星人たちを描いた《ピープル》シリーズですが、日本では多くの短編がさまざまなSFアンソロジーに収められ、アンソロジーで読んで名前を知ったという人が多いのではないでしょうか。 

かくいうわたしもそうで、最初に読んだ「アララテの山」(《ピープル》シリーズの記念すべき第一作です)は、福島正実氏編「人間を超えるもの」(講談社文庫)でした。 

SFアンソロジーの常連だが… 

子どもの想像ゲームから実体化した音喰い機が暴走するホラーテイストの「静かに!」は、同じく福島正実氏編「不思議な国のラプソディ」(講談社文庫)で。隣に住む不思議な老女と老女の探し物を手伝う少女の交流を描いた「光るもの」は、フレデリック・ポール他編「ギャラクシー」上巻(創元SF文庫)で。そしてきょう紹介する代表作「なんでも箱」は、仁賀克雄氏編「幻想と怪奇」の第2巻(ハヤカワ文庫SF)と風見潤氏編「たんぽぽ娘」(集英社コバルト文庫)でーーといった具合です。 

いま挙げたSFアンソロジーはいずれも絶版。「幻想と怪奇」は再編集して装いも新たに出版されましたが、それもいまは品切れです。なんとも残念なことです。 

さて、前置きはこの程度にして、さっそく「なんでも箱」をご紹介しましょう(訳者は深町真理子氏) 

わたしがとくにスー・リンに注目するようになったのは、新学期が始まって二週間くらい経ったときだったと思う。 

主人公の「わたし」は、小学1年を受け持つ女性教師。スー・リンは受け持ちの児童のひとりだったが、教室である所作をしているのに気がついた。 

両手のひらで空をつかむ少女

机に置いた両手の親指を軽く触れあわせ、他の四本の指は、なにかをかかえているように大きく曲がっているーーそのなにかとは、両手の指先がつかないほど大きく、指がほとんど直角に曲がるくらい四角ばったものだ。それはなにか楽しいものーー楽しく、貴重なものだった。彼女のやわらかいつかみかたがそれを示している。彼女はわずかに前かがみになり、あばら骨の下のほうを机の端に押しつけ、完全に心を奪われたようすで手のあいだの机を見つめていた。顔面はゆるみ、しあわせそうだった。 

隣の席の男子から「わたし」はこう聞かされる。

「先生?」彼はだしぬけに言った。「あの子、”見る”んだよ!」 

(略) 

「机ばっかり見て、嘘つくんだ。あの子。見えるって言うんだよ」 

「なにが見えるって言うの?」わたしの好奇心が耳をそばだてた。 

「なんでもさ」デイヴィは言った。「あれはあの子の《なんでも箱》なんだ。なんでも見たいものが見えるって言うんだよ」 

以来、わたしはスー・リンを観察するようになるが、スー・リンも観られていることに気づくと、両手を戻して何事もなかったように装う。同僚の教師はまるで問題児のように決めつけるが、どうも納得がいかない。そのうちにわたしは、もしかしたらと気づく。 

彼女はほんとうに《なんでも箱》を持っているのかもしれない。ほんとうになにか貴重なものを見ているのかもしれない。 

「あたしの箱、見る?」

スー・リンを信じ始めたある日、「ふと肘のそばに小さな存在を感じた」 

わたしは、ふりむいて、スー・リンのいっぱいに見ひらいた眼にぶつかった。 

「先生?」その呼びかけは、ほとんど吐息ともとれるくらいだった。 

「なあに?」 

(略) 

「先生、あたしの箱、見る? あたしの《なんでも箱》なのよ、これ」 

「まあ、ありがとう!」わたしは言った。「持ってもいいの?」 

(略) 

わたしは、気づかいを顔にも指先にもあらわして、慎重にその四角いものを彼女から受け取った。 

そしてたしかに、重みと実体と実在感を手に感じたのだ! 

驚きのあまり、あやうくわたしはそれを取り落としそうになったが、スー・リンの心配そうな喘ぎに助けられてそれをつかみなおし、その貴重な暖かみの回りに指をかけ、かすかなちらつきを越えて、深く、深く、スー・リンの《なんでも箱》のなかをのぞきこんだのだった。 

わたしは裸足で風にそよぐ草むらを走っていた。一隅にある節くれだったりんごの樹をまわるとき、ひるがえったスカートの裾がひなぎくに触れた。暖かい風が両の頬をかすめ、耳のなかで笑った。わたしの心臓が、宙を飛ぶような足を追い越し、ほとばしる歓喜とともに暖かみのなかに溶けこむのと同時に、彼の腕が…… 

わたしは眼を閉じて、ごくりと唾を呑んだ。手のひらはしっかりと《なんでも箱》をおさえていた。「きれいだわ!」わたしはかすれ声で言った。 

現実を説く教師の顔

《なんでも箱》の実在を信じたわたしだったが、スー・リンが《なんでも箱》にのめりこむことへの懸念もあった。ある時、スー・リンが授業中に「眼をあけたまま眠って」床に倒れる場面に遭遇し、わたしはスー・リンに厳しく言った。

「そんなこと、ただの遊びにすぎませんよ」わたしは言った。「冗談のようなものよ」 

わたしの手のなかの彼女の手が、抗議するように動いた。 

「あなたの《なんでも箱》はね、ただの遊びなの。デイヴィが机のなかにしまっているという子馬や、ソジーのジェット機のように、でなければお休み時間にみんながする鬼ごっこのように。それは遊ぶには面白いもの、だけど現実にはないものなのよ。それがほんとうにあると思っちゃいけないわ。ただの遊びなんだから」 

「ちがうわ!」彼女は狂おしく叫んだ。「ちがうわ!」 

床に倒れたせいで《なんでも箱》を紛失してしまったスー・リン。授業に復帰したものの、スー・リンの笑い声は聞かれなくなった。 

信念を取り上げてはいけない

伏せた手のひらを机にのせ、痩せた青ざめた顔を窓のほうに向けて、うつろな表情で外をながめている彼女の姿を見たとき、わたしは心に誓ったのだった。より良いものを与えられる自信がないかぎり、今後けっしてひとからどんな信念も取りあげたりはするまいと。いったいわたしはスー・リンになにを与え得たのだろう? わたしは取り上げたものよりも良いなにを、彼女は持っていただろう? 彼女の《なんでも箱》が、このような人生の難所を彼女を乗り切らせるために、故意に与えられたものでないと、どうしてわたしに言い切れるだろう? そしていま、わたしがそれを取りあげてしまったからには、いったいなにが起こるだろう? 

このくだりは、亡くなる3年前まで教壇に立っていたゼナ・ヘンダースンの面目躍如とも言える表現だと思います。 

さて、引用はここまでにしておきます。 

スー・リンが紛失してしまった《なんでも箱》は見つかるのか。見つかったとき「わたし」はどういう行動を取るのか。古本を探して、ご自身の目で確かめてください。 

「ページをめくれば」は未所収

ゼナ・ヘンダースンの作品は読めるのは、現在のところ、河出書房新社の奇想コレクションの一冊「ページをめくれば」だけだと思います。《ピープル》シリーズの2冊(「果しなき旅路」「血は異ならず」)も、ハヤカワ文庫創刊30周年記念で2000年に復刊したものの、いまは古本を探すしかない状態です。 

2006年に出版された「ページをめくれば」は、《ピープル》シリーズの本邦初訳作品や、わたしが別アンソロジーで読んだ「静かに!」(「しーッ!」と改題)と「光るもの」は収録されていますが、「なんでも箱」は入っていません。中村融氏が巻末にこう書いています。 

名作の誉れ高い短編「なんでも箱」(1956)が、本書に収録されていないことに不審の念をおぼえる向きがあるかもしれない。じっさい、はかなくも美しい子供の空想が現実となる奇跡を描いた同作は、抒情性に満ちた傑作であり、作者の代表作といってさしつかえない。だが、名作だけに入手も容易で、2006年1月現在、3種類のアンソロジーで読めるのだ。

でも、SFの悲しい性(さが)で、この3種類のアンソロジー(「20世紀SF②」(河出文庫)、「SFベスト・オブ・ベスト上」(創元SF文庫)、「幻想と怪奇ーー宇宙怪獣現わる」(ハヤカワ文庫NV))はすでに品切れです。 

やはり「ページにめくれば」に収録してくれていたら….と思わずにはいられません。 

(しみずのぼる)