「あるはずのない駅で列車が止まる。駅前にひろがるのは地図にない町、そこで目にするものは……?」(文庫の背表紙より) 前回(ディック的悪夢:「この卑しい地上に」)に続いて、ふたたびフィリップ・K・ディックの短編を取り上げます。これも現実崩壊感覚を描いた作品で、わたしにとって一番思い出深い「地図にない町」(原題: The Commuter)です(2023.8.2)
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勧めてくれた同級生に感謝
「フィリップ・K・ディックって知ってる? この本すごくおもしろいよ」
こう言って同級生から勧められたのが、ハヤカワ文庫NVの一冊「地図にない町」でした。手元の文庫の奥付を見ると、1976(昭和51)年8月発行。ディックがメジャーになるのは映画「ブレードランナー」からですが、映画の公開は1982年ですから、その前にディックを勧めてくれた同級生には感謝しかありません。
訳者は仁賀克雄氏。あとがきにこう書いています。
翻訳者として、その冥利に尽きる作品というものはめったにあるものではない。本書はその珍しい例である。とにかく僕は、いまここに収録した短編を、自分の手で翻訳して、読者の方々にお目にかけるのが、うれしくてたまらない。それほど僕は、この作家の初期の短編に惚れこんでいるのだ。
(略)
「薄明の朝食」「森の中の笛吹き」「地図にない町」といった佳作は、初めて読んだ時にぞくぞくするような面白さに惹かれ、こんな佳作がまだ訳されていないという不運ーー僕にとっては幸運を喜び、すぐにでも訳して同好の読者に読んでもらいたいという衝動にかられた。
仁賀克雄の短編ベスト5
その後、同じく仁賀克雄氏訳「人間狩り」(ちくま文庫)、浅倉久志氏他訳「模造記憶」(新潮文庫)など、ディックの短編集はかなり手に取りましたが、やはり、一番最初の衝撃が大きかったようで、わたしにとってディックとは「地図にない町」なのです。
さてそれでは、仁賀氏が自身のベスト5に上げる一篇「地図にない町」を紹介しましょう(ちなみに残り四篇は「人間狩り」、「偽者」、「薄明の朝食」、「植民地」。「人間狩り」は「変種第二号」という作品名のほうが有名です)
ないはずの駅に降り立つ
主人公は駅員のボブ・ペイン。あるとき、同僚が通勤客からメイコン・ハイツ行きの切符を求められる。けれども、そんな駅名は聞いたことがない。「お客さん、メイコン・ハイツなんてありませんよ。ありもしない駅の切符は売れません」「それはどういうことだ? 私はそこに住んでいるんだぞ!」と押し問答しているうちに、通勤客が忽然と姿を消してしまう。この不可解な現象をペイン自らも経験したため、メイコン・ハイツについて調べると、かつて3つあった住宅開発計画で、1つだけ州議会で反対票が賛成票より1票勝って承認されなかった町の名がメイコン・ハイツだった。しかも、自ら列車に乗ってみると、2つの開発済みの町の間に、確かにメイコン・ハイツ駅が存在し、降り立つことができてしまった。
ペインは不安そうに額をこすった。本当とは思えなかった。おそらく彼は正気を失っていたのだろう。町は実在しているのだ。まちがいなく現実のものなのだ。それはいつも存在していたにちがいない。
(略)
痛いほどの実感に、彼は慄然とした。不意に彼にはすべて理解できた。それは拡がっているのだ。メイコン・ハイツの向こうへも。自分の町の中へも。自分の町も変化しつつあるのだ。
さあ、ここからがディック的悪夢の始まりです。
自分の住む町は?妻は?
ペインは、存在しないはずの町が存在し、それが現実世界に浸食しているのだとしたら…と考えて、はたと気づく。妻のローラがいる元いた自分の世界もまた、今まさに塗り替えられようとしているのではないか?
彼は恐怖に囚われた。ローラ、自分の財産、計画、希望、夢。もうメイコン・ハイツのことは眼中になかった。自分の世界が危機にあった。急いで駅に向かい、タクシーに飛び乗って、焦燥の念をいっぱいにしてアパートに向かった。
(略)
ペインは入口の石段を駆け上がると、アパートのドアを押し開けた。彼はカーペット敷きの階段を二階へ急いだ。アパートのドアにはカギがかかっていなかった。押すと開いたので中へ入った。彼は心の中でひそかに祈った。
リビング・ルームは暗くひっそりしていた。シェイドは半分下りていた。彼は狂ったようにあたりを見回した。明るいブルーの長椅子の袖に雑誌がのせてある。ブロンド・オークの低いテーブル。テレビのセット。だが部屋には人影はなかった。
「ローラ!」彼は絶叫した。
引用はここまでにしておきます。現実世界が塗り替わる恐怖とその結末はご自身の目で確かめてください。
「地図にない町」は現在、前回紹介した「この卑しい地上に」同様、大森望氏編「人間以前」(ハヤカワ文庫SF)で読むことができます。
(しみずのぼる)
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