読めばまたせつなくなる:北村薫「ものがたり」

読めばまたせつなくなる:北村薫「ものがたり」

きょう紹介するのは北村薫氏の短編「ものがたり」です。「水に眠る」所収の短編で、少女が義理の兄に語る「ものがたり」に込めた想いはーー。何度読み返しても、せつなさに涙してしまいます(2024.2.7) 

読者が選ぶ「せつない短編」

わたしの手元にある「水に眠る」(文春文庫)は、1999年9月の第7刷です(初版は1997年) 

ですから、1999年のことだと思うのですが、雑誌の「ダ・ヴィンチ」で、読者アンケートをもとにした「せつない短編」という特集が掲載されていたのです。 

手元に残っていないので記憶で書きますが、1位は江國香織さんの「デューク」で、後ろの方の順位で、同じ「つめたいよるに」(新潮文庫)所収の「ねぎを刻む」が入っていました。 

「水に眠る」からは「ものがたり」が確か4位ぐらいに入っていたのではないか…と記憶します。おもしろそうと思って、書店で「つめたいよるに」と「水に眠る」を買い求めました。 

以来、わたしがもっとも好きな短編のひとつが「ものがたり」となりました。 

3年前に一度会ったきり

主人公の耕三はテレビ局勤務。妻の百合子が出がけに小言を言った。

「最後まで顔を合わせませんでしたじゃ、恰好がつかないでしょう。茜は今日で帰るんですからね。最後の日ぐらい、早く起きて、朝ご飯を一緒に食べて、《試験どうだった?》と聞いてくれたって罰は当たらないでしょう」 

茜は百合子の年の離れた妹。3年前、百合子との婚約のあいさつのため宮城の実家を訪れた時、一度会っただけだった。 

家の裏手の方から、一人の少女が駆け出して来た。学校の制服姿で片手に体育館履きのような靴を下げていた。外流しで洗っていたのだろう。少女は、耕三を見て、はっとして足を停めた。 

シャツは肘の上まで腕まくりされていた。白い華奢な手だった。

食卓に行くと、テレビを見ていた茜が振り返った。「この世に生まれてまだ十八の茜は、薄荷糖のような白いTシャツ、ほとんど黒といっていいほどに濃い茄子紺のオーバーオール。初めて見た時から、三年経っている。あの時、茜は中学の制服を着ていた。色の取り合わせが似ているせいか、三年前の茜が、そのまま目の前に座っているように思えた」 

「自作のストーリーがあります」

テレビ番組の話題など、とりとめのない会話をしばらく続けたあと、茜が「わたしにも、自作のストーリーがあります。時代劇なんです」と切り出した。

確か受験しているのは理科系の大学の筈だった。そんな耕三の考えを読んだのか、茜は、 

「お話を考えるのが好きなんです」 

「テレビ向き?」 

向いていたところで、どうにもならない。文字通りの茶飲み話だ。 

「さあ……」 

「どんな風に始まるのかな」 

耕三が水を向けたことで、茜の「ものがたり」が始まった。 

「死なせるでないぞ」

茜が語り出したのは、侍のもとへ駆けて来た娘ーー侍の妻の妹の「ものがたり」だった。 

侍の父親は慌てて外に出て行った。出がけに、侍に「死なせるでないぞ」と言い置いて。 

義妹は親の縁談を断っていた。断る理由のため、自身の顔に傷をつけた。「死に切れなかった時に、頬辺りを自分で切るんです。傷物になるわけですから、もう親だって無理にやれないでしょう」 

そんな義妹の振る舞いがうわさになり、領主が興味を抱いた。「夜、娘の兄を呼び付けて、妹の寝る部屋はどこか聞く。兄はびっくりするけれど、こうなってしまった以上、まともな結婚などあり得ない妹だ。お手がつくなら、それも妹の幸せ、というように頭が働く。人々が寝静まった頃、手引することを約束してしまう」 

「ものがたり」に込めた想い

領主に悪戯されそうになった娘は、領主に手向かいをして逃げ出した。

そのような顛末を、娘は義兄にあたる侍に語る。侍とは「何年か前に、ほんの一瞬顔を見たことがあるだけ。向かい合って話すのは、その夜が初めて」にもかかわらず……。 

ここから少し長く引用します。お許しください。 

「入って来るなり、領主は夏の日差しのような声で容赦なく宣言していたのです。自分は何々の守である、と。つまりは、自分は、従うしかない運命そのものであると、娘に知らせたのです。娘は一瞬の内に観念しました。もはや、逃れる術はない」 

茜は耕三を見据えて、話を続けた。その視線が、まるで自らの意志では動かすことの出来ないもののようだった。 

「ーーけれど、荒々しい手で引き寄せられた途端、別の想いが電流のように娘の身内を貫いたのです。領主に危害を加えることは出来ない。絶対に出来ない。だが逆に、なし得ないその非常なことをしてしまったら、その行いの主が親戚の家に走ってもおかしくはない。そう気付いた時、娘に迷いはありませんでした。小鳥の嘴は動き、鷹を刺したのです。月の光を浴びて走りながら、娘は自分が、この時のために生きて来たのだと悟りました。この駆ける一足、一足のために」 

耕三はなんと答えるか

ようやくヴェールを脱いだ「ものがたり」に込めた茜の一途な想い。「何年か前に、ほんの一瞬顔を見たことがあるだけ」なのに……。耕三はなんと答えるでしょうか。 

もう少しだけ引用を続けさせてください。 

耕三は、茜の瞳に見入った。辺りは、怖ろしいほどに静かだった。 

「ーー娘と侍は、一度視線を交わしただけです。《姉に会いに来た》と、侍は思うのでしょうね」 

目は、耕三にすがった。 

「そう……思われたら、娘は死んでも死にきれないだろう」 

茜の唇が、微かに震えた。 

「それでは侍はーー」 

「何もいえないだろう」 

茜は、性急に言葉をかぶせた。 

「今まで会わなかった。これからも会わない。それなのに、いえませんか」 

ここから、残り3行です。最後の1行に、私はいつも泣いてしまいます。どうぞ「水に眠る」を手に取ってお確かめください。 

「水に眠る」所収の短編は、どれも愛をテーマにしたものです。

この短編集を端的に表す文章が、文庫巻末の解説に書いてあります(筆者はコラムニストの水星今日子さん)

その文章を引用して、わたしの拙い文章を終えたいと思います。 

せつない時に読みたく、読めばまたせつない短編集である。

(しみずのぼる)