暗い官能の洞窟へ堕ちて:宇能鴻一郎「甘美な牢獄」

暗い官能の洞窟へ堕ちて:宇能鴻一郎「甘美な牢獄」

筒井康隆氏の名アンソロジー「異形の白昼―現代恐怖小説集」から、今回は宇能鴻一郎氏の「甘美な牢獄」です。「この世の地獄を描いて宇能氏の右に出るものはあるまい」と筒井氏に語らしめる、宇能氏の麻薬的な文章の魅力を紹介します(2023.9.6)

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この世の地獄

まず、宇能氏の「甘美な牢獄」を紹介する前に、「異形の白昼」が名アンソロジーであることを如実に示す文章なので、「シリーズ日本語の醍醐味」(烏有書林)の一冊「甘美な牢獄」から、監修者である七北数人氏の文章を紹介しましょう。 

…あいにく宇能文学はアンテナにかかることなく十数年が過ぎた。 

キッカケは筒井康隆が編纂した名アンソロジー『異形の白昼』だった。私が読んだのは一九九三年、この本の文庫版で、しかも第十四刷だったので、気がついたのは相当遅い。でも長く版を重ねていてくれて、ありがたいことだったと今でも思う。 

恐怖小説の名短編をとりそろえたアンソロジー中でも、特にきわだって印象を残したのが、宇能鴻一郎の「甘美な牢獄」だった。後年の宇能作品とはまったく違う、濃密で麻薬的な文章に酔い、感覚のどこかが壊れてしまいそうなほどの衝撃を受けた。 

(略) 

私は一作で、すでに宇能文学のとりこになっていた。「この世の地獄」をもっともっと味わいたくて、宇能鴻一郎の初期作品を片端から、むさぼるように読んだ。どの作品にも、やむにやまれず暗い官能の洞窟へおちこんでいった者たちの姿が描きこんであった。 

七北氏のようなプロの作家・文芸評論家にここまでの文章を書かせる「異形の白昼」とは、どれほどすごいアンソロジーなのでしょうか。 

栗本薫の「夢」

とはいえ、わたし自身は曽野綾子氏の「長い暗い冬」の紹介で書いた通り、いちばん感銘を受けたのは宇能氏の「甘美な牢獄」ではありませんでした。自分の想像力のなさから来る不快さが読後の印象だったと記憶しています。 

わたしが宇能文学を意識し、宇能氏の短編を見つけるたびに読むようになったのは別のアンソロジーがきっかけでした。 

それは栗本薫氏の「いま、危険な愛に目覚めて」(集英社文庫)です。 

こちらには宇能氏の「公衆便所の聖者」という短編が収められていますが、栗本氏のあとがきを読んだのが、わたしにとって宇能文学に引き寄せられるキッカケとなったのは間違いありません。すこし長い引用になりますが、お許しください。 

「私、……なんです」

かつて、宇能鴻一郎は私のヒーローの一人であった。「魔薬」「切腹願望」「リソペディオンの呪い」「座蝋の刑」といった、妖しく、悲惨な、悪夢のような、そして異様な吸引力をもった小説を私は読みふけり、呆然とした。そののち彼は「私……なんです」と書きつづけ、たいへん多く読まれている作家である。それはむろん彼の選んだことである。しかしかつて「鯨神」を書いた作家は「私、……なんです」と書きつづけて一生を人気作家として終るのを得るのであろうか。

(略)

私は、つい、夢をみる。それは、彼が、口述で「私、……なんです」を書きまくりつつ、十年かけて一冊の恐るべき小説を書いているところである、という夢である。それは、見てはならぬ夢であろうか? 私は現在の宇能鴻一郎のみを見て宇能鴻一郎を語る読者に、これもまた宇能鴻一郎が書いたのだと知ってほしくてーー彼がどのような恐るべき作家であるかを知ってほしくて、この一篇を入れる。 

栗本薫氏にここまでの文章を書かせる宇能鴻一郎とは!? 

わたしはこの文章に衝撃を受け、「公衆便所の聖者」を読み直し、本棚から「異形の白昼」を引っ張り出して「甘美な牢獄」を再読しました。 

そして、栗本氏がわざわざ作品名を紹介してくれている「魔薬」や「リソペディオンの呪い」、あるいは七北数人氏がちくま文庫から出した3冊のアンソロジー(「監禁淫楽」「人獣怪婚」「人肉喰食」)などで、宇能氏の短編を読みあさったのです(でも、いまだ「切腹願望」と「座蝋の刑」は見つけられないでいます) 

人間である最後の夜

さて、ここからは宇野氏の短編群を紹介します。一つ目の作品は、筒井康隆編「異形の白昼」所収の「甘美な牢獄」です。 

舞台は台湾。作者が取材旅行で訪れた寺院の裏の洞窟に鉄格子がはめてある牢があった。ぼろの服を着た男が2人、女が1人。男のうち若いほうの男と目があった。日本に帰ってしばらくして、その男から手紙が届いた。 

あんな洞窟のなかで、檻にとじこめられて、獣のように暮している私たちをみて、ずいぶん驚かれたことと思います。 

手紙には自らの生い立ちや性癖、暗い願望と快楽から説き起こして、なぜ自分が牢生活に入り、狂人夫婦との「畜生道の暮し」を望むに至ったのかについてしたためてあった。そして、文章はこう結んであった。 

明日が私が、ふたたび、そしてこんどは永遠に、あの洞窟に戻る日です。死ぬまで畜生の楽しみに耽るために、あの狂人夫婦とともに、自分も畜生に堕ちに行く日です。人間である最後の夜に、わたしはこの手紙を書きます。 

聖者による天上の愛撫

二つ目の作品は、栗本薫編「いま、危険な愛に目覚めて」所収の「公衆便所の聖者」です。 

書き出しは「男根崇拝の美学」という副題を持つエッセイからの引用で、映画館の便所に穴をあけて男性器を口にふくむ中年男性に関する記述があった。 

作者はその後、週刊誌の依頼でホモセクシャルの男性の取材をした際、この公衆便所の男性が実在することを知る。そして、”ナアさん”の通称で呼ばれた中年男性の探訪から仙台の地まで足を伸ばす……。 

いまこそ隣りの個室には、何年か前もしゃがんでいたにちがいない、”公衆便所の聖者”がうずくまり、無上の、天上の愛撫を加えつつあるのだ、とたやすく想像することができた。 

いや、そればかりではない。やがてわたくしは古びた板壁を透して、金いろの輪光につつまれた優しげな、敬虔な聖者の姿を、暗闇のなかに、まざまざと見さえしたのだ。 

愛に熟れ、腐りはてる

三つ目の作品は、栗本氏が挙げた短編群のひとつ「魔薬」です。徳間文庫編集部編「かくも美しきエロス」(徳間文庫、1999年刊)に収められています。 

インドを訪れた作者は、ホテルで見たショーでひとりの美少年が目にとまった。 

女よりもエロティックでありながら、奇妙にもそれには、乾いた清潔さが感じられるのだった。 

ショーが終わったあと、その美少年に「自分たちの演技中の写真をもらえないか」と声をかけられた。

少年はちょっともじもじしていたが、 

ーー日本の方ですか。 

と聞いた。そうだ、と答えると、 

ーー実は、私たちのチームにも、日本人がいるのです。 

興味を抱いた作者は、その日本人への面会を申し込む。紹介された日本人は、エリート商社マンだった自分がなぜ家族も職も捨てて、ムドウライという名の美少年と共に生きる道を選んだかーーという自身の半生記を語り始めた。 

要するに私は、堕落しきってしまったのでしょう。この熱さと、けだるい官能にみちみちた風土の中で、腐ってしまったのかもしれません。しかし、ムドウライとの熱い濃厚な愛のなかで熟れ、腐りはてるのは、むしろ本望のようにも思えるのです。 

3作品に共通するのは、七北数人氏の表現をそのまま借りれば、「やむにやまれず暗い官能の洞窟へおちこんでいった者たちの姿」です。 

「恐るべき作家」 

最後にひとこと。栗本薫氏が、 

「私、……なんです」と書きつづけて一生を人気作家として終るのを得るのであろうか 

と書いたのは1985年。いまから40年近く前のことです。栗本氏が2009年に亡くなって、すでに14年がたちます。 

Z世代からしたら、「私、……なんです」という表現をみて、宇野氏が一世を風靡したポルノ作家であることを想起すらしないでしょう。 

その代わり、令和の時代になって、新潮文庫から「姫君を喰う話」のタイトルで短編集が出版され(21年)、七北数人氏の監修で「甘美な牢獄」(烏有書林)が出版されています(22年) 

栗本さんが心ひそかに望んだように、宇能氏は「恐るべき作家」として読み継がれていく気がします。 

亡き栗本さんも喜んでいるのではないでしょうか。 

(しみずのぼる)