きょう紹介するのは柴田よしきさんの傑作警察ミステリー「聖なる黒夜」です。闇の帝王になる男と呼ばれる男娼上がりのヤクザ〈山内練〉がなぜ誕生したのか、その真相がついに明かされます(2024.5.15)
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ミステリー…恋愛物語…文学…
山内練については、以前の記事を必ず先に読んでください。読んでいる前提で文章を書きます。
「聖なる黒夜」のあらすじを改めて紹介します。

広域暴力団の大幹部が殺された。容疑者の一人は美しき男妾あがりの男……それが十年ぶりに麻生の前に現れた山内の姿だった。事件を追う麻生は次第に暗い闇へと堕ちていく。圧倒的支持を受ける究極の魂の物語(『聖なる黒夜(上)』)
刑事・麻生龍太郎と男妾あがりのインテリ山内練。ひとつの殺人事件を通して暴かれていく二人の過去に秘められた壮絶な哀しみとは? ミステリとして恋愛物語として文学として、すべてを網羅した最高の文芸作品!!(『聖なる黒夜(下)』)
本を売るための宣伝文句とはいえ「ミステリとして恋愛物語として文学として…最高の文芸作品」という表現に驚かれるでしょう。
でも、上下2冊の大部を読み終えると、この表現に偽りなしと思えるほど、「聖なる黒夜」はきわめて完成度の高い小説であることに気づかされます。
山内練が登場するRIKOシリーズの「聖母の深き淵」も「月神の浅き夢」も、極上のエンタメ小説ではあっても、完成度は「聖なる黒夜」の足許にも及びません。「聖なる黒夜」は、やはり表現するなら「ミステリとして恋愛物語として文学として…最高の文芸作品」である、とわたしも思います。
3つの要素が複雑に絡み合う
「聖なる黒夜」は、大きく3つの要素が複雑に絡み合った物語です。
1つ目の要素が、指定広域暴力団春日組の最高幹部にまで登りつめた韮崎誠一が、ホテルの浴室で殺害された事件です。
凶器は医療用のメス。対立組織のヒットマンから何度も命を狙われながら用心深く危機を回避してきた韮崎が、なぜ無防備な姿を犯人にさらして殺害されたのか。犯人は誰か、動機は何か。
徐々に意外な犯人の姿が明るみになりますが、犯罪の全体像が明らかになるのは下巻の、しかも最後の方です。捜査を指揮する捜査一課刑事・麻生龍太郎とそのチームが、まるでヴェールを一枚一枚はぐように、真相に迫っていくプロセスは、きわめて上質な警察ミステリーです。
2つ目の要素が、麻生が韮崎の周辺人物のひとりとして、かつて自身が逮捕した山内練と”再会”し、山内と接することで自身の捜査の誤りと山内への愛を気づいていくプロセスです。このあたりは恋愛小説の趣が濃厚です。
そして3つ目の要素が、麻生が誤認逮捕した時点でひ弱な大学院生だった山内練が、韮崎以上に残忍と評せられるほどのヤクザに、どうして生まれ変わることになったのか。〈山内練〉誕生の秘密です。
誤認逮捕は必要条件に過ぎない
わたしは以前の記事(〈山内練〉誕生の秘密が明かされる:柴田よしき「月神の浅き夢」 )でこう書きました。
悪魔のように頭の切れる男、悪魔に魂を売った人間、闇の世界で帝王になる逸材……。そんな男を造ったのは、ほかならぬ警察だったーー。
麻生が、女性を襲った容疑で逮捕された大学院生の山内練を自供に導く……。それが誤認逮捕だったのですから、〈山内練〉誕生の発端が麻生の判断ミスにあったのは間違いありません。
しかし、それは柴田よしきさんが創り出した独創的キャラクター〈山内練〉誕生の”必要条件”ではあっても、”十分条件”ではありません。
なぜなら「聖なる黒夜」では、受刑中も、出所後に男娼生活に堕ちた後も、山内練はひよわな青年の延長線のままの男として描かれているからです。
自殺しようと線路に寝ているところを春日組幹部の韮崎誠一に拾われてから、山内は変貌を遂げたのです。
韮崎誠一との出逢いこそが〈山内練〉誕生の秘密なのですが、韮崎は山内に何をしたのか。それこそが、あらすじにある山内と麻生の「二人の過去に秘められた壮絶な哀しみ」の核心です。
おまえの絶望は底なしだ
韮崎は、線路に寝そべる山内を拾って愛人宅に預けてしばらくしたところで、韮崎は山内に言った。
「おまえの絶望は底なしだ。ただ真っ暗で、無意味なだけだ。過去に何があったか知らないが、おまえは負け犬になってこの世から消えるんだ。このままだとな。無抵抗主義か。それもいいさ。だが、おまえをそこに追い込んだ奴らは今頃、楽しい晩餐の真っ最中かも知れないぜ。おまえ、悔しいとは思わないのか? それともおまえは、勝手にそこまで堕ちたのか? 誰にも恨みはないって言うのか?」
韮崎は「チャンスをやる」と続けた。
「一ヶ月以内に、俺を感服させてみな。俺が、参りました、って言うようなことを何かしてみろ。なんでもいい。俺を殴り倒してみせてもいいし、皐月を連れて逃げてもいいぜ。ただし、捕まれば二人とも殺す。何だっていいから、おまえを生かしておきたいと俺が思うようなことをやってみろ。それができなかったら、おまえは売り飛ばす。本物の変態奴隷としてだ。おまえの絶望につきあってやるのは、あと一ヶ月が限度だ。もし成功したら、自由にしてやる。正真正銘、自由の身にな」
山内がやったことは「金をつくる」ことだった。山内は刑務所で親しくなった田村に説明した。
「誠一が読んでる投資雑誌だとか経済新聞だとか、全然興味なかったんだけどさ、たぶん、あれで金が作れるだろうなって見当つけて、一週間ぐらいバックナンバーまで熟読したんだ。それで勝算があるとわかったんで、皐月ねえさんに頼んで、俺の代わりに株を売買して貰った。一ヶ月で、三千万にちょい足りないくらい利益が出たんで、それを現金でそっくり、誠一の前に置いてやった」
(略)
「で、韮崎さんはおまえに感心したのか」
「驚いた顔はしてた。でも誠一は負けず嫌いなんだ」
練は笑った。
「これができるなら五千万貸すから三ヶ月で倍にしてみろって言われた」
「また投資したわけ、株に」
「ううん」
練は田村の髪の毛に指を差し入れた。すっかり長く伸びているのに、懐かしい手触りだった。
「会社、作ったんだ。それで不動産、二回転がしたら二億になった。品川の土地でさらに、十億利益を出した。一ヶ月半しかかからなかった。ボロい話だ」
こうして山内は韮崎の「金のなる木」となり、韮崎が兄貴格のヤクザに「この男の言葉は神託のようなものですよ」「いや、予言かな。それも、黒い予言だ。こいつは人間じゃない。悪魔なんです」と紹介するまでになる……。
俺を生き返らせようとした
だが、韮崎が山内に行ったことはそれだけではなかった。
受刑中に山内を男娼としてひどく扱った北村という男が、ガソリンをかけられて生きたまま焼き殺された。韮崎殺しに関係する話として、山内は麻生に打ち明けた。
「田村は……田村ってのも俺と同房だった奴で、仲がいいんだ、今でも。武藤さんとこにいる奴で、北村が殺された話もそいつから聞いた。で、田村は間違いなく誠一の仕業だと言っていた」
「しかし……韮崎は他にも邪魔になる奴らを片付けて来た事実が山ほどある。その北村って奴は韮崎が直接相手にするにしては、小物だという気がするんだが……」
「田村もそう言っていた。稲村芸能を掛川エージェンシーの傘下に収めるくらいのことは、北村を殺さなくてもできただろうって」
「韮崎がその男を殺したのには他に理由があったって殺ったのは韮崎だと思ってるのか?」
練は空き缶を投げ捨てると、ソファに寝転がった。
「田村はそう考えてた……俺のせいじゃないかって」
「おまえの?」
(略)
「あんたに理解して貰えるとは思わないけど」
練は、天井を向いたままで長く息を吐いた。
「誠一は、俺を生き返らせようとしていたんだと思う」
「……生き返らせる?」
「俺は、死んでたんだ……線路に寝転んだ時からじゃなくて……あの判決が出た日から。あの日から俺の目に見えていた世界は、いつも色がなかった。ただ黒と白、光と影。自分がどうなろうと別に構わない、漠然とした開き直りの中で、諦めること……絶望、って言い換えたらいいか、そいつと添い寝してうつらうつらする。何か考えたり感じたり、どうにかなろうとしてあがくよりもそっちの方が楽だった」
(略)
「誠一はたぶん、俺が死人なんだって気づいて、何とか生き返らせようとしたんだと思う……北村を殺したのが俺と関係あるんだとしたら、北村の存在もまた俺を死人にしておく原因のひとつだと思ったのかも知れない」
韮崎は、山内の過去にかかわった人間に私的制裁を加えていた。死人だった山内を生き返らせるために……。
恋に落ち、嫉妬に狂う
韮崎がそこまで山内にこだわった理由は何か。 山内は、麻生もまた私的制裁の対象だったことを、麻生自身に明かした。
「誠一は別の理由であんたを殺したがっていた」
「どんな理由だ? おまえの過去を清算してしまうためか?」
「違うよ」
練は笑いながら、唇を麻生の顎の下に押し付けた。ひどくくすぐったかった。
「嫉妬さ」
「どうして韮崎が俺に嫉妬する」
「俺がいつまでも、あんたのことを忘れなかったから。誠一は、人の心が読めるのかと思うほど、他人の心の動きに敏感だった。誠一には一切の嘘が通用しなかったんだ。俺は誠一を愛してた。でも誠一は、俺の心が二重底なのに最初から気づいてた。俺はずっとあんたを忘れなかった。忘れられなかった」
田村もまた、韮崎の山内への感情を「生まれて初めて恋に落ちた」と表現し、麻生への嫉妬心を口にした。
「韮崎さんてプライド高かったもん。嫉妬で狂いそうになったりじれておたおたしたり、そういうの、耐えられないタイプだったと思うよ」
「……この人は本っ気で練にイカレてんなぁ、ってさ」
悪魔に魂を売った男と言われる〈山内練〉は、韮崎の山内への愛と麻生への嫉妬による創造物だったーー。
聖なる夜の運命の歯車
「聖なる黒夜」は、線路に寝そべる山内練を通りかかった韮崎が拾う場面から始まります。
そして、韮崎殺害の真相がわかる場面で、山内と韮崎が出逢ったバレンタイン・デーの日について、麻生がこう思う場面が出てきます。
聖なるその夜。
真摯で激烈な聖人が殉教したその日を祝した日。
運命の歯車はいったい、いくつ狂ったのか。
すべての要素が韮崎殺害の真相に収斂していく醍醐味は、ぜひ「聖なる黒夜」を手に取って味わってください。
(しみずのぼる)
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