志水辰夫氏の小説を紹介する3回目は、短編集「いまひとたびの」です。背表紙の紹介文どおりですので、そのまま引用します。「大切な人と共有した『特別な一日』の風景と時間。それは死を意識したとき、更に輝きを増す。人生の光芒を切ないほど鮮やかに描きあげて絶賛された傑作短編集」です(2023.10.15)
〈PR〉
【日本旅行】思い出に残る家族旅行を。趣が異なる短編集
1997年に刊行された「いまひとたびの」(新潮文庫)は、
- 赤いバス
- 七年ののち
- 夏の終わりに
- トンネルの向こうで
- 忘れ水の記
- 海の沈黙
- ゆうあかり
- 嘘
- いまひとたびの
の9短編が収められています(2020年刊行の完全版には、さらに「今日の別れ」という短編が加わっています)
はじめて読んだ時、「裂けて海峡」や「背いて故郷」の印象があまりに強烈だったせいか、「ほんとうに同じ作家か?」と戸惑いました。それほど趣が異なる小説ばかりだったのです。
共通する死の風景
文庫の解説で北上次郎氏はこう書いています。
志水辰夫がこの作品集で書こうとした風景とは何か。なぜ、ゆったりとした時間を取り戻そうとしたのか。
この九篇に共通するものが死の風景であることを考えれば、それは明らかだ。自分が死ぬ、友が死ぬ、親が死ぬ。その死を前にした人間のさまざまな感情の風景がここにはある。
作者が老境を意識する年齢となったからなのか、かつてのシミタツ節は影を潜め、でも、この文章もとても心地よい。北上さんの言うとおりだ! そんなふうに、このシミタツ節も麻薬のように忘れがたく、何度も再読したくなる短編集となったのです。
どの短編も味わい深くて好きですが、最初の読後感が(「裂けて海峡」や「背いて故郷」とあまりに異なって)鮮烈だった「赤いバス」を紹介します。「赤いバス」はこんな書き出しではじまります。
スガイミツオという少年にはじめて会ったとき、彼は誰もいない桑畑の中で、ひとり蛇と遊んでいた。
「わたし」は都会の生活を捨てて、過疎の村に建てた山荘でひとり暮らす身。高速道路のそばでふたたび見かけた少年は、バスが通るたびに大声をあげた。
停まらないバス停
ほかの車には目もくれないことがわかった。彼の関心はバスだけだった。そして上り車線のバスも見逃さず、バスの往来がすこしでも途絶えると、さも残念そうに口の中でぶつぶつつぶやいた。
(略)
苦笑いしていると少年がわたしに気づいた。彼はもうずっと前からわたしがそこにいたみたいな表情を返し、おりしも向こうからトンネルを出て来たバスに向かって「赤いバス!」とひときわ大きな声を上げた。そしてやや興奮気味に「あのバスでおねえちゃんが帰って来るんだよ」と言った。
しかし、バス停の時刻表には何も書かれていなかった。業者に騙されて高速道路が通っただけで、バスは停まらないことを村の老人から知らされる。ミツオの姉についても、村の老婆からこう聞かされる。
川で溺れ死んだ姉
「東京に? いえ、ほかに兄弟いませんよ。キミコという姉がいただけです。あとはミツオひとり。そこの川でね、溺れたんです。ミツオのほうが深みにはまって、姉がそれを助けに行って、自分は力つきて沈んだんですよ。逆だったらまだよかったのにって、みんな貰い泣きしましたもの。そうですねえ、姉のほうは生きていたらもういい年ごろですよ。ミツオより五つか六つか上だったように思いますけどね」
バスも停まらない過疎の村で、「わたし」が妻や子供と離れてひとり山荘暮らしをする理由も徐々に明かされる。静脈注射や点滴には「吐き気がするという副作用がある」という記述から、がんを患い、おそらく余命宣告を受けていることが暗示される。
そして、ある日の夕方、バス停にミツオが座っていた。
わたしを見ても気弱そうなほほ笑みを見せただけだった。白い、新しいシャツを着ていた。ズボンは黒。丸坊主の頭は散髪したてだった。「おねえちゃんが帰って来るんだよ」ミツオは気負いのない淡々とした声で言った。わたしはうなずきを返し、彼の横に腰を下ろした。
お盆に帰って来る姉
ここからは、すこし引用が長くなることをお許しください。「裂けて海峡」や「背いて故郷」で引用した文章とはまったく別物の、でも「これも心地よい」と思えるシミタツ節です。
車があわただしく疾走しているにもかかわらず、大いなる静寂のようなものに包まれていた。音や動きが無声映画みたいな影絵的感覚の中へ遠ざかっていき、空間全体が壮大な舞台となって、なにかの開演を待ち受けているみたいなしんとした静寂をみなぎらせている。それはとりもなおさず平安の前兆であり、夕霞と自分との一体感であり、自分の中に巣くっている不安や恐怖や絶望からの解放にほかならなかった。わたしはミツオと同じように救いを求めている人間なのだ。
(略)
気がつくと目の前に赤いバスが止まっていた。それは音もなくバスレーンに入って来て、バス停に横づけしていた。ドアが開くと、中から女性が下りてきた。立ち上がったミツオが手を差しのべながら走り寄った。女性がミツオを見てにっこり笑った。若くて、美しい娘だった。土産物らしい大きな紙袋を手に掲げていた。彼女はミツオにひとことふたこと話しかけ、わたしに向かって会釈した。姉が弟の手を握り、弟が姉の紙袋を持って、ふたりは石段を下りて行った。
ここからまだしばらく文章はつづくのですが、引用はここでとめましょう。心のうちに巣くう「不安や恐怖や絶望」をかかえる「わたし」が得た境地ーーラスト3行は、ぜひ自身で「いまひとたびの」を手に取って確認してください。
(しみずのぼる)
〈PR〉
1冊115円のDMMコミックレンタル!