岡本綾さんのはかなげな表情…浅田文学の原点「地下鉄に乗って」

岡本綾さんのはかなげな表情…浅田文学の原点「地下鉄に乗って」

きょう紹介するのは浅田次郎氏の原作および映画「地下鉄(メトロ)に乗って」です。小説も映画も、親と子の屈折した関係と親を想う子、子を想う親それぞれの気持ちが溢れ出るせつないストーリーに号泣必至で、特に映画版はヒロイン演じる岡本綾さんの哀しくはかなげな表情で胸が苦しくなります(2024.4.22) 

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浅田氏自身の来歴を盛り込む

「地下鉄(メトロ)に乗って」のあらすじを紹介しましょう。 

絶縁状態の父親が倒れたという知らせを受けた日、小さな衣料品会社の営業マン・長谷部真次は、いつものようにスーツケースを転がしながら地下鉄で移動していた。そこに突然、亡き兄が姿を現す。兄の背中を追って地下通路を抜けると、そこは昭和39年の東京だった。ほどなくして真次は無事現在に戻ってくるが、後日、今度は恋人の軽部みち子も一緒に昭和21年に遡り、闇市でしたたかに生きる若き日の父・小沼佐吉に出会う。 

浅田次郎氏の原作は1994年に出版され、「浅田文学の原点」と言われる長編小説です。 

浅田氏の来歴は、ウィキペディアから要約します。 

高校卒業後、陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビュー。悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。 

9歳まで東京都中野区鍋屋横丁で育ち、家業はカメラ屋だった。戦後のどさくさにまぎれて闇市で父が一旗上げて成金になり、メイドがいる裕福な家庭で育った。 9歳の時に家が破産、両親は離婚し、しばらくの間、親類に引き取られた。 

高校時代に小説家を志し、小説を書く時間が取れる仕事をしながら習作や投稿を続けたが、一向に日の目を見ることはなかった。 

主人公の職業(衣料品会社の営業マン)、絶縁した父親の来歴(闇市で一旗上げて成金に)、主人公の家がある場所(中野区鍋屋横丁)……。自身の来歴をふんだんに盛り込んでいるところも「浅田文学の原点」と呼ばれるゆえんでしょう。 

父の壮絶な過去を追体験

2006年に製作された映画は、主人公を堤真一さん、絶縁した父親を大沢たかおさんが演じています。ストーリーは原作にほぼ忠実で、主人公はタイムスリップを通して父親の壮絶な過去を追体験するとともに、絶縁した父への屈託を溶いていきます。 

主人公の真次が最初にタイムスリップしたのは昭和39年。父と絶縁するきっかけとなった兄の自殺のタイミング。兄の自殺を阻止しようと努力して、翌朝になって現実に戻るも、現実世界で兄の不在は何も変わっていない。 

真次は不思議な体験をした日、職場の同僚で真次と不倫関係にある軽部みち子の部屋を訪ねた。

原作から、みち子が登場する場面を紹介します。 

「私ね、ちょっとびっくりしてるの」
シートに乗ると、みち子は少しもそうとは見えぬ顔で言った。
「信じようと信じまいとーーいや、信じてくれっていう方がむりかな」
「そうじゃないわ。話の中味じゃなくて、あなたのおとうさんが小沼佐吉だなんて知らなかったから」
「あれ? 話してなかったか」
「知らなかったわよ。あなた自分のことって何も話してくれないじゃない」
みち子は組んだ脚の上に肘を置き、不愉快そうに顔をそむけた。
過去を語ろうとしないのは、みち子も同じである。月にほんの一度か二度、いつもこんなふうに落ち合うだけの関係だった。厄介な感情はおせじにもない。いつ途絶してもふしぎはなく、むしろこうして五年も続いていることの方が、ふしぎといえばそうである。

真次はその夜、2度目のタイムスリップを体験する。今度は敗戦直後の日本だったが、不思議なことに、みち子も一緒にタイムスリップしていた。 

タイムスリップにみち子も

背広姿で闇市を歩く真次は「アムール」と出会う。真次の前に現れた男はコートの襟を立て、厚い系とのマフラーを巻いている。齢は若いが、その身なりからもいっぱしの兄貴分に見えた。 

「こいつはどうも。若い者がとんだ粗相をしちまってーー」 

「いや、べつにどうということはない。ちょっと腹が立ったからね」 

「待ってくださいよ、旦那。私ゃこのあたりの食いつめを面倒みてる者で、アムールって言います」 

「アムール? ーーずいぶんしゃれた名前だね」 

「ちっともしゃれちゃいません。つい半年前にね、満州から命からがら復員したんです。国境の黒龍江(アムール)からロスケの戦車に追われて逃げてきたんですけど、殺されもせず抑留もされずに帰ってきたなんて嘘みてえだから、みんなが黒龍江って呼ぶんで。ーー嘘じゃないんですよ、旦那。俺ァ運が強くって」 

真次の身なりから進駐軍の通訳とにらんでの接近だった。アムールが飲み屋に連れていく途中、売春婦の摘発に出くわした。 

「ありゃりゃ」、とお道化た声を出して、アムールは真次の腕を掴んだ。行く手の路上に幌をかけたトラックが一台止まっている。怒号と金切声が、がらんどうに焼けたビルにこだまし、懐中電灯の光が蛍のように闇を舞っていた。
(略)
そのとき、数珠つなぎになって路地からせき立てられてきた女たちの中に、まったく思いがけぬ顔を見つけて、真次はあっと声を上げた。
「真次さん、助けて!」
みち子だーー。

翌朝、みち子の部屋で目覚めたふたりはお互いの夢を確認し、驚く。「あれは夢じゃないのよ。私とあなたの魂が、寝ている間にタイムスリップしたのよ」 

真次は翌日も3度目のタイムスリップを体験した。前夜の続きでアムールを銀座で探し出し、行きがかりからアムールが財を成す手助けをした(原作は高級カメラ、映画は砂糖の買付)が、そこで出会ったのがお時だった(映画では常盤貴子さん)。進駐軍に目をつけられないよう恋人同士のふりを演じると、 

枯葉のように乾ききり、子供のそれのように薄く小さな唇。ためらいがりに絡められる舌の動きーーそれらの印象が、慣れ親しんだ恋人のもののように感じられるのはなぜだろう。
真次は確かめるようにお時のうなじを抱いた。
と、ふいにお時は真次の胸を突き放した。手の甲で唇を拭うお時の顔は青ざめていた。
「あんた、誰なのよ」

このあと、4度目のタイムスリップでアムールが小沼佐吉ーー真次の父親であることがわかり、佐吉の艱難辛苦を真次は追体験していきます。 

見なければならないもの

それだけではありません。真次の繰り返されるタイムスリップは、いつしかみち子と一緒に過去を彷徨うようになります。 

徐々に明るみになる真実。なぜ兄は自死を選んだのか。真次はたまらず叫ぶ。 

「なんで、こんなものまで見なきゃならないんだ。俺が何をした。なあ、みっちゃん、ひどすぎると思わないか」 

しかし、みち子は真次を抱き上げて言う。 

「きっと、あなたが見なければならないものだったからよ。そうにちがいないわ」 

岡本綾さんの代表作

映画でみち子を演じるのは岡本綾さんです。 

1982年生まれ。1995年の映画『学校の怪談』においてヒロインを演じ、一躍注目される。2000年にNHKの連続テレビ小説『オードリー』で連続テレビドラマ初主演。2006年に『地下鉄(メトロ)に乗って』に出演、2007年に「女優として内から引き出すものがなくなり、表現者としての限界を感じています。一度、自分自身を見つめ直す時間がほしい」として無期限で芸能活動を休養。2014年から映像コンテンツ権利処理機構に連絡のとれない権利者として掲載されている(ウィキペディアから要約) 

最近「オードリー」が再放送されて話題になりましたが、「地下鉄に乗って」は岡本綾さんの代表作とも言える映画です。 

「どこへ行くんだ。みっちゃん、俺はもう歩けない」
「もうじき。すぐそこよ。これでおしまいだから。さあ、歩いて」
(略)
「あれが私の生まれた家。おかあさんが亡くなるまで、二人っきりで暮らした家ーー行きましょう」

階段で動けなくなった真次をみち子は抱き寄せると、むさぼるように唇を吸った。 

「ありがとう、真次さん。あなたを愛しています。どうしようもなぐらい、世界中の誰よりも、あなたを愛しています」 

濡れたコートの背をもみしだくみち子の力に、真次はおののいた。 

「これ以上私のしてあげられることは、もう何もないけど、大好きな真次さんにあげられるものは、何も持っていないけどーー」 

映画では、この階段での抱擁でせりふはありません。でも、みち子のせつない気持ちを岡本綾さんは表情だけで演じ切っています。笑顔でも悲しそうではかなげで、このあたりから涙なしに観ることはできません。 

親は子の幸せを願うもの

なぜ、真次のタイムスリップにみち子も出てくるのか。その謎は、原作もしくは映画でご確認ください。 

親っていうのは、自分の幸せを子供に望んだりはしないものよ

なんとあたたかなせりふでしょう。主人公は真次であるはずなのに、みち子の哀しみに寄り添って観る人はきっと多いはずです。 

もう映画やドラマで観ることがかなわない岡本綾さんのはかなげな表情で、ずっと記憶に残る映画であり続ける気がします。 

(しみずのぼる) 

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