女流画家が遺した地獄絵の謎:篠田節子「神鳥(イビス)」

女流画家が遺した地獄絵の謎:篠田節子「神鳥(イビス)」

きょう紹介するのは篠田節子さんの「神鳥(イビス)」です。異界に足を踏み入れた主人公たちを襲う恐怖からホラーに分類されますが、謎解き、サスペンスの趣も…。ジャンル分けに意味はなく、ひたすら篠田さんの小説世界に浸ればよいのだと感じます(2024.6.15) 

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表層はホラー、芯は謎解き

20数年ぶりに再読して思うのは、「聖域」しかり「神鳥(イビス)」しかり、自分は平面的な読み方しかしてなかったな…という反省でした。どちらもホラーだとばっかり思っていたのですから。 

「神鳥(イビス)」は「聖域」に比べれば、ホラーに分類されるのは道理です。異界の世界が出てきますから。 

あらすじを紹介しましょう。 

夭逝した明治の日本画家・河野珠枝の「朱鷺飛来図」。死の直前に描かれたこの幻想画の、妖しい魅力に魅せられた女性イラストレーターとバイオレンス作家の男女コンビ。画に隠された謎を探りだそうと珠枝の足跡を追って佐渡から奥多摩へ。そして、ふたりが山中で遭遇したのは時空を超えた異形の恐怖世界だった。異色のホラー長編小説。 

出版社(集英社)自身がホラーと分類しているんだから、異論ははさまないでいいんですが、読後の印象はむしろサスペンス満載のミステリー小説を読み終えた気分でした。 

というのも、ホラーというのは説明不能な現象が前面に出てくる印象が強いのに対して、「神鳥(イビス)」は、主人公たちが心奪われた明治時代の女流画家の絵の謎解きのほうに力点があるからです。 

その謎を、異界で追体験することで解き明かすので、主人公(+読者)は恐怖を強いられるわけですが……。強いて言うなら、”表層はホラーでも、芯は謎解き”という気がします。 

異質な「朱鷺飛来図」

前置きはこの程度にしましょう。 

主人公はイラストレーターの谷口葉子。出版社を通じて新刊カバー絵を依頼された。暴力とセックスばかり出てくるバイオレンス小説の作家、美鈴慶一郎がカバー絵に指定したのは、明治時代に夭折した女流画家、河野珠枝の「朱鷺飛来図」だった。 

夕暮れの空を背景に、八羽の朱鷺(とき)が舞い下りてくる。その足元にあるのは、地面を覆いつくして咲き乱れるおびただしい数の牡丹の花だ。 
(略) 
薄紅に彩られた夢幻的な画面に、うなじの毛が逆立つような寒気も覚えた。

河野珠枝は不思議な画家だった。27歳で凄惨な死を遂げるまでに残した作品は、伝統的な花鳥風月を写実しただけで「凡庸」と形容された。その中にあって「朱鷺飛来図」だけが異質だった。 

新刊のカバー絵を依頼してきた美鈴慶一郎もまた「朱鷺飛来図」に魅入られたひとりだった。葉子の家に電話をかけてきて言った。 

「実は、僕、あの絵をみたとたん、すごい女流画家がいる、と思ったんだ」
「河野珠枝って、だいたい死に方が凄まじかったでしょ。雪深い庭の石に何度も頭を叩きつけて、池の畔の真っ白な雪の中に、血が飛び散って……」

美鈴に対する葉子の印象は、その作風どおり軽佻浮薄にしか思えなかった。河野珠枝についても、最近公開された映画を下敷きにした説明だった。 

それでも強引に「あの絵の怖さをわかってくれた」葉子と会って話がしたいと粘られ、葉子は美鈴と会う約束をかわした。 

映画監督の謎の自死

対面した美鈴は30歳手前の若さなのに著書の写真より少し太っていて、頭もやや薄い。しかも髭づら。喋りかたも軽く、まったくタイプではない男だった。 

「珠枝の映画は見ましたよね? 『TAMAE その愛と性』というあれ」
「見た見た、主演の斉藤英里が脱ぐっていうから、さっそく見にいった」
そんなことだろうと思った、と葉子が心の中で舌打ちしていると、美鈴は続けて言った。
「あれの女監督死んじゃったよね」
(略)
「そのときビジネスノートに残した走り書きがすごいんだ。『私は間違えた。珠枝は恐ろしい絵描きです』っていうやつ」

美鈴は、珠枝の作風で「朱鷺飛来図」だけが異質なことにこだわった。 

「僕、思うんだけどさ、映画の中では、朱鷺飛来図はきれいな幻想絵画として扱われていたよね。でも、あるところから金田史子監督はあの絵の本当の怖さに気づいたんじゃないか、という気がするんだ。というのは、監督は映画を撮り終えた後で、あちこち行っているんだけど、それが珠枝が新潟に戻る前、歩いた所を辿ってるらしい」 

こうして美鈴に引き摺られるかたちで、葉子は「朱鷺飛来図」の謎を解くべく、美鈴と行動を共にするようになる。 

地獄絵図に気づく二人

葉子と美鈴は、珠枝が「朱鷺飛来図」を複数描いていることを知り、新潟の球枝の生家に一枚だけ残っていた実物をようやく見ることができた。 

葉子が克明に模写しているかたわらで、美鈴の顔が突然歪んだ。 

「どうしたの?」
「あの、さ、谷口さん、見たんだろ……これ」
(略)
「この絵を模写しているのに、本当にあれが、見えないのかい?」
「あれって、何よ」
「そうか」
美鈴は独り言のように言った。
「凝視していると、気づかないんだ。わざと焦点を合わせないようにするんだ。全体をなんとなく見るんだ」
葉子は、目を細める。ピンクの絵はそのままだ。
「そうじゃない。なんとなく見るんだ。牡丹の花の所だ」
(略)
それは突然起こった。ゲシュタルト心理学の実験で行われる図と地の逆転のように、今まで花を形成していた細密な線は変容し、そこに地獄絵図が描き出された。

絵から浮かび上がってきたのは、無数の小さな人体だった。あるものを仰向けに倒れ、腹から内臓を露出させ、あるものは両目をつぶされ……。朱鷺のくちばしについばまれていた。 

葉子は叫び声を上げた。河野珠枝の「朱鷺飛来図」は美しいが怖い。その理由はこれだったのだ。絵の持つ内なる迫力なんてものではなかった。人の視覚はこの地獄絵をとらえていたのだ。 

異形の恐怖世界で解かれる謎

大きな謎のひとつがこうやって解き明かされますが、まだまだ謎は残ったままです。 

河野珠枝はいつ、画家にとって命とも言える眼を傷付け、その3か月後になぜ、頭を石に打ちつけて絶命したのか。 

珠枝の足跡をたどった映画監督は、何に気づいて「私は間違えた」という走り書きを残し、自殺したのか。 

これらの謎が明かされるのが、葉子と美鈴が映画監督と同じように珠枝の足跡をたどって奥多摩の山中に入り、あらすじにある「時空を超えた異形の恐怖世界」に迷い込んでからです。 

その「異形の恐怖世界」で葉子と美鈴が体験したことは、かつて河野珠枝が体験し、映画監督もまた体験したことです。そしてその体験は、珠枝も映画監督も自死を選ぶほどの恐怖であり、小説を通じて”追体験”する読者にとっても恐怖であり、その意味で「神鳥(イビス)」が恐怖小説であるのは間違いありません。 

にもかかわらず、小説の前半から巧妙に張り巡らされた伏線が一気に回収されていく快感は、まるで本格ミステリーを読むような感じです。

そして、意外(?)なことに、異界で一緒に助け合って過ごす過程で芽生えた、主人公たちのぎこちない恋愛の物語でもあります(さすがに恋愛小説とは思いませんが) 

物語の最終盤で、主人公の葉子はこう思います。 

彼女達は負けたのだ。
彼女たちは、恐怖に心をむしばまれていった。
恐怖とそれと孤独だ。

しかし自分は違う。
一緒にすごした者がいる。

圧倒的な恐怖にもかかわらず、ラストはほの明るい余韻を感じさせてくれます。ぜひ手にとってみてください。 

(しみずのぼる) 

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