1984年、まだインターネットが一般的ではなかった時代に、一人の天才が「未来の恐怖」を予言しました。ジョン・ヴァーリィのヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作「PRESS ENTER■」。隣人の奇妙な自殺から始まる物語は、次第にコンピューター画面の向こう側に潜む「何か」へと繋がっていきます。SFでもホラーでもない、あえてジャンルを特定できない不気味な静寂——。デジタルの闇に飲み込まれていく人間たちの孤独と絶望を、現代の視点から再構築します。(2023.8.1)
【追記】生成AIとの関連で本文の加筆修正を行いました(2026.3.14)
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目次
SFの賞を総ナメにした小説|しかし、「これはSFではなくホラーだ…」
アメリカのSF作家ジョン・ヴァーリィの「PRESS ENTER■」が雑誌に発表されたのは1984年ですから、かれこれ40年前。コンピューターの世界はまだMS-DOSしかなく、「コマンドを入れなければただの箱」と揶揄されたーーそんな時代に書かれた小説です。
最初に打ち明けておきますと、わたしが「PRESS ENTER■」をはじめて読んだ時の感想は、

これはSFというより、ホラー小説だな…
というものでした。
この中編を収めた『ブルー・シャンペン』(ハヤカワ文庫SF)で読んだのですが、手元の文庫本は1994年発行。わたしがはじめてパソコンを買ったのもその頃で、OSはWindows95が出る前(Windows3.1)で、まだまだMS-DOSの知識が必要とあって、コマンドを入れてエンターキーを押しては失敗(無反応)を繰り返す日々でした。

とはいえ、「PRESS ENTER■」は1985年度のヒューゴー賞(中長編小説部門)とネビュラ賞(中長篇小説部門)、ローカス賞(ノヴェラ部門)を受賞し、1987年には日本の星雲賞(海外短編部門)も受賞。SFの賞を総ナメにしています。
ちなみに世界的にもっとも著名なのが最初の二つで、ヒューゴー賞はファン投票によって選ばれ、ネビュラ賞はアメリカSFファンタジー作家協会に所属の作家、編集者、批評家などが選びます。ヒューゴー/ネビュラ両賞を同時受賞した作品は「ダブル・クラウン」と呼ばれているそうです。
そんなダブル・クラウンの「PRESS ENTER■」の舞台は、現代アメリカ西海岸のアパートメントの一室です。
隣人の死から始まる謎:点滅するカーソル、モニター上の不気味な文字列
主人公のヴィクターは、隣室に住んでいるクルージという男がコンピューターのキーボードに顔をくっつけて,側頭部を吹き飛ばされて死んでいるのを発見します。
刑事も駆けつけて捜査しますが、どうやらコンピューターを駆使してアパートの住人全員のプライバシーを詮索していたことがわかるぐらいだけ。遺書らしきものは、コンピューターを操作してようやく出てきた、表題が「さよなら現実世界」というプリント群。そのコンピューターの空色の画面には黒い文字がーー。
TO RUN
PRESS ENTER■
(実行するには、エンター・キイを押してください)末尾にある黒い四角はついたり消えたりしていた。
そう、文中やタイトルの末尾にある「■」は、当時のコンピューターのカーソル(点滅する矩形)を意味しています。
なにかが入力を誘っている…ついたり消えたりしながら……という不気味な物語の幕開けです。
ヴィクターとリサの孤独:傷ついた魂が寄り添う先に待つもの
刑事から依頼されてリサというベトナム系の若い女性が登場し、部屋に残された一台のコンピューターと格闘し始めます。
カリフォルニア工科大の「大天才」ということで大学から派遣された彼女は、死んだ男が実はハッカーで、近所のスキャンダル探しどころか、あらゆる国家機関の機密情報まで探り、好きなようにデータを書き替えたり抹消したりしていたことを探り当てます。
このクルージの死という謎と、主人公ヴィクターとリサの間に急速に芽生える恋愛が絡まりあいながら、物語は進行します。
その過程で、ヴィクターにはかつて北朝鮮で捕虜になって洗脳教育を施されたという暗い過去があり、リサにもまた南ベトナムの崩壊後逃れたカンボジアでポル・ポト派の大量虐殺を生き延びた過去があることが描かれます。
「CIAは初歩だわ…」|世の中には知らないほうがいいこともある
以下、『ブルー・シャンぺン』所収の風見潤氏訳から引用します。リサがいつものようにコンピューターと格闘しながら、でも顔色がよくないことに主人公が気づく場面からです。
彼女は大きなプラスチックのゴミ箱とソフトボールほどもある磁石を手にしていた。わたしは、彼女が磁石のそばでテープを振りまわし、それからゴミ箱に放りこむのを見つめた。
(略)
「すべてを消そうというじゃないんだろうね?」
「ええ、わたしは記録を消しているの。それと…..あるものをね」
「それが何だか教えてくれるかね?」
「この世には、知らないほうがいいこともあるのよ」彼女は陰気な声で言った。
夕食を食べながら話をしようとなんとか説得したのだが、彼女はほとんどしゃべらなかった。ただ食べ、首を振るばかりだった。だが、ようやく折れて、
「まったく恐ろしいことよ」と言った。「この数日、ある微妙な場所を探っていたの。クルージは自由気儘に訪れていたところだけど、わたしは心の底から震えあがってしまったわ。薄汚い場所よ。わたしが見つけたいと思っていたものがある場所」
彼女は身震いした。それから先はしゃべりたくない様子だった。
しかし、ヴィクターは先を促します。
「軍のコンピューターのことかね? CIAとか」
「CIAは初歩だわ。いちばん簡単だった。わたしは北米防空宇宙防衛司令部をのぞきこみーー次の戦争を用意している連中がいたわ。クルージがそこに簡単に入りこめたことがわかって、わたしは震えあがったわ。彼は第三次世界大戦を始める道を作っていたのよーーただの練習問題として。わたしたちが消したものの中にそれもあったわ。この二日、わたしは大物のはしっこを齧っていたの。国防情報局とか国家安全…..なんとかってやつとかね。DIAとNSAっていうやつ。どっちもCIAより大きいわ。わたしがそこにいることに何かが気づいた。番犬プログラムが。わたしはそれに気づくとすぐに後退したわ。この五時間というもの、そいつが追ってこないことを確認していたの。やっと確信がもてたので、すべてを破壊したってわけ」
「クルージを殺したやつらだと思う?」
「最重要容疑者ね」
「そんな部署はない」:国防総省の情報機関に対するジョークだが…
ここで出てくる国家安全保障局(NSA=National Security Agency)は国防総省の情報機関で、海外情報通信の収集分析にあたっていると言われています。長らく存在自体が秘匿されてきたことから「No Such Agency(そんな部署はない)」の略だというジョークまであるそうです。
情報が消えていくのを見るのは、ほとんど楽しかった。わたしのなかには昔ながらの反発があったが、”世の中には知らないほうがいいものも存在する”という言葉が容易に信じられた。
ほとんど終わったとき、モニター・スクリーンが動作不良をおこした。二、三度ブーン、パチパチという音をだした。そこでリサはしばらくスクリーンから離れた。やがてスクリーンが瞬きはじめた。わたしはしばらくスクリーンを見つめていた。スクリーンのなかでは一つの映像が形をととのえつつあるように見えた。立体的な何かが。それがはっきりと摑めそうになったとき、彼女はわたしに近づき、両手でわたしの眼を覆った。
「ヴィクター、見ないほうがいいわ」
このあと、とても衝撃的かつ悲劇的な場面になるのですが、さすがにこのネタバレはできません。ここからの十数ページはご自分の目で確認してください。
「PRESS ENTER■」の衝撃:ジャンルを超越した、静かなる恐怖の正体
さて、その衝撃的場面のあと、主人公は最初に登場した刑事オズボーンとともに、もういちどクルージの部屋を訪ねます。
わたしたちは居間に戻った。一台のコンピューターのスイッチが入っていた。スクリーンに短いメッセージが出ている。
IF YOU WISH TO KNOW MORE
PRESS ENTER■
(もっと知りたかったら、エンター・キイを押してください)「やめろ」
わたしはオズボーンに言った。だが、彼は押した。彼はまじめくさった顔で瞬きをした。文字が消えて、
引用はここまでです。エンター・キイを押した後に出てくる英文(マルカッコで日本語文)は、コンピューターの画面上の文字列であるわけですが、これほど恐怖の感情を搔き立てられる文字列は見たことがありません……。
『ブルー・シャンペン』はすでに品切れですが、「PRESS ENTER■」は「逆行の夏──ジョン・ヴァーリイ傑作選 」(ハヤカワ文庫SF)で読むことができます。

スノーデンの告発から13年、もはやホラーですらない現実世界
わたしは「PRESS ENTER■」を最初に読んだ時の感想を、「これはSFではなくホラーだ」と書きました。
でも、とても悲しいことに、「PRESS ENTER■」が描いた恐怖は、もはやホラーですらなくなっている現実があります。
以下、『スノーデン独白 消せない記録』(河出書房新社)から引用します。
報告の完全な機密分類はTOPSECRET//STLE//HCS//COMINT//ORCON//NOFORNだ。これを翻訳すると、これを読んでいいのは世界で本当に数十人しかいない、ということだ。 (略)NSAの最も極秘の監視プログラムに関する完全な記述と、アメリカ法を転覆してアメリカ合衆国憲法をひっくり返すような、NSAの政令や司法省方針などもあった。
(略)
STELLARWINDは、機密報告書の一番深い秘密だった。これは実は、NSAの最も深い秘密でもあり、報告書の取り扱い注意の指示は、まさにこの秘密を守るためのものだったのだ。プログラムが存在すること自体、NSAの任務が一変し、技術を使ってアメリカを守ることから、市民の個人的なインターネット通信を潜在的な信号情報だと定義することで、技術を使ってアメリカを統制することにかわったのだというしるしだった。

NSAやCIAの契約職員だったエドワード・スノーデンが、アメリカ政府による世界的な個人情報監視プログラムの存在を暴露したのは2013年のことでした。
しかし、その告発からすでに13年がたっています。
コンピューターの世界はさらに進化を遂げ、生成AIが日常生活にまで入り込むようになりました。コンピューター、インターネット、モバイル、SNS…それらの登場をも凌ぐ生成AIの登場で、わたしたちは革命的変化のただ中にいます。
そして今、生成AI「Claude」(クロード)の開発企業で、独自の倫理基準(①敵を攻撃する自律兵器②米国民の監視にClaudeを使わせない)を掲げるアンソロピック社とアメリカ政府が激しく対立して、大きなニュースになっています。
スノーデンが告発した監視社会は、生成AIの登場によって、すでに完成間近の領域に達しつつあるのかもしれません。
IF YOU WISH TO KNOW MORE
PRESS ENTER■
その先を知ってしまったら何があるのか、わたしたちの社会はどうなるのか……
もはやホラーですらなくなった現実世界に慄然とせずにはおれません。
(しみずのぼる)
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