きょう紹介するのはモートン・ルー「ザ・ウェーブ」(新樹社刊)です。ナチスドイツを取り上げた歴史の教師が思い立って始めた”実験”が高校全体を巻き込み、生徒たちが全体主義をわずか数日で作り出してしまう……。同書は小説仕立てですが、ベースになっているのは1967年にアメリカの高校で実際に起きた出来事です(2004.6.2)
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「ザ・ウェーブ」を二十数年ぶりに再読したきっかけは、Netflixオリジナルドラマで話題の「三体」の原作を読み直していたら、同書の中で触れていたことです。 劉慈欣氏の「三体III 死神永生」(上)で、語り手は人道上の罪で裁かれる宇宙艦隊〈青銅時代〉の司令官です。
裁判長、あなたが〈青銅時代〉に乗って太陽系の外へ向かい、数万天文単位の彼方、あるいはさらに遠くへ航行したとしても、きっと理解できないでしょう。なぜならあなたは、地球に戻ってこられるとわかっていますから。あなたの魂はまだ地球上にあり、そこから一歩たりとも離れていません。宇宙船の後方がとつぜんあとかたもなく消え失せ、太陽も地球も消滅して、なにもない空間へと変わってしまわないかぎり、わたしの話した変化を理解できるはずがない。
わたしはカリフォルニア州の生まれです。一九六七年、わたしの故郷で、ある事件が起きました。ロン・ジョーンズという高校教師が(ああ、しばらく話の腰を折らないでいただけますか、すみません)、全体主義とはなにか、ナチスとはどういうものかを生徒に深く理解させるため、クラスに疑似的な全体主義社会をつくることにしました。この計画はみごとに成功し、たった五日間で、クラスは小さなナチス・ドイツになりました。生徒たちはみずから進んで自我と自由を捨てて集団とひとつになり、宗教的なまでの情熱で集団の目標を追い求めたんです。無害なゲームとしてはじまったこの教育的な実験は、ほとんど制御不能な段階まで進みました。後日、この事件は『ザ・ウェイブ』というタイトルでドイツで映画化され、小説も出版されました。〈青銅時代〉でも、みずから宇宙を永遠にさまよう運命だとわかった瞬間から、それを同じような全体主義の集団ができあがったんです。
YA本の1冊として読む
わたしがはじめて「ザ・ウェーブ」を読んだのは、「YA(ヤングアダルト)読書案内」(著者は赤木かん子、金原瑞人、佐藤凉子、半田雄二氏。1993年、晶文社刊)で紹介されていたことがきっかけでした。
もう子どもの本ではつまらない。でも自分にぴったりの本とどうやったら出会えるか。10代のための初めての本格的ブックガイド。学校、友だち、家族、冒険、恋、SEX、コンピュータ、死…など40のテーマで600冊紹介する。
確かに「ザ・ウェーブ」はヤングアダルト向けの文章ですし、10代にぜひ読ませたい本だとわたしも思います。でも、同書はやはり実話がベースになっていることが恐怖をいっそう駆り立てます。10代に限らず、もっと多くの人に読まれるべき本だと思います。長らく絶版・品切れなのはとても残念です。
「規律をとおして力を」
最初に、小説の内容を紹介しましょう。
高校で歴史の授業を受け持つベン・ロスは、生徒たちにナチが強制収容所で行った残虐行為を描いたドキュメンタリー映画を見せた。見終えた生徒たちは、ナチ以外のドイツ人はなぜ阻止しなかったのか、強制収容所の存在を知らなかったとは信じられない…と疑問を口にした。その夜、ベン・ロスは考えた。
どうして、とベンは思った。生徒たちの質問にちゃんとした答えを出してやれなかったのか? ナチに統治されたはずのドイツ人の大多数の行為は、ほんとに説明不可能なのか?
(略)
歴史家には、言葉では言いあらわせないとされているようなことなのか? 現場にいなければわからないことなのか? それとも、よく似た状態をもういちどつくりだせばわかることなのか?
翌日、ベン・ロスは授業の冒頭で黒板に「規律をとおして力を」と大書した。
「規律はまず姿勢からはじまる。アミー、ちょっとここへ来て」
(略)
「背中のくびれた腰のところに手をぴったりあてて、背骨をまっすぐのばすんだ。そうすれば、もっと楽に呼吸ができるだろ?」
「これ、歴史の授業ですか?」と茶化す生徒にも同じ姿勢をやらせた。クラスでいじめの対象になっているロバートにもやらせた。
「みんな、よく見て」とベンはみんなに向かって言った。「ロバートの足はぴしっとそろっているぞ。両手首をしっかりつけて、ひざは九〇度まがっている。背中はまっすぐだ。あごをひき、頭をあげている。大変結構だよ、ロバート」
ベン・ロスは次に全員を起立させ、教室内を歩かせ、指示したらすぐに自席に戻って着席の姿勢を取ることをやらせた。
最初は生徒同士でぶつかったり、動作が緩慢だったりめちゃめちゃだった生徒たちも、繰り返すうちにコツを覚えてきた。次は廊下にいったん出て自席に戻ることにして、時間をストップウォッチで測った。
ディビッドがいいことを思いついた。「いいかい」ディビッドはホールでロス先生の合図を待っている級友たちに言った。「教室のなかの席の遠い順に一列に並ぼうぜ。そうすりゃ、おたがいぶつからなくてもすむ」
(略)
ベンが指を鳴らすと、生徒の列は迅速にまた静粛に教室にはいってきた。最後の生徒が席に着くと、ベンはストップウォッチをおした。ベンはほほえんでいた。「十六秒」
クラス中が拍手した。
「よしよし。静かに」と先生は言って、教壇にもどった。おどろいたことに、生徒たちはたちまち静かになった。とつぜん教室が静まりかえったのが不気味なくらいだった。ふだん教室がそんなに静まりかえるのは、だれもいないときだ、とベンは思った。
ベン・ロスは生徒たちに、質問したり答えたりするときは、まず「ロス先生」と言うことを課した。歴史の質問に対し、最初は答え方に戸惑っていた生徒たちもすぐに慣れてきた。
「ピーター、武器貸与法を提案したのはだれか?」
「ロス先生、ルーズベルトです」
「よろしい。エリック、死の収容所で死んだのはだれか?」
「ロス先生、ユダヤ人です」
「ほかには? ブラッド」
「ロス先生、ジプシーや同性愛者、精神障碍者です」
「よろしい、アミー、その人たちはなぜ殺されたのかね?」
「ロス先生、その人たちが優秀な民族に属していなかったからです」
「そのとおり。デイビッド、死の収容所をつくったのはだれかね?」
「ロス先生、ナチス親衛隊です」
授業が終わって生徒たちは興奮気味に振り返った。
「今までとはぜんぜん違うんだよな。みんながいっしょになってやれば、ぼくたちはたんなる一学級以上のものになれるということじゃないのかい。ぼくたちは一つの構成単位なんだよ。ロス先生が力について言ったことをおぼえているかい? 先生のいったことは正しいとぼくは思うよ。そうだろ?」
「共同体をとおして力を」
1日目の授業に気をよくしたベン・ロスは翌日、黒板に書いた「規律をとおして力を」の下に「共同体をとおして力を」と書き加えた。2つのモットーを全員で連呼した後、ベン・ロスはこう続けた。
「ぼくたちには、新しい共同体の旗印が必要だ」とロス先生は生徒たちに言った。ロスは黒板に向かい、ちょっと考えてから円をかき、そのなかに波のかたちを描いた。「これをみんなの旗印にしよう。波は変化をあらわしている。それには運動、方向、勢いという意味がふくまれている。これより、ぼくたちの共同体、ぼくたちの運動は、ザ・ウェーブとする」
もうこのあたりから相当不気味ですよね。ベン・ロスはさらに続けます。
(ロスは)直立不動の姿勢で立ったままかれの言ったことをそのまま全部受け入れている生徒たちをみた。「それから、これがぼくたちの敬礼だ」とロス先生は言い、右手を波のかたちにまるめ、それから、その手で自分の左肩をたたきその肩を上からまっすぐにつかんだ。「全員で、敬礼」とロス先生は命令した。
「行動をとおして力を」
授業の3日目、ベン・ロスは生徒たち全員に「運動員証」を配った。
「さて、全員が運動員証もったね」とロス先生はもったいぶって言った。「裏を返すと、赤いXというしるしがついているカードがあるね。赤いXがついているカードをもっている人は、監視役になり、規則に違反しているザ・ウェーブの運動員がいたら、直接渡私に通報すること」
そして、最初の2つのモットーに「行動をとおして力を」と書き加えた。
「つぎに行動について勉強しよう。つきつめていうと、規律と共同体は、行動がともなわなければ無意味だ。規律はきみたちに行動をおこす権利をあたえる。目標をもった規律ある集団は、その目標を達成するために行動をおこすことが許されるんだ。目標を達成するには、行動をおこさなければならない。みなさん、きみたちはザ・ウェーブを信じるかね?」
一瞬ためらったあと、生徒たちはいっせいに立ちあがり、声をそろえて答えた。「ロス先生、信じます!」
ロス先生はうなずいた。「では、きみたちは行動はおこさなければならない! 信念にもとづいて行動することをおそれてはならない。ザ・ウェーブとして、きみたちは、円滑な機械のようにいっしょになって行動しなければならないんだ。勤勉とおたがい同士の献身によって、きみたちはより早く覚え、より多くを達成するだろう。しかし、たがいに支えあい、ともに動き、規則にしたがったときにはじめて、きみたちはザ・ウェーブの成功をたしかなものにすることができるのだ」
”実験”に共感する生徒たち
小説から引用するかたちでベン・ロスの”実験”を紹介するのは、このあたりでやめておきましょう。
徐々に異様さが漂う描写は優れていますが、本書がおもしろいのは「ザ・ウェーブ」の実験が始まった当初、フットボールチームの監督を務める教師も、校長も、生徒に与えるプラスの効果も口にしていることです。ベン・ロス自身、実験3日目あたりまでは、学校の規律を呼び戻した教師として「タイム」誌に取り上げられることまで夢想しています。
もちろん、教室が急速に共同体意識で一体化することに違和感を抱く生徒も当然います。「これは洗脳ではないのか」と、主人公のローリーは「ザ・ウェーブ」に懐疑的な行動をとるようになり、学校新聞で批判記事を掲載しようとします。
でも、それ以上に克明に描写されるのが、「ザ・ウェーブ」に共感する生徒たちなのです。
とつぜん、ジョージ・スナイダーという生徒が手をあげた。
「ジョージ、なにかね?」
ジョージは、すばやく立ちあがって、机のわきに気をつけをした。「ロス先生、ぼくははじめて、なにか、とてもすごいものに参加しているような気がしています」
教室のあちこちで、おどろいた生徒たちがジョージを見つめていた。ジョージは、椅子にすわりこもうとした。すると、とつぜんロバートが立ちあがった。
「ロス先生」とロバートは誇らしげに言った。「ぼくには、ジョージがどういう気持ちかがよくわかります。ぼくは生まれかわったような気持ちがしています」
ロバートがすわると、すぐ、アミーが立った。「ジョージの言うとおりです、ロス先生。わたしもおなじ気持ちです」
優秀な兄を持つコンプレックスからやる気を失い、最初の強制収容所のドキュメンタリー映画の鑑賞でも机に突っ伏して寝ていたロバート。成績も最下位で、いじめの対象にもなっていたロバート。この発言でクラスのみんなに受け入れられていく描写も出てきます。
純粋な創作ならディストピアを描いた小説で済ませられますが、これが実話をベースにしていると思うと話が違ってきます。
1967年のサードウェイブ実験
実験の4日目以降は、ロン・ジョーンズが実際に行った「サードウェイヴ実験」に関するウィキペディアの記述から紹介しましょう。
4日目 この時点で、この活動はジョーンズにはコントロールができなくなっていた。外部の活動では暴力事件や喧嘩が多発し、ジョーンズは罪の重さを感じ実験を止めなくてはと考えた。生徒たちは他の高校にまで活動が及ぶ程この活動にのめり込み、規律と忠誠心は際立っていた。ジョーンズは、この活動が社会運動の一部であると発言し、翌日「サードウェイブ」のリーダーを、金曜日の正午の集会で公に発表すると発表した。
5日目 ジョーンズは、最初はスクリーンに何も映像を映さなかったが、数分後に「君たちが信じたものの正体を見せよう」とのニュアンスの発言をおこない、生徒たちが理解不能だったはずのファシズムの象徴、ヒトラーとナチス党員の映像を映した。この結果、生徒たちは我に返り本当の姿に衝撃を受け、中には涙を流す者もいた。
ウィキペディア「サードウェイブ実験」より
小説「ザ・ウェーブ」も同じような展開をたどります。小説のほうは、泣きじゃくるロバートにベン・ロスが声をかけるところで終わります。
かわいそうなロバート、とベンは思った。こんどのことでまさにすべてを失った唯一の生徒だった。ベンは、からだをふるわせている生徒に近づいてゆくと、腕を肩にまわした。「なあ、ロバート」とベンはかれを元気づけようとして言った。「ネクタイをしめて上衣を着るととてもかっこいいよ。ふだんもっと着ればいいのに」
涙を流しながら、ロバートはやっと微笑した。「ありがとう、ロス先生」
この終わり方について、本書の解説を担当した加藤悌三氏はこう書いています。
作品は、ひとりのこったロバート・ビリングスの肩をだいてロスが語りかける場面で終わっている。それは、もともとロバートのことを気にかけていたロスのやさしさを示すとともに、自己反省のあとのロスのつぎのステップへの、作者の期待の表現にほかならない。
なお、「ザ・ウェーブ」は、劉慈欣氏の「三体III 死神永生」に出てくるように、ドイツで2008年に映画化されています。 『THE WAVE ウェイヴ』(原題:Die Welle)というタイトルです。いつかわたしも観たいと思っています。
(しみずのぼる)
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