ふたたびルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」(原題:Humankind: A Hopeful History 上下巻、文芸春秋刊)を取り上げます。心理学の授業で取り上げられる「傍観者効果」の具体的事例として知られる「キティの死」の驚くべき真相です(2026.1.14)
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小説に登場する「キティの死」
はじめにフリーダ・マクファデンのミステリー小説「ハウスメイド2: 死を招く秘密」(ハヤカワ・ミステリ文庫)に出てくる「キティの死」のくだりを紹介します。

ギャリック家のハウスメイドとして雇われたミリー。この家で働くには、守らなければならないルールがあると雇い主のダグラスから告げられる。何があってもゲストルームには入らないこと。そこでは病気の妻ウェンディが静養をしているという。ある日、ミリーは異様な量の血にまみれたガウンを見つけ……。閉ざされた部屋の中の秘密が明かされたとき、これまでにないほどの恐怖がミリーを襲う。

先日紹介した前作「ハウスメイド」(ハヤカワ・ミステリ文庫)の4年後、主人公のミリーはソーシャルワーカーの資格を取ろうと大学に通っています。
一九六四年、キティ・ジェノヴィーズという女性が殺害された。
キティは二十八歳、バーのマネージャーをしていた。深夜三時ごろ、彼女が住んでいるクイーンズのアパートからおよそ三十メートルの場所で刺され、レイプされた。助けを求めて叫んだが、何人もの近所の住人がその声を聞きながら、誰ひとり助けにいかなかった。犯人のウィンストン・モーズリーは一度その場を離れたが、十分後に戻ってきてさらに何度も刺し、五十ドルを奪った。キティは刺されたことが原因で亡くなった。
「キティ・ジェノヴィーズは三十八人の目があるなかで、レイプされ、殺された」キンドレッド教授が講義室にいる学生に向かって語る。「襲われているのを三十八人が目撃していたのに、誰ひとり助けにいかず、警察にも通報しなかった」
六十代で、いつも髪がぴんと立っている教授は、わたしたち学生がジェノヴィーズを見殺しにした三十八人の目撃者であるかのように、ひとりひとりに非難の視線をあびせる。「これが」と彼が言う。「傍観者効果だ。周囲にほかの人がいると、被害者を助けるという行動が抑制される社会心理学的現象だ」
まわりの学生たちはノートをとったり、パソコンに打ち込んだりしている。わたしはじっと教授を見つめる。
「いいかな」教授はつづける。「三十人以上の人間が、女性がレイプされ、殺されるのを許してしまった。ただ見ているだけで、何もしなかった。これは集団においては責任が分散されるという現象を如実に表している」
ここまで読んだとき、

おいおい、著者は「希望の歴史」を読んでないのか?
と思いましたが、これは早とちりでした。ミリーの恋人で弁護士のブロックが訂正しています。
「大学の心理学の授業で習った」
「そう。ひどい話よね」
「誇張されてるけどね」彼はわたしの手を取る。手の平のぬくもりが伝わってくる。「ニューヨーク・タイムズが大げさにかき立てたんだ。目撃者はもっと少なかったし、アパートの位置からいって、ほとんどの人は実際に何が起きているか見えなかった。恋人同士の喧嘩だと思ったらしい。それに警察に通報した人も複数いた。救急車が来たときには、近所の人が彼女を抱えていたって話だ」
「キティの死」の醜悪な真相
ミリーの恋人は「誇張」「大げさ」と表現していますが、「希望の歴史」が関係者の証言で明らかにする真相は、その表現では収まりきらないほど醜悪なものでした。
少なくとも二人の住人が、電話で警察に通報した。
しかし警官は来なかった。
最初の通報を聞いて、警察はそれを夫婦喧嘩だと思ったらしい。すでに警察を引退したマイケル・ホフマンは、現場への到着が遅れたのはそのためだと考えている。覚えておいてほしい。これは、夫から妻への暴力が軽視され、夫婦間のレイプが犯罪と見なされなかった時代の出来事なのだ。
だが、三八人の目撃者については、どうなのだろう。
この悪名高い数字は、歌や芝居から大ヒット映画やベストセラーまで、あらゆるものに登場するが、その起源は、この事件について刑事が尋問した人々のリストにさかのぼる。リストに記された名前の大半は、目撃者でさえなかった。せいぜい物音を聞いたくらいで、中には、気づかず、寝ていた人もいた。
ミリーの恋人が「救急車が来たときには、近所の人が彼女を抱えていたって話だ」と言及する「近所の人」ーーソフィア・ファーラーも出てきます。
なぜソフィアは忘れられたのか?
なぜ、どの新聞も、彼女のことに触れなかったのだろう。
真実を知るとかなり落胆させられる。ソフィアの息子によると「当時、母は、新聞社から来た女性に一部始終を話した」。しかし翌日の記事には、ソフィアは巻き込まれることを望まなかった、と書かれていた。ソフィアはその記事を読んで激怒し、「マスコミの人間とは二度と口をきかない」と誓った。
著者のルトガー・ブレグマンは、
マスコミは、「無関心の蔓延」と自らが吹聴する説に執着し続けたのだ。
と批判します。
「話が台無しになる」
そんなマスコミ関係者の中にも、当時の経過を調べて疑念を抱いた記者は(少数ですが)いました。
当時「傍観者の無関心」を疑ったジャーナリストが一人いた。ラジオ記者のダニー・ミーナンだ。彼は事実を調べて、ほとんどの目撃者は、キティのことを単なる酔っ払いだと思っていたことを突き止めた。ミーナンがニューヨーク・タイムズ紙の記者に、なぜこの情報を記事に載せなかったのかと尋ねたところ、「そんなことをしたら話が台無しになる」と記者は答えた。
数年後、別の記者が批判的な記事を書いたところ、ニューヨーク・タイムズ紙のエイブ・ローゼンタールが激怒して電話をかけてきた。「この話がアメリカの状況の象徴になっているのを知らないのか?」とローゼンタールは電話の向こうで叫んだ。「社会学の講座や書籍や論文のテーマになっていることを知らないのか?」
自身もジャーナリストであるルトガー・ブレグマンは、メディアの姿勢を手厳しく批判します。
報道された話に真実がほとんど残っていないことには衝撃を覚える。運命の夜、彼女を助けそこねたのは、ニューヨークの住人ではなく、警察だった。キティはたった一人で死んだのではなく、友人に抱かれて亡くなった。
(略)
この物語は、大学の心理学部の一年生だけでなく、報道記者を志望するすべての若者が読むべきだ。
映像から浮かぶ「傍観者効果」の実相
「ハウスメイド2」の主人公に心理学の教授が教える「傍観者効果」のことも出てきます。
ルトガー・ブレグマンはデンマークの心理学者マリー・リンデゴー(心理学の実験に疑義を抱き、街中の監視カメラの映像を集め、乱闘、レイプ、殺人未遂を含む1000件を超す映像をデータベース化、その分析をもとに論文を発表した)にインタビューした際のエピソードを明かしています。
彼女はノートパソコンの画面をわたしに向けた。「どうぞご覧ください。明日、わたしたちはこの論文を著名な心理学雑誌に提出します」
仮題は、「傍観者効果についてあなたが知っていると思うことのほぼすべてが間違っている」だった。
マリーは、画面を下にスクロールして表を指し示した。「ここにあるように、九〇パーセントのケースで、人は人を助けるのです」
「希望の歴史」は、多くの人に手に取ってもらいたい良書です。おすすめです。
(しみずのぼる)
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