少年少女向けのヤングアダルト小説の秀作『こうしてぼくはスパイになった』を紹介します。第二次世界大戦末期、連合軍のノルマンディ上陸作戦〈Dデイ〉前夜のロンドン。失踪した女性諜報員が残した1冊のノートをきっかけに、少年少女たちが暗号解読と二重スパイのあぶり出しに挑みます。実在の組織「特殊作戦執行部(SOE)」の史実やシャーロック・ホームズへの敬意を交えつつ、戦争の傷痕と子どもたちの絆を描いた本作の魅力を解説します。(2026.9.3)
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目次
タイトルに惹かれて手に取った本格YAミステリー
本屋さんの海外小説コーナーの棚で『こうしてぼくはスパイになった』(原題:How I Became a Spy : A Mystery of WWII London 東京創元社刊)というタイトルが目に入った時、これはどんな本だろう?ノンフィクションかな?と錯覚しました。
スパイ小説は結構好きで読みますから、CIAやMI6のような諜報機関の元スパイの自伝かな?と思いましたが、表紙の帯を見ると、
これは13歳のぼくの、戦争と謎解きと友情のはなしだ。
とあり、ジャンルから言うとヤングアダルト(YA)小説です。YA小説も大好きなので、帯の文句だけ見て購入しましたが、なかなかどうして!とっても楽しめるミステリー小説でした。
『こうしてぼくはスパイになった』(東京創元社刊)
戦時のロンドンで起きた事件と謎の暗号ノート
第二次世界大戦末期の1944年。ナチス・ドイツは再びロンドンの空襲を繰り返していた。主人公のバーティは、学校に通うかたわらで民間防衛隊の伝令係を務める、赤毛が特徴の13歳の少年。
空襲警報が鳴って、飼い犬で救助犬の訓練を受けているリトル・ルーを自転車のカゴに入れて指揮所に向かう途中、アメリカ人の少女とぶつかってしまった。少女は急いで立ち去ったが、リトル・ルーが小さなノートを見つけた。
その夜、空襲で倒壊した家の代わりに寝泊まりする警察官舎に向かう途中、リトル・ルーが路地の奥に何かを見つけ、バーティーを誘導した。それは意識を失っている若い女性だった。
訓練で習ったことを思いだしてみる。被害者の体温を保つこと。被害者が不安にならないよう、声をかけて安心させること。なかでもだいじなのが、至急、救援を呼ぶこと。
ぼくはジャンパーを抜いで女性の上半身にかけ、ささやきかけた。「いま、応援の人たちを連れてきますね」
指揮所に戻って隊長に説明し、女性が倒れていた場所に戻ると、バーティーのジャンパーごと、女性の姿は消えていた。
民間防衛隊の人たちに「確かにいました」と言っても信じて貰えず、悶々とした気持ちで官舎に戻り、リトル・ルーが見つけたノートを開くと、そこには驚くべき内容が書いてあった。
フランス上陸は間近。それが勝利の鍵になる。勝利への扉を開くため、わたしはこれからあらゆることを学び、危険な任務につくべく訓練を重ねる。
なんとノートは、ナチス・ドイツの占領下にあるフランスに潜入した女性、おそらく姿を消した女性が特殊作戦執行部ーー頭文字をとってSOEと呼ばれるーーで受けた講義や訓練を備忘録としてまとめたもので、フランス潜入以降は暗号で書かれていた。
ベイカー街での出会いと3人で挑む暗号解読
SOEの本部はベイカー街にあると書いてあったことから、バーティーはベイカー街に出かけ、行方がわからなくなった女性を捜していると、後ろから腕をつかまれた。
「あれはどこ?」耳に甲高い声が飛びこんでくる。「あなたが持っているのはわかってる」
空襲の日にぶつかった少女だった。探りを入れるとノートの中身までは知らない。
スパイ学校に行っていたのはこの子じゃない。ノートもこの子のものじゃない。でも彼女はノートの持ち主を知っているという気がしてならない。その点をぼくははっきりさせたい。
エレノアと名乗った12歳の少女は、そのノートはフランス語の家庭教師だったヴァイオレット・ロミという23歳の女性から託されたものだと打ち明けた。
「たいせつなものだからわたしにあずけたいって言ってた」
「それからヴァイオレットは小さい声で言ったの。”木曜日の夕方、わたしはそのときのために罠を仕掛けた。お願いだから、それを保管してて……万が一のために、遅くとも金曜日までにわたしから連絡がなかったら、そのときは……。」
「そのときは……」のところで空襲警報が鳴って、その直後にバーティーとぶつかった…という経緯だった。
フランスに潜入しているはずのヴァイオレットはなぜ、ロンドンに舞い戻ったのか。「仕掛けた罠」とは何を意味するのか。その謎を解く鍵はノートの後半部にある暗号を解かないとわからない。
バーティーは暗号の解読をやろうとエレノアに持ち掛け、途中からバーティーのクラスメイトで、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人の少年ディヴィッドにも声を掛けて、3人で暗号の謎に挑むことにした。
シーザー暗号の解読と明らかになる衝撃の事実
図書館で落ち合ったディヴィッドは、シャーロック・ホームズのマニアだった。暗号を見るなり、「これはどう見てもサイファー暗号のようだね。つくったのはもちろんヴァイオレットで、解読するのはかなり難しそうだ」と言った。
ディヴィッドは図書館から1943年のカレンダーを借りてきた。「パラシュートで降下する夜は満月だったってヴァイオレットは書いてたよね。訓練をはじめたのが五月のなかばだとすると、六月いっぱいと七月中旬までは訓練の期間にあたる。えーっと、カレンダーを見ると、そのあとの満月は七月十七日だったらしい」
暗号は途中途中で一本線を引いて新しいページに書き始めていた。「つまりヴァイオレットは七月から十二月まで、月に一度、日記をつけていたと考えられるんだね」
ディヴィッドの推理から、3人は最初のページの暗号の鍵となるのが「7月」と予想して、試行錯誤した結果、エレノアがついに解いた。
「これはシーザー暗号。でもヴァイオレットが暗号を解く”鍵”として使ったのは、七月は七月だけど、英語の単語じゃなかった。フランス語の”juillet”を使ったの。アルファベット七文字の。そしてそこに7を足した。七番目の月だから」
暗号のアルファベットを7+7の14字ずらす(w→i、q→c、o→a…)と、意味不明のアルファベットの羅列が文章になった。
I can’t believe I have been here for nearly two weeks now.
The moon was so bright the night I landed.
(ここにきてからほぼ二週間がたつなんて信じられない。着地した夜の月はとてもまぶしかった)
二重スパイの存在と忍び寄る重大な危機
こうしてバーティたちは暗号の解読に成功したが、内容は予想を超えて深刻なことが書かれていた。
ヴァイオレットがフランスのレジスタンス組織を支援する”プラタナス”という組織に属したこと。別の組織”マツ”の無線通信士がドイツ軍に逮捕されたこと。にもかかわらず、”マツ”からロンドンに連絡が続き、ロンドンからパラシュートで潜入した諜報員が捕まったこと。SOEの上層部に裏切り者がいて、安全確認のためのコードネームがない無線をわざと無視している可能性があること……。
ヴァイオレットは暗号で次のように書いていた。
この状況がつづいたら、何人もの罪もない諜報員が死ぬはめになるだろう。フランス上陸が間近に迫るいま、裏切り者、もしくは二重スパイの存在によって、作戦の日程と上陸地がナチスに知られてしまう可能性だってある。
ヴァイオレットは単身ロンドンに戻ることを決意するところまで、シーザー暗号で書いていたが、最後のページは別の暗号を用いていた。
裏切り者をあぶりだすために木曜日に罠を仕掛けたと言っていたヴァイオレット。もう残り日数が少ないなか、バーティーたちは最後のページの暗号を無事に解読できるのかーー。
戦争が残す深い傷痕と現代に通じる平和への問い
暗号解読のくだりを中心に紹介しましたが、主人公たちの心の傷も随所に織り交ぜられます。
バーティは警察官舎に父親と二人暮らしですが、それは自宅が空襲で倒壊し、兄が重傷を負い、母が看病のため兄と一緒にロンドンから田舎に疎開してしまったからです。
しかも、バーティーは兄が重傷を負ったのは自分のせいだと思いつめ、民間防衛隊の仕事でリトル・ルーの先導で瓦礫の中に入るたびに息ができなくなる…という深い心の傷を負っています。
両親をドイツに置いてロンドンに逃れたディヴィッドの言葉も重く響きます。
「ロンドンに到着したのは一九三九年の一月、ぼくは八歳だった」ディヴィッドが低い声で言う。「宣戦布告の八カ月前だった。でも戦争はすでにはじまっていた。少なくともぼくらやほかのユダヤ人の家族にとっては」
エレノアが第一次世界大戦のことに触れて、次のようにつぶやきます。
「ほんとうに人間は戦争をやめるつもりがあるのかなって思うときがある。祖母がまえの大戦の話をしてくれた。ものすごくたくさんの人が死んで、あの戦争を”すべての戦争を終わらせるための戦争”と呼んだ人もいたんだって。それからいくらもたたないよね? なのに、また……」
ウクライナやイランの現状を思うと、エレノアの疑問は現代に通じるものがあります。
こんなくだりも出てきます。
「独裁国家との戦争のなかで生きているのだから、われわれには特別な責任がある、って先生は言っている」
「責任って、どんな?」エレノアが訊いてくる。
「過去から学ぶことで現在を理解し、未来を変えていく」ディヴィッドが答える。
わたしたちはきちんと「過去から学ぶこと」ができているのだろうかーーそんな自問自答を引き出させる小説です。
史実に基づく重厚な設定と実在した女性諜報員
著者はデボラ・ホプキンソンというアメリカ人の女性で、著者紹介をみると、絵本から史実に基づいた小説、ノンフィクションまで手掛け、特に児童文学は80以上の著作があるそうです。
「史実にもとづく小説やノンフィクション」というくだりは本書にもあてはまります。
イギリスの特殊作戦執行(SOE)が多くの一般人を訓練して対ドイツ諜報活動に従事させたことは史実に基づきます。訳者(服部京子氏)のあとがきには、こんな記述もあります。
(SOEに実際に所属したフランス人の)ヴァイオレット・サポーという名の女性で、ドイツ占領下のフランスに潜入してレジスタンスの活動を支援していたという。残念ながらサポーはフランスでドイツ軍に逮捕され、強制収容所に送られたのち、ドイツが敗戦する直前に処刑された。戦後サポーにはイギリス政府から勲章が贈られ、現在テムズ川のほとりに彼女の胸像が建てられている。
作中に溢れるシャーロック・ホームズへの愛と魅力
本書は各章の冒頭にシャーロック・ホームズの小説からの引用が多数挿入されています。その一節一節がとても含蓄があって、ホームズを読み直したくなる気持ちにさせられます。いくつか抜粋しましょう。
きみは見てはいるが、観察していない(「ボヘミアの醜聞」より)
全体的な印象にとらわれず、そう、細部に注目したまえ(「花嫁の正体」より)
世の中はあきらかなことであふれている。たまたま誰もが見すごしているだけで。(『バスカヴィル家の犬』より)
データがそろわないうちに理論を立てるのは大きなまちがいだ……人は、事実にあわせて理論を立てるかわりに、事実をねじまげて理論にあわせようとしはじめる。(「ボヘミアの醜聞」より)
SOE内の裏切り者が無事検挙された後、バーティとエレノア、ディヴィッド、それにバーティの兄ウィル、従妹のジェフリーでホームズ談義をする場面が最後に出てきます。
「「ボヘミアの醜聞」はまずまちがいなく、シャーロック・ホームズの短編のなかでいちばんの傑作だ」とウィル。
「そうかなあ」ディヴィッドが反論する。「まえに読んだ記事には、サー・アーサー・コナン・ドイル自身は「まだらの紐」がいちばん好きだって書いてあったよ」
「長編も忘れるなよ。最高傑作は『バスカヴィル家の犬』だ」とジェフリー。
エレノアにもお気に入りがあるらしい。最近になって、エレノアはシャーロック・ホームズの推理小説を年代順に読みはじめている。「バーティーのお気に入りは”あれ”しかないよね。「赤毛組合」」
「あはは、おもしろすぎてお腹がよじれちゃうよ。エレノア、頭にレモネードをぶっかけられなくて、ラッキーだと思いなよ」とぼく。
つらい記述もあるだけに、終わり方が爽やかなのも嬉しいですね。わたしもエレノアのようにホームズを年代順に読み直したくなりました。
(しみずのぼる)
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