カルト的人気を誇る映画の原作であり、オーストラリア文学の異色作『ピクニック・アット・ハンギングロック』。1900年の寄宿女学校で起きた生徒たちの失踪事件と、それをきっかけに崩壊していく学院の秩序を描いた本作の魅力を紹介します。(2026.7.22)
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目次
予備知識なしで没入した『ピクニック・アット・ハンギングロック』
オーストラリアの作家ジョーン・リンジーの『ピクニック・アット・ハンギングロック』は、実は映画の方が有名なのですが、わたしは映画のことは知らず、単純に創元推理文庫の美しい装丁と帯の紹介文に惹かれて手に取りました。
ジョーン・リンジー【ピクニック・アット・ハンギングロック】(創元推理文庫)
帯の紹介文は、山崎まどかさん(コラムニスト)によるもので、次のような文章です。
ピクニックの最中に消えてしまう少女たち。彼女たちの喪失をきっかけに、美しいものの全てが崩壊していく
この謎めいたストーリーだけを手掛かりに読んだのは幸せでした。とても不思議な小説で、存分に物語世界に没入できました。
1900年イギリス植民地時代のオーストラリアとアップルヤード学院
舞台はオーストラリアの奥地に立つ上流階級向け寄宿女学校、アップルヤード学院です。
時は1900年。オーストラリアは1901年に6つのイギリス植民地から構成されるオーストラリア連邦が成立したので、イギリス植民地時代の末期です。
アップルヤード学院の雰囲気は、一九〇〇年のオーストラリアの奥地にあってさえ、救いがたいほど時代錯誤だった。二階建ての校舎はやたらと金がかかっている。
ヴィクトリア女王の誕生日がくると、細い螺旋階段で上がる四角い塔の上に、かならずユニオンジャックが掲揚された。
自信にあふれた校長は、まさに保護者たちが、イギリス人の校長とはかくあるべし、と想像するような風貌をしていたのだ。
アップルヤード学院は、開校初日から成功していたといえる。初年度の終わりには、満足のいく収益があがっていた。この物語がはじまるまでの六年ほどは、こんなふうにして、すべてが順調だったのだ。
上流階級の子女が寄宿する学校ですから、生徒たちも多くが良家の子女です。
ミランダは、親がクイーンズランド北部で大農場を経営。アーマは、巨万の富を誇り世界中の社交界に出入りしているレオポルド家の息女。マリオンは、亡き父の莫大な財産を相続する身。そんな彼女たちがピクニックで向かったハンギングロックで行方不明になるーー。
ハンギングロックでの不気味で静かな少女たちの消失場面
行方不明になる場面を紹介しましょう。
ピクニックで昼食を終えると、学院に戻るまでまだ時間があることに気づいたマリオンが「そんなに余裕があるなら、ハンギングロックのふもとで少し測量をしたいわ」と言い出し、ロックを近くでみたいと思っていたミランダとアーマも同調。下級生のイーディスが「あたしもいっていい?」と同行を希望した。
こうして四人でシダやヤマボウシが鬱蒼と生い茂る雑木林をかきわけ、小川を石づたいに通って、ハンギングロックのふもとを登り、ほぼ完璧な円形の岩場に到着した。
イーディスをのぞく全員が、いつのまにか靴と靴下を脱いでいた。
イーディスが大きな岩にもたれたまま、ミランダとマリオンを指さした。ふたりは、次の傾斜を登りはじめている。「アーマ、あのふたりをみてよ。靴も履かずにどこにいこうっていうの?」ところがアーマは声をあげて笑い、イーディスの苛立ちをあおるばかりだ。「ミランダもマリオンも、なんか変じゃない?」常識を無視して奔放に振る舞う人たちをみると、イーディスのような少女はただ戸惑うしかなかった。同意を得ようと振りかえったイーディスはおののいた。アーマまでが、脱いだ靴を靴下で腰に結びつけていたのだ。前方に屹立する石柱(モノリス)に気づいたのは、ミランダだった。
少女たちは突然、抗いがたいほど強烈な眠気に襲われていた。四人は、石柱が影を落とすゆるやかな傾斜に倒れこみ、たちまち眠りこんだ。深い眠りだった。一匹のツノトカゲが岩の割れ目から出てきて、マリオンが投げだした腕を這っていったが、それでも少女は目を覚まさなかった。目を覚ましたイーディスは、充血した目をこすりながら、泣きごとをこぼしはじめた。「ここ、どこ? ねえミランダ、あたし気持ち悪い!」
ミランダは、よそ者をみるような目つきでイーディスをみた。いや、その目にはなにも映っていないようだった。
ミランダは、無言でくるりと背を向け、斜面を登りはじめた。あとのふたりも、少し遅れてついていく。歩いているというよりはーー岩の上を裸足で滑っているようだ。
三人の少女たちは、振りかえることもなく、次々とモノリスのうしろへ姿を消していく。「ミランダ! もどってきてよ!」ふらつく足でどうにか斜面を登っていくと、だれかの白いドレスの袖が、茂みのむこうへ消えていこうとするのがみえた。
「ミランダ……!」応える声はない。静寂がじわじわと押しよせてくる。とうとうイーディスは、宙を切り裂くような悲鳴をあげた。
少女たちが行方不明になる場面を少し詳しく引用しましたが、なんとも不思議な消失の情景です。
なぜ靴と靴下を脱いだのか。なぜ急に睡魔に襲われたのか。なぜ無言でモノリスのうしろへ姿を消したのか。
何やら異世界に導かれるような記述ですから、てっきりダーク・ファンタジーなのかな?と錯覚したほどでした。
明かされない失踪の真相と作品全体を包む解釈不能な謎
ところが、この少女たちの消失について語られる場面は、ページが進んでもまったく出てきません。
イーディスは叫びながらピクニックの場所まで戻り、記憶喪失の状態に。事件から8日後にアーマだけがなぜかコルセットをしていない状態で岩場に倒れているところを発見されますが、アーマも記憶を完全に失っています。そしてミランダとマリオンは消失以後、一度も出てきません。
もっと驚くのは、ピクニックに同行した数学教師がいつのまにか消失するのですが、下着姿で歩いていたという証言以外、なぜ岩場に行かなかった数学教師までいなくなるのか、最後まで言及がないことです。
靴や靴下、コルセット……これらが何かの暗喩なのか?と思う向きは多いでしょう。少女たちが束縛からの解放を求めた…といった解釈も成り立つのかもしれません。
でも、正直なところ、よくわかりません。何とも不思議な小説としか、形容のしようがありません。
事件を契機に始まる崩壊―不吉な綴織と女校長の混乱
むしろ、少女たち(+数学教師)の消失の謎よりも、本書は、少女たちの消失を機に、女校長を頂点とするアップルヤード学院の秩序が崩れていく様を克明に描き出しています。
文中でこんな表現が出てきます。
あのピクニックの日から、様々な出来事が起こった。一部始終を目にしてきた本書の読者たちは、気づいただろうか。ピクニックとはなんの関係もなかった人々までが、ひとりまたひとりと、綴織(つづれおり)のように複雑さを増していく事件の一部に織りこまれていく。彼らが送っていた日常は、行方不明事件を機に、大きくーーときに暴力的なほどーー変化していった。不吉な綴織は、なんの前触れもなく織られはじめたのだ。
なかでも「不吉な綴織」の中心にいるのが、アップルヤード学院の頂点に立つ女校長です。
事件を機に相次ぐ退学者たち。住み込みのメイドと雑用係は結婚を理由に学院から去ると校長に伝え、ピクニックに同行しなかった教師まで退職を切り出す……。
特に、篤志家によって孤児院から引き取られた少女セアラに対する、校長の暴力的なエスカレーションは不気味さすら感じさせます。
アップルヤード学院と女校長の秩序の崩壊とその結末は明かさないでおきましょう。本書を手に取ってお確かめください。
著者70歳での不思議な夢から生まれた執筆背景と幻の最終章
『ピクニック・アット・ハンギングロック』がオーストラリアで刊行されたのは1967年のことです。
本書の訳者あとがき(訳者は井上里氏)によると、作者のジョーン・リンジーが70歳の時に「不思議な夢」をみたそうです。
ある晩リンジーは不思議な夢を見た。昔の寄宿女学校の少女たちがピクニックへ出かける夢だ。目を覚ましたリンジーは、夢の内容を忘れないように、急いですべてをタイプライターで打ち込んだ。その晩も次の晩も、夢は続いた。(略)とうとう一週間続いた。リンジーは朝起きるたびに、夢の内容を思いだしながら一心にタイプライターを打ち続けた。こうして、ひと月足らずで完成したのが、この『ピクニック・アット・ハンギングロック』だ。
この夢を綴ったオリジナルの原稿には、少女たちの消失の謎について最終章で触れてあったそうです。
ところが、編集者はリンジーに「最終章を削除しないか」と提案。「事件を謎のまま終わらせておくほうが、作品としての奥行が増す」と感じたからで、結果、この不思議なストーリーとなったわけです(なお、訳者あとがきには、作者の没後公表された幻の最終章を要約したものが紹介されています)
ピーター・ウィアー監督による映画化と今なお放つカルト的魅力
本書を一躍有名にしたのは、1975年に公開された映画『ピクニックatハンギング・ロック』です。
ピーター・ウィアー監督の出世作で、日本では1986年に劇場公開。2024年には4Kレストア版の上映もされています。
わたしは原作を先に読んでから映画を見たので、原作にかなり忠実な映画だな…という感想を抱きました。
でも、創元推理文庫から邦訳されたのは2018年のことですから、日本では長らく映画でしか語られない作品だったことになります。
そう思うと、「美しき永遠の謎」と形容される不思議なストーリーは、確かにカルト的人気を呼び起こしそうです。
最後に、2024年上映時の予告編をつけておきます。本書の不思議さ、妖しさの一端を味わってみてください。
(しみずのぼる)
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