きょうは高野和明氏の『踏切の幽霊』を紹介します。幽霊の目撃が相次ぐ東京・下北沢の踏切。女性誌記者の主人公が調べると、近くで殺された若い女性が踏切近くで発見されたことがわかるが、女性の身元が杳として知れない。主人公の取材で明るみに出た殺人事件の真相と女性の悲しい真実とはーー? 出色のホラーミステリーです。(2026.7.16)
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目次
『ジェノサイド』から11年ぶりの最新長編は初のホラー
高野和明氏は、2011年に刊行された『ジェノサイド』(上下巻、角川文庫)で山田風太郎賞と日本推理作家協会賞を受賞しました。
100万部突破の超弩級エンタテインメント!!
イラクで戦うアメリカ人傭兵と日本で薬学を専攻する大学院生。二人の運命が交錯する時、大冒険の幕が開く。アメリカの情報機関が察知した人類絶滅の危機とは。一気読み必至の超弩級エンタメ!(『ジェノサイド』あらすじ)
わたしも『ジェノサイド』を読んで次作を強く期待した一人で、2022年に文芸春秋から『踏切の幽霊』された時はすぐに本屋に行って買い求めました。単行本の帯にも、
『ジェノサイド』の著者、11年ぶりの長編は史上最高の幽霊譚
とあります。わたしのように高野氏の次作を待ち望んだ人が多かったのでしょう。
冒険ミステリーの『ジェノサイド』とまるっきり異なり、『踏切の幽霊』はホラーミステリーです。
でも、綿密な取材に基づくリアルさの追求、ディテールへのこだわりぶり…という点では共通するものがあります。
特に事件記者の取材スタイルに関する記述は、途中で「あれ、高野和明って記者出身だっけ?」と錯覚して著者欄で確認してしまうほどでした(高野氏は映画・テレビの撮影助手から作家になった方です)
踏切の幽霊に隠された謎を追う女性誌の元事件記者
主人公の松田法夫は50代半ばの女性誌記者。もともと新聞社の社会部記者だったが、妻と死別して仕事への熱意を失い、知人に声をかけられ女性誌『月刊女性の友』に移った。しかし、新聞記事と雑誌記事の違いに悩み、雑誌記事のデスクは務まらず、取材記者(データマン)に格下げとなり、その地位も危うい身だった。
松田に声をかけた知人ーー『女性の友』編集長の井沢から、新たに取材を命じられたのは心霊ネタだった。
日本では、怪談と言えば夏の定番だが、女性誌では季節を選ばずにいつでもやっていた。読者の恐怖心や危機感を煽ると、雑誌は売れるのである。
最初に見せられたのは読者から寄せられた8ミリフィルムで、「踏切の中に何かぼんやりとしたものが浮かび上がり、蒸気のように揺らめいてから、ほんの数秒で消えた」ものが映っていた。
別の読者から送られてきた写真には、「踏切上に、まるで通行人が偶然に写り込んだかのような横向きの女性の姿があるが、その人物は腰から下がなかった」
「二重写しで作ったんですかね」と松田が訊くと、編集長の井沢は言った。「偽物かどうかを調べるのも、お前さんの仕事だ」
松田は、8ミリフィルムを撮影した大学生と写真を送ってきた主婦に会ったが、ふたりとも撮影した時は気づかなかったと口をそろえた。
同行したカメラマンの吉村に二重写しの可能性を訊くと、吉村は言下に否定した。
「画面全体にピントが合っているのに、踏切上に静止している物体だけがぼやけているというのも光学的にあり得ないんです」
「あの奇妙な靄は、上のほうが髪の毛みたいに黒くなってましたよね? ところが黒というのは、フィルムに光が当たっていないということですから、多重露光で合成しようとしても、背景が透けてしまって黒は残らないんです」
刑事から聞かされた殺人事件の概要と残された謎
松田は記者時代のツテを頼ることにした。下北沢警察署近くの居酒屋で知り合いの刑事を探すと、知り合いがいた。
「最後に会ったのは、いつだっけ?」
「荒井さんが捜査一課にいた頃ですよ。私が遊軍に上がってからもしばらくは、お世話になってました」
「二十年ぶりか。早いな。そう言や、風の便りに聞いたが、今は遊軍じゃなくて編集委員だって?」
「いえ、もう新聞社は辞めて、今はここです」
「『女性の友』っていう面かよ? こっちは相も変わらず刑事畑で、しかも警部補止まりでな」
「荒井さんなら、ただの警部補じゃなくて指定警部補でしょう?」
「まあな」
こうして荒井と旧交を温め、本題を切り出した。「踏切での人身事故について、分かりませんか」
しかし、荒井から意外なことを聞かされる。人身事故はなかったが、1年前に殺人事件はあったーーと。
犯人も捕まっているので「もう解決した事件だから」と言って、荒井は事件の概略を説明した。
殺害場所は踏切から百メートルほど坂を下った廃屋だった。ナイフで刺したのは暴力団組員だったが、犯行現場で失禁しているところを見つかった。被害者の女性について、荒井はこう説明した。
「キャバクラのホステスで、売春もやっていたらしい」
松田は女性の氏名を訊いた。
「それが分からねえんだ」
「分からない?」
「ああ、身元不明だ。調べがついたのは、さっき言ったようにキャバクラで働いていたことと、売春までやっていたという話だけだ。店に伝えていたのは偽名、事件当時の住所も不明。その女がどこの誰だか知っていたものは、一人もいなかった。『踏切で死んでいた女』としか言いようがない」
それでも、松田は女の勤め先を教えてもらい、一軒一軒訪ね歩き、女が「紫式部」の源氏名で務めていた最後の店で「紫式部ちゃんと一緒に暮らしていた友達」の存在を探り当てる。
身元不明の被害者女性の旧友が隠している謎とは
その友達は歌舞伎町のキャバクラに移っていた。目当ての友達ーー店ではエリーの源氏名を名乗る岡島恵美は「知らない」と答えた。トイレの近くで再度質問を試みた。
「岡島さんが、あの写真の人と一緒に暮らしていたという証言があります」
「だから、知らないって言ってるでしょ」
「同じ店に勤めていたのに、会ったこともない?」
「見かけたことくらいはあったかも知れないけど、それだけ。写真の人が、どこで何をしているのかなんて、こっちは知らないわ」
記者時代の勘が働いた。岡島恵美が「どこで何をしているのか」と現在形で答えたのを聞き逃さなかった。
女が殺害された時期のことを聞くと、岡島恵美が「ハワイでゆっくりしてたの」と答えたので、松田は「それで知らなかったんですね」と返した。
「何を?」
「あの写真の人、去年の今頃、亡くなったんですよ」
途端に、エリーの表情から吹き消されるように華やかさが失われた。虚ろになった二つの瞳が、隠しきれない衝撃を物語っていた。「どうして死んだの?」
「知っているんですね。あの写真の人を。親しかったんでしょう?」
「死んだ理由を訊いているのよ」
「写真の人は、殺されたんです」
こうして松田は、岡島恵美から女性が殺される直前の様子を聞くことができ、女の殺害に暴力団が関与していることを突き止めるーー。
一歩ずつ真実に迫る事件記者ならではの緻密な取材過程
だいぶストーリーを明かしてしまいましたが、岡島恵美との接触の場面でちょうど本書の半分あたりです。
つまり、本書の前半は、女性の身元がなかなか割り出せない、遅々として進まない取材のプロセスに多くのページが費やされています。
しかし、それは読者も、ヴェールを一枚一枚はぐように、事件の真相に近づいていくプロセスでもあるわけで、記者もののミステリー小説で味わう醍醐味でもあります。
その意味で、主人公の設定が秀逸なんだろうと思います。
普通の新聞社では心霊ネタは追いかけません。女性誌だからネタに食いつくわけですが、取材スタイルは刑事への接触はじめ、まさに事件記者のものです。元事件記者で今は女性誌に所属するーーという設定の妙を感じます。
愛する人を失った喪失感を抱える登場人物たち
もうひとつ、主人公が妻を失って深い喪失感にとらわれていることも、ストーリーに深みを与えています。
例えば、仕事を終えて誰もいない家に戻る場面ーー。
心霊ネタの取材で本物の幽霊である可能性が高い。それなのに、亡くなった妻には会えない。誰もいないダイニングで、両親が一度遊びに来た時の幸せな情景を想い出しながら、ひとりウイスキーを飲み続ける。
みんな、どこへ行ってしまったのだろうと松田は考える。そして、自分が、生物学的な死というものを正しく理解できていないことに気づかされる。死んだ人々が跡形もなく消滅したなだとはどうしても信じられず、この世界とは違うどこかへ行ったとしか思えないのだ。
彼らがここに戻って来てくれたら、どんなに心が安らぐだろうと松田は思った。幽霊でもいいから、このテーブルを囲んでいてくれたら。
岡島恵美が恋人と思った暴力団員の裏切りにより、事件現場の踏切で事故に遭った場面が出てきます。そのやりとりもせつないです。
「幸せになれると思ってたのに、全部嘘だったの。私、馬鹿だから信じちゃった。こんな仕事してるとみんなの見る目が違うから、この指輪を買った時、本当に嬉しかったんだ」
その時、不意に指輪が抵抗を止め、薬指から抜けた。それを見た恵美が、初めて喪失に気づいたかのようにぴくっと唇を震わせ、やがて涙をこぼして言った。「死にたい」
松田はかすかな驚きとともに、自分の気持ちを代弁してくれた女性を見つめた。妻が逝ってからというもの、松田は死を怖れる一方で、自分から死に近づいて行くような、危うい心を抱えながら生きてきたのだった。
「私だって同じ気持ちでしたよ。妻に先立たれてから、ずっと」
恵美が顔を上げて松田を見た。
松田は微笑みかけ、付け足した。「でも、今も生きてる」
こんな優しさを併せ持つ元事件記者だからこそ、殺人事件の意外な真相と、女性の身元と哀しい過去を探り当てることがかなったのでしょう。
『ジェノサイド』とは別種の感動を与えてくれるホラーミステリーです。ぜひ多くの人に手に取ってほしい一冊です。
(しみずのぼる)
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