橘玲『HACK』書評|暗号資産とサイバー諜報戦が暴く日本社会の「バグ」

橘玲『HACK』書評|暗号資産とサイバー諜報戦が暴く日本社会の「バグ」

橘玲氏の小説『HACK』(幻冬舎刊)は、暗号資産を武器に国家や犯罪組織と渡り合うハッカーの姿を描いた本格ミステリーです。物語の舞台は、税逃れのために日本を離れた主人公が、北朝鮮のサイバー軍や「トクリュウ」の陰謀に巻き込まれるバンコク。本作は単なるエンターテインメントに留まらず、現代社会に潜む深刻な「欠陥(バグ)」を鋭く射抜いています。(2026.5.9) 

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11年ぶりの最新小説|暗号資産によるマネロン描く

『HACK』(幻冬舎刊)は、橘玲氏の11年ぶりの書き下ろし小説です。 

それまでの小説はマネーロンダリングを扱ったものだったため、本書の帯は「今度の合法的脱税は、暗号資産!」と強調しています。 

橘玲『HACK』(幻冬舎刊)

しかし、わたしはサイバー諜報戦の現実をリアルに描きあげた読み物として『HACK』を堪能しました。 

主人公・樹生の海外移住|不条理な税制度への「ハック」

主人公の樹生(たつき)は、高校時代にダークウェブの存在を知り、大学時代はダークウェブのハッカーコミュニティに入り浸るようになった。その頃からお小遣いやバイト代でビットコインを買うようになったが、日本の税制度が立ちはだかった。 

(暗号資産で)思いがけない額の資産を手にすると、利益の半分以上を税金に取られることがバカバカしくなった。
なんの合理性も整合性もない理不尽な制度は、国家は市場の取引に介入すべきでないと考えるリバタニアンにとって、とうてい受け入れがたいものだった。そこで樹生は、会社を辞めて海外に移住することにした。

最初はマレーシア、次にタイのバンコクで暮らすようになってしばらくした時、シンガポール大使館に出向中の検察官を名乗る「榊原」からメールが届いたーー。 

北朝鮮サイバー軍「ラザルス」|強奪された500億円の奪還

榊原は、樹生の税金逃れが国税局にとってはグレーゾーンに該当し、争えば不毛な労力がかかることを指摘したうえで、「これは話の前振りというか、キャッチボールの肩慣らしみたいなものです」と続けた。 

樹生はしばらく黙ったまま、なれなれしい男の軽薄な笑みを見つめていた。それから、訊いた。「ぼくになにをさせようとしてるんですか?」
「さすがに話が早い」こんどは大きな笑みを浮かべた。「お金を取り戻してもらいたいんです」
「いくら?」
「五〇〇億円」
「どこから?」
「北朝鮮」笑顔のまま、榊原はいった。

北朝鮮は数千人規模のサイバー軍を養成、中でもラザルスの名で知られるハッカー集団の一部門が2024年に日本の暗号資産交換所のハッキングを行い、暗号資産を強奪した。 

「問題は、ラザルスがそのビットコインをどうやって現金化するかです」 

榊原は、北朝鮮が盗んだビットコインのままでは「ただのデータ」に過ぎず、「なんとかしてそれをロンダリングして、必要なものを購入できるようにしなければならない」ことを説明し、その暗号資産を奪い返す作戦に樹生をハンティングしたのだった。 

2024年の暗号資産強奪事件は、下記サイトにあるとおり、実際にあった出来事です。 

ゼロデイ攻撃とサイバー兵器|現実に起きた事件がモチーフに

榊原の指示は、トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)とつながる情報屋への接近と、そこから北朝鮮と取引のある元ヤクザとその秘書を務める元アイドルと接点を持つことだった。 

トクリュウの集めた現金を暗号資産にロンダリングする手口を、樹生は「沈没男」と名付けた情報屋に教えた。ハッカーの手腕を知るため元アイドル・咲桜(さら)が樹生に接触、樹生は元ヤクザの黒木、そのもとで働く北朝鮮出身のソニョンと接触することに成功した。 

暗号資産を奪うツールは、「ゼロデイ・ゼロクリック」のスパイウェアだった。 

情報セキュリティ業界では、プログラムやアプリの脆弱性が発見されたにもかかわらず、それへの対処法が公開されない期間を「ゼロデイ」と呼ぶ。ほとんどのハッキングは、修正プログラムが配布されるのにパッチを当てていないサーバーやルーターを狙うが、ゼロデイ攻撃はそもそも脅威を認識できていないのだから、対処のしようがない。
ホワイトハッカーは脆弱性を発見すると、それをマーケットに売りに出す。購入するのは仲介業者で、Microsoft、Google、Appleなどのベンダーに転売することもあるが、重大なバグはNSAのような国家の情報機関が高額で買い取っている。二〇一七年にNSAから「エターナルブルー」が流出したことで、この機関が膨大なゼロデイのコレクションをもっていることが明らかになった。

米国のNSA(国家安全保障局)から「エターナルブルー」が流出した事件も、下記記事のとおり、実際にあった出来事です。

米国家安全保障局(NSA)から流出した「EternalBlue」を使った攻撃が、米国の複数の地方自治体に広がっていると報じられた。
japan.zdnet.com

特定秘密保護法の裏側|NSAから流出した最高機密の威力

樹生は榊原の部下・佐藤から「ゼロデイ・ゼロクリック」を渡された。 

「ゼロデイ・ゼロクリックをもってるんですか?」樹生は驚いた。サイバー兵器のなかでもっとも強力で、最高度の軍事機密だからだ。
「正確には、型落ちですけど」佐藤がいった。「ファイブ・アイズってご存じですか。アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの英語圏五カ国の情報機関の情報共有制度で、日本はずっとそれに入れてもらいたくて、安倍政権のときに特定秘密保護法をつくって、ようやく準メンバー扱いにしてもらえたんです。それで、ゼロデイ・ゼロクリックのエクスプロイドのうち、NSAがもう使わなくなったものを回してもらえるようになった。政治家や政府機関の重要人物は対応済みですが、それ以外は一般人だろうが、犯罪組織だろうが、ターゲットにされたら防ぐことはできません」

「ゼロデイ・ゼロクリック」の威力は凄かった。

「これはゼロデイ・ゼロクリックだから、SMSでメッセージを送るだけで、クリックさせなくても、相手のスマホを乗っ取ることができるんだ」
「なんでそんなことができる?」
「SMSのメッセージを受け取ると、本文の一部が自動的に表示されるだろ。これはアプリがバックグラウンドでメッセージを読み込んで処理してるんだ。ゼロクリックのエクスプロイドは、そのプログラムのバグを使ってマルウェアを埋め込む。そのバグがゼロデイ、すなわち公開されていないものだったら、防ぎようがない」
ソニョンは「すげえな」とつぶやいた。

樹生は、ソニョンが国家を裏切り、ミャンマーとタイの国境近くの拠点から暗号資産を強奪する計画を打診され、恋人の咲桜がソニョンを手伝うことを知り、咲桜を守るため樹生も計画に加わるーー。 

日本社会に横たわるバグ|歌舞伎町の「立ちんぼ」という現実

あらすじだけ追いましたが、トクリュウのロンダリングを手伝うため日本に一時帰国することや、恋愛関係に発展した咲桜の頼みで咲桜の母親探しを手伝うなど、輻輳した物語の展開となります。 

その過程で織り交ぜられるのは、日本社会に横たわる様々なバグの存在です。 

例えば、新宿・歌舞伎町のキャバクラでアルバイトする女子大生に誘われ、大久保病院近くの公園に連れていかれる。 

女が何人か立っているのが見えた。ほとんどが一人でスマホを見ているが、知り合い同士で話をしているグループもある。
「あれはみんな、立ちんぼ」と、アリサがいった。「男が声をかけると、一緒にホテルに行って、一万五〇〇〇円でセックスするの」

彼女たちは年齢からソープで雇ってもらえない高校生など、風俗で働けない女たちだという。しかし、身体を売った金はホストに巻き上げられてしまう。性サービスの底辺のリアルだ。 

「つき合わせちゃってごめんね」別れ際にアリサがいった。「あそこ、女一人だと歩けないから、ときどきお客さんと見に行くの」
「なぜ?」と訊いた。
「この世界の現実を、自分に思い知らせるため」とアリサはこたえた。

超高齢社会の歪み|「年金丸太」と「年金ゾンビ」の衝撃

もうひとつ日本社会のバグを紹介しましょう。咲桜の母親が青森の病院にいることを探し当て、医師から説明を受ける場面です。 

「この病院は、意識があろうがなかろうが、患者さんに長く生きていてもらうための施設なんです」 

「年一五〇万円ほどの年金をもらってる親御さんがいて、息子や娘の家庭がその年金を頼りに生計を立てていたとしましょう」 

「日本国には高額療養費制度という素晴らしい仕組みがあって、どれほど医療費がかかっても、七十歳以上なら自己負担は一カ月に一万五〇〇〇円かせいぜい二万五〇〇〇円です。そうすると、どんなことをしてでも親を生かしておいてほしいと病院にねじ込んでくるわけです」 

「家族から見捨てられ、年金を受け取るために生かされている患者は、丸太のように転がってるから”年金丸太”って呼ばれてます」 

「自宅で死亡した場合は、そのまま放置して死亡届を出さない家族もいます。これは死んだのに年金を受け取ってるから”年金ゾンビ”」 

サイバー諜報戦から日本社会の裏面まで、実際の出来事を随所に織り交ぜながら、どこまでもリアルに描き出しているーーそれが『HACK』の最大の特徴と言えるでしょう。 

橘玲が提唱する「現実世界のシステムをハックせよ」

橘玲氏と言えば、マネー系の実用書を何冊か手に取ったことがありますが、そこにも「HACK(ハック)」という言葉がよく出てきます。 

例えば、今年3月に刊行された『難しいことはわかりませんが、1億円貯める方法を教えてください!』(大橋弘祐氏との共著、文響社刊)から。 

大橋 お金持ちになれる頭がいい人とは具体的に言うとどんな人なんでしょう?
 論理的な思考ができる人です。
(中略)
大橋 特別な能力のない僕が論理的な考え方とやらで、どうにかなるものなんですか……?
 ハックすればいいんです。
大橋 え!?ハッカーになれってことですか?サーバーに不正侵入してお金を引き出すとか、そういうことですか。
 違います。「HACK(ハック)」という言葉はもともと、MIT(マサチューセッツ工科大学)の学生たちが畏敬の念を込めて、「凝ったいたずら(キャンパスを見下ろすドームをアルミ箔で包んでしまうなど)」を評する言葉でした。それがコンピュータの時代になって、「革新的で、かっこよく、高度なテクニックを駆使した妙技」を操り、システムの改善にもっとも貢献した者を「ハッカー」と呼ぶようになりました。それがいつからか不正侵入する人にも使われるようになりました。
大橋 はあ……。
 つまり、ハッカーはコンピュータやネットワークといった「システム」のバグを見つけて、予想していない何かをさせることですね。大橋さんが目指すのは、わたしたちが生きる現実世界を「システム」ととらえて、バグを見つけてハックすることです。

昨年3月出版の『新・貧乏はお金持ち』(プレジデント社刊)の帯をみても、 

国家に搾取されるな。国家を搾取せよ。
社会保険・税金・年金を最適化し、手取りを最大化
「お金持ち」だけが実践するマイクロ法人戦略入門

と書いてあり、橘氏が「現実世界のバグを賢く利用する」という意味で「HACK(ハック)」という単語を使っていることがうかがえます。 

『難しいことはわかりませんが、1億円貯める方法を教えてください!』(大橋弘祐氏との共著、文響社刊)
『新・貧乏はお金持ち』(プレジデント社刊)

小説『HACK』から入ってもよし、マネー系実用書から入ってもよし。バグだらけの現実世界というラビリンス(迷宮)にいざなわれてみてはいかがでしょうか。 

(しみずのぼる) 

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