きょうは北沢陶氏のデビュー作「をんごく」(KADOKAWA)を紹介します。大正時代の大阪を舞台に、妻の死を受け入れられない主人公が妻の霊を呼び出したところ、妻以外のなにかーー怪異が惹き起こされ…。せつなさ溢れるホラーストーリーです(2025.5.13)
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目次
しっとりした文章で異界に誘う
北沢陶氏の紹介は、ホラー・アンソロジー「慄く」(角川ホラー文庫)所収の「お家(え)さん」という短編の巻頭紹介文が簡潔にまとめられています。
大阪府出身。イギリス・ニューカッスル大学大学院英文学・英語研究科修士課程修了。2023年、「をんごく」で第43回横溝正史ミステリー&ホラー大賞〈大賞〉〈読者賞〉〈カクヨム賞〉をトリプル受賞し、デビュー。しっとりとした文章で読者を異界に誘い込む、最新鋭のホラー作家
トリプル受賞という鮮烈なデビューに目がいきがちですが、「しっとりとした文章で読者を異界に誘い込む」の一文が「をんごく」の魅力だと思います。
前置きをもうすこし。わたしは「このホラーがすごい! 2024年版」の紹介文に惹かれて電子書籍で購入したものの、しばらく”積ん読”状態でした。「慄く」を読み始めて「お家さん」のところで「をんごく」購入を思い出し、先に「をんごく」から読もうと思って読み始めた…というのが今年初めの出来事です。
何が言いたいかというと、あらすじをまったく憶えていないまま手に取った…ということです。あらすじをできるだけ知らないで読んだほうが感動もひとしおだと思うので、この紹介文も本書の第1章ーー四天王寺樒口寄(してんのうじしきみのくちよせ)ーーだけにとどめます。
亡き妻の口寄せを依頼
物語は主人公の古瀬壮一郎が巫女の家を訪ねるところから始まります。
「今日はえらい……」
祭壇を背にした四十がらみの女が、ふいに私の肩を見越して言った。
「居てますな」
巫女には霊が視えるのだろうか…そんな疑念を抱えたまま、古瀬は「外のもんは……なんでそないに集まっとるでっか」と訊ねた。
「うらやましいやろうなぁ。呼んでもらえるもんがおって。わいも喋りたい、わても喋りたい言うて、ざわざわぞうぞ騒いで妬んでせがんでまあ……」
巫女が脇に置いていた、樒(しきみ)の葉を一枚ちぎった。
「やかましいこと」
掌に載せた樒の葉に、巫女が息をふきかける。隙間風に逆らって、葉はゆらゆらと私の頬をかすめ、格子に向けて飛んでいった。途端に、背中にまとわりつく視線、身体をこわばらせる緊張が緩んだ。心なしか寒さまで和らいでいる。
しかし、古瀬はあくまで懐疑的だった。「怯えが収まるとともに、これが巫女の使う手なのではないか、来た人間をまずこうして脅してみせるのではないかと勘ぐった」
古瀬が巫女に口寄せを頼んだのは、一か月前に死んだ妻だった。
「何を尋ねようというでもあらへんのです。ただ、心残りがあんまり大きいですよって」
結婚して一年で妻を喪う
船場で呉服屋を営む家に生まれた古瀬が、倭子(しずこ)と知り合ったのは幼いころのことだった。軽い肺病を患う父の往診に来た医者が来るたびについてきた。「わての家な、幽霊が出るんや」とからかうと涙を浮かべる幼児だったが、大人になって忘れていた頃、義兄が持ってきた見合いの相手が倭子だった。
古瀬の家では、長男が家を継ぐのではなく、見込みのある者を養子に迎えて商売を任せるならわしだった。古瀬は「ぼんぼん」と大事に育てられたものの、家のあるじは丁稚からたたき上げた男が姉の婿になっていた。古瀬は洋画をやりたいと言って東京に移っていた。
家を継いだ義兄の斡旋で倭子と結婚、東京で暮らし始めて一年たって襲ったのが関東大震災だった。震災で焼けた家に足をとられ、倭子の左足は膝から下が黒く焦げ、焼け爛れた。
大阪に帰ったものの、倭子の足は恢復せず、医者から「最初の処置がよくなかった」「無理に移動させたのが良くなかった」と言われた。倭子の足の傷は膿み、高熱が続いた。
「お足ばっかり熱うて、他のとこ寒うて、なんやよう分からへん」
そう乾いた唇で言って力なく笑ったのが、私が聞いた倭子の最後の言葉だった。
これは妻ではない
巫女は古瀬の手を握り、こう告げた。
軽く握っとくなはれ。奥さんが来はりますさかい。
巫女の唇が動いて、喉の奥から言葉が洩れ出た。
確かに倭子の声だった。あの短い東京での生活の間に、何度も聞いた倭子の声音だった。
だが、何を言ったかーー言った、のではなかった。
私の名前を呼ぶのではなく、こちらに語りかけてくるのでもなく、私の耳に懐かしさを感じさせながら、なにがやさしや
蛍がやさし倭子ーー倭子のようなものは歌った。
古瀬は聞いたことのない歌だった。倭子が歌っていたところも記憶にない。
草のかげで
握っているのは倭子の手であり、聞こえてるのは倭子の声だ。だというのに、これは妻ではない、この女は違う、と頭の中で何かが訴えかける。目の前にいるのは倭子ではない。巫女ですらない。
火をともすーー
激しい勢いで手を振りほどかれ、前のめりに倒れかけた。
普通の霊と違っている
巫女が意識を戻した。「わて、なんぞ言いましたか」。戸惑い、混乱し、恐れる目つきだった。
「これはなぁ……」と言ったまま黙りこくる巫女に、古瀬が「なんぞ、いつもと違たんでっか。その、いつも降ろしてはるのと」と訊ねると、巫女は逆に訊き返した。
「奥さんな、ほんまに行んでもうたんでっか」
何を訊かれているのか、一瞬分からなかった。死んだのか、妻がほんとうに死んだのかと、この巫女は訊いているのか。
「きちんと死に水与えて、弔いました。死に顔もよう憶えとります」
答えているうちに、侮辱を受けたという実感が湧いてきた。
巫女は白い顔をして、こう答えた。
「古瀬さんな、わてが何言うとるか、よう分からへんかもしれへんけど。奥さんの霊、降ろしにくいんですわ。いつもなら、すぅっと降りて来るもんが、なんや靄でもかかっとるみたいにぼんやりして、うまいこと入ってけぇへん」
「奥さんな、行んではらへんかもしれへん。なんや普通の霊と違てはる。呼びにくい、というのは、そういうことやさかい」
そして、巫女は古瀬に「気をつけなはれな」と忠告した。
弔いの手順は正しく行ったか
翌日から、古瀬は寝室にしている十二畳間に倭子の気配を感じるようになった。白粉の匂いが鼻をかすめ、婚礼の日に身に着けていた簪が鏡台の上にあった。
その翌日には巫女が家を訪ねてきた。「奥さんのことで、少し」と言って、こう切り出した。
「葬送な、きちんとしはりましたか」
「やるべきこと、きちきちとしはったか、て訊いとるんです。逆さ着物とかな、経帷子やら頭陀袋やら、家から出すときの棺の向きやら。お家によって違いますさかい、こうしなはれとはよう言わんのですけど」
巫女の問いの真意はまるで分からなかったが、弔いの手順を正しく行ったか、と訊かれていることだけは分かる。
「お心遣いしてもろて、おおけにはばかりさん。せやけど、妻の葬儀はみな家の通りにしてやりましたよって……」
怒りを表に出さないようにはしたが、自分の声が低くなっているのが分かった。
聞こえる廻唄は誰が…
しかし、古瀬は寒い日に熱を出した夜、寝室の十二畳間で臥せっていると、ふたたび歌声を聞いた。
おいて廻ろ……こちゃ櫓は押さ……なりゃこそ櫓は押し……る……
足音が客間の畳を踏む。歌声が近づいてくる。
私がいる寝室の襖の、すぐ向こう側にいる。八おいて廻ろ こちゃ鉢割らん ……こそ鉢割りまする……
八。この歌は知らないが、それまでの歌詞が一から七までを歌っていたことを推し量れた。
歌いながら、ずっとこの家を歩いてきたのだ。
十っぱそろえて。かすかな歌声とともに、寝室の襖が開いたのが分かった。
聞こえる歌を倭子が歌っていた覚えはない。では誰がーーなにが歌っているのか。
声の主は、私の背の、すぐ後ろに座った。
冷汗が額を伝うが、拭うこともできない。これは何なのか。倭子なのか、まったく別の何かなのか。
妻が遺した謎の言葉
やがて布団の擦れる音が聞こえた。何かが滑りこみ、背中に這い進んできた。そのとき、声が聞こえた。
「壮一郎さん」
紛れもなく倭子の声だった。
喉に息が詰まった。ただ一度だけ、倭子がこうして背中に手を当て、名前を呼んだことがあった。仕事で描いた挿絵を見せはじめて三か月目、それまでうなずいていただけの倭子が、初めて嬉しそうに笑った日の夜だった。
よく覚えている。今置かれている手の位置も、名前を呼ぶ調子も、そのときとちょうど同じだった。
唇だけ動かして、倭子、と呼びかけた。手がすうっと、布団の間を滑り、襟首から頭へと動いていく。
「壮一郎さん」
倭子がもう一度言った。
懐かしい妻。結婚して一年で死んだ妻。徐々に気持ちを寄せ合った妻。そんな情景が挿まれます。しかし、ここから怪異は一変します。
今度こそ、倭子、と口に出そうとしたとき。
「そーーそ、そう、い、いいいいちろ、さ」
声が歪み、かすれて、捻れ、ぷつりと途切れた。
「ううう、うしろ。う、う、う、うしろ」
歪んだ声が寝室に響く。
第1章は次の文章で結んでいます。
この家に、倭子がいる。
わずか一年ばかりの生活の末に失くして、二度と会えないと思っていたものが。
寝巻の腿にぽたりと雫が垂れて初めて、自分が泣いていることに気付いた。
いかがですか。 寝室に佇む霊は妻に間違いない。それなら、聞き覚えのない歌を歌っていたのは? そして妻が最後に口にした「うしろ」はなにを指すのか……。謎に満ちた怪異の幕開けを、まさに「しっとりとした文章で」描いていると思いませんか。
激賞する選評者たち
最後に、横溝正史ミステリ&ホラー大賞の選評を紹介しておきましょう。
『をんごく』は優れた怪談小説であると同時に優れた「謎物語」にもなっていて、この塩梅がまた良い。終盤で明かされる「真相」には思わず「おおっ」と声が出た。クライマックスの迫力にも同様の声がまた出てしまい、さらにはなぜか涙まで出て来てしまった(綾辻行人氏)
受賞作『をんごく』は、作品全体に滴るようなホラーの色気がある傑作だった。(中略)顔のないエリマキに、人が、自分が強い思い入れを持っている者の顔を見る、という設定がせつなく、また、その彼に息子の顔を見ている巫女の存在により、エリマキに残酷さとかわいらしさの両方が感じられる。そのエリマキの「ほんとうの顔」を見ることがクライマックスにフックとして効いている構成も見事。この「ほんとうの顔」という言葉ひとつ取って見ても、それが特別な奥行きを持つ言葉に思えてくるのは、この世界を描く筆者の筆の力があってこそだ。この作品を受賞作として送り出せる選考に立ち会えたことを幸せに思う(辻村深月氏)
『をんごく』は情感、悲哀申し分なく、文章は格調高く台詞まわしに血が通っていて、一読、今年はこれだと確信させる小説だった。(中略)つましくもしあわせな暮らしを送っていた主人公らが関東大震災で幽明境を異にするまでの描写は哀感に満ち、なかなか書けるものではない。超自然的な力を持つ退魔師的存在が登場した時は物語やや旧套に落ちるかと危ぶんだが(この退魔師が良いという意見も多かったことは特記する)、「主人公が妻の死を受け入れ、送り出す物語」という本筋はいささかも見失われず、小説は見事に終幕へと導かれた。(中略)この小説に授賞できなければどうしようと焦りさえ覚えていたので、結果に安堵している(米澤穂信氏)
辻村氏が触れるエリマキが登場してから怪異の謎解きが始まりますが、わたしも米澤氏が言うように「主人公が妻の死を受け入れ、送り出す物語」という一本芯が通った物語である点に強く惹かれます。
綾辻氏は「なぜか涙まで出て来てしまった」と言っています。ホラーが苦手という人にもぜひ読んでほしい傑作です。
(しみずのぼる)
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