下級武士の悲哀と怪異をせつなく描く…菊地秀行「幽剣抄」

下級武士の悲哀と怪異をせつなく描く…菊地秀行「幽剣抄」

きょう紹介するのは菊地秀行氏の怪談時代小説集「幽剣抄」です。幽霊や怪異は出てきますが、下級武士の悲哀を織り交ぜた作品が多いのが特徴です(2025.3.11) 

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出色の怪談時代小説集

菊地秀行氏の「幽剣抄」(角川文庫)は、この短編集に収められた掌編「茂助に関わる談合」を紹介したばかりです。 

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怖さで言えば「茂助に関わる談合」が群を抜いているのですが、「幽剣抄」の魅力は怖さだけで計るのはもったいないように思います。 

「茂助に関わる談合」を自身のホラー・アンソロジー「怪異十三」(原書房)に収めたホラー作家の三津田信三氏も、同書の解説でこのように書いています。 

好みの問題から、(菊池氏の)伝奇アクション作品にはあまり手を出さないでいた。そんなとき開始されたのが、「KADOKAWAミステリ」に発表されたホラー時代劇「幽剣抄」シリーズだった。これには参った。完全に嵌まってしまった。特に「這いずり」(『幽剣抄』所収)には大いに感心させられた。 

三津田氏絶賛「這いずり

三津田氏が絶賛する「這いずり」から紹介しましょう。 

地次源兵衛が横領の罪で追われた。勘定方として定評のある彼だったが、人間嫌いのため疎まれたのである。だが、討手に斬られた彼の死体はどこにもなかった(角川文庫あらすじより) 

持病の腰痛を悪化させ、虫のように這いずるしかない身体になった源兵衛は、横領の罪で家屋敷から追放の処分を言い渡す使者に対して言い放った。 

「地次源兵衛ーー二十と一年、殿のため、藩のためお仕え申し上げた。そもそも、十四年前、小金木村の一揆を抑えた新田開発の費用を誰が捻出したかーーこの地次源兵衛が過去五十年の金番帳簿、控えを改め、金利の安い江戸商人の名を見つけだしたからではござらぬかーー」 

「それだけの功のある家臣に、ささやかな横領さえも許さぬ藩の下知になど服しはせぬ。地次源兵衛ーーかくのごとき身体になろうと、手向かい致す。天地が裂けてもこの家から離れぬぞ。それが不服なら、好きなだけ、討手をお寄越しになるがよい。血の海の中を這いずりながらでも、ひとり残らず血祭りに上げてくれる」 

送られた討手に対し、源兵衛は地を這って足首を両断する斬撃を繰り出して抵抗するも、最後は討ち取られる。「三人で十五、六太刀は浴びせたはずだ。奴は廊下を北の端へと這いずって行き、そこから下へ落ちた」 

ところが、それから源兵衛の廃屋で怪異が始まった。三人の窃盗が両足首をきれいに切断され、門前で死んでいるのが発見された。噂を聞いて探索に出た藩士も三人のうち二人が両足を斬られて死んだ。 

「地を這う虫けらのごとく」

ふたたび討手が組成された。その中には、同じ下級武士の身分で、源兵衛に誘われれば酒を断らなかった木村も含まれていた。討手仲間から木村は言われた。 

「前から感じていたことだが、おまえ、地次に同情しておるな」
「左様なことはーー」
ない、とは言えなかった。彼は一度たりとも源兵衛の誘いを断らなかったのだ。
「いいや、気脈を通じておる」
日垣は見抜いていた。これまでにはない、嘲笑が面長の顔に浮かんだ。
「無理もない。お互い、這いずりの身では、な」

「おまえも地次も藩では生涯我らに頭の上がらぬ身。一生、地を這う虫けらのごとく」とまで嘲笑された木村は、討手として源兵衛のひき起こす怪異に立ち向かうことはできるのか、それともーー。 

「茂助に関わる談合」のような、訳の分からぬ怪異とは違って、下級武士の無念が怪異の正体です。それだけに、怖さよりもせつなさが勝っているように読後感じるのはわたしだけではないでしょう。 

辻斬りの犠牲者「影女房」

もうひとつ別の短編を紹介しましょう。「幽剣抄」の巻頭を飾る「影女房」です。 

「私を成仏させてください」浪人中の榊原久馬の家にいる美しい幽霊・小夜は辻斬りの五人目の犠牲者だった(角川文庫あらすじより) 

剣の腕は冴えるものの居合で若殿を打ちのめした罪で浪人の身となった久馬。二十四歳という若さながら偏屈で、身の回りも構わない男として知られていたが、どうやら女ができたらしいと噂になった。かつての同僚が噂を確かめに久間の家に赴いた。 

「あの美しさはこの世のものではあるまい。肌などまるで血の気がない。ーー亡霊か」
「おれより、当人に訊け」
「おお、そのつもりだ。どこにいる?」
「おまえの後ろだ」
見も世もない格好で、徒目付はふり返った。
眼の前に青白い女の顔があった。
うお、と叫んで右膝の脇に置いた刀を掴んだ。
「よせ、斬れぬ」

女の幽霊は辻斬りの犠牲者で、織物問屋の娘・小夜だった。辻斬りが相次いで幽霊が出ると噂された川原で、幽霊を成敗しようと試みた久馬に憑き、家まで居着いて身の上を語り始めた。 

幼なじみとの結婚をようやく認めてもらえた三日後に辻斬りで殺され、その幼なじみも小夜の復讐を果たそうとして逆に斬り殺されたという。「あなたさまの剣で私の仇を討って下さいまし」 

しかし、辻斬りをしていると目されるのは、次期老中職は確実と言われ、しかも剣の腕も随一と言われる男だった。 

ーー現在のおれの抜刀術で、垂水さまに及ぶかどうか
ーー勝てぬなあ

まるで人情ものの展開

結果、久馬の家に小夜の幽霊が居着くこととなり、偏屈な久馬に女が出来たらしい…との噂は久馬の実家の母にまで及んだ。 

整理された家の中をひとめ見るなり、
「どちらの娘御ですか?」
と眼を光らせた。
久馬もお互いの人間性を知悉しているから、隠しても無駄と、
「近所の左官屋の女房に来てもらっています」
嘘をつくことにした。
「嘘おっしゃい」
と母は一喝した。
「私の耳に入ったのは、十六、七の町娘ということです」

二時間にもなる母の説教と「おかしな女などに心引かれぬようになさい」の言葉に終止符を打ったのは小夜だった。 

「いらっしゃいませ」
背後からかけられた女の声に、母は愕然とふり向き、久馬ははじめて絶望を味わった。
「あなたは?」
丁寧にお辞儀する小夜への問い質しには、少しの怯えも含まれていなかった。
「小夜と申します。久馬さまには女房同様のお情けを頂戴しております」

「だって口惜しいじゃありませんか。私は我慢します。でも、久馬さまを、まるで、見境のない色狂いのように」と憤懣を口にして、母の前にわざと姿を現した小夜。「あの様子では、また来るぞ」と顔を曇らせる久馬。 

「お母さまは、私を追い出すでしょうか?」
「そうなるだろう。おまえの実家へ行かせるわけにもいかんしな」
久馬は腕組みをしながら、難しい表情になった。
「おまえ、あれとうまくやれるか?」
「自信ありません」
と答えてから、小夜はーー幽霊にしてはーー明るい表情になった。
「私ーーここにいてもよろしいのでしょうか?」
「今更何を言っておる。そうか、母上に頼んで坊主でも呼んでもらえばいいのだな」
「どうして、そんな意地の悪いことを言うんですか?」
町娘そのものの言葉遣いになって、小夜は抗議した。
「決まっておる。厄払いだ」
「私、負けません」

こうして毎日押しかけることになった母と小夜の気の張り合いと、間に挟まれて往生する久馬の滑稽な様子は、まるで人情ものを読むようです。 

幽霊なのにあたたかい

徐々に小夜に惹かれていく久馬。しかし、小夜はすでにこの世にいない身。久馬にできるのは小夜の復讐を果たしてやること。剣の腕前は自分より上、次期老中を斬れば家元にも類が及ぶのは必定。それでも、久馬は小夜のために剣を抜くーー。 

ーー幽霊なのにあたたかい
「あなたさまと過ごした日々、小夜は幸せでした」

「幽剣抄」はシリーズ物ですでに4巻を数えています。 

「追跡者 幽剣抄」
「腹切り同心 幽剣抄」
「妻の背中の男 幽剣抄」

「茂助に関わる談合」のようにひたすら怖い話もあれば、「影女房」のように「幽霊なのにあたたかい」ストーリーも織り交ぜられています。

一方で、格差社会が拡大した今の眼で読んでも心に響く「這いずり」以外にも、例えば「介護鬼」(「追跡者 幽剣抄」所収)ーー介護の苦労から鬼と化した女の話のように、現代に通じるストーリーも含まれています。 

長編や大作を読んで「次は何を読もうかな…」などと迷っている時、手に取って「幽剣抄」の短編や掌編を味わうーー。そんな読み方に適したシリーズのように思います。 

(しみずのぼる) 

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