雷門の”再会”シーンに涙する…宮部みゆき「蒲生邸事件」

雷門の”再会”シーンに涙する…宮部みゆき「蒲生邸事件」

きょう紹介するのは宮部みゆき氏の「蒲生邸事件」です。昭和11年2月26日ーー二・二六事件さなかの帝都・東京にタイムリープした青年は、元陸軍大将の自決に遭遇するが、肝心の凶器が見当たらない!殺人なのか、だとしたら犯人は!? 時間SFもの+ミステリーの傑作です(2025.2.24) 

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二・二六事件さなかにタイムリープ

宮部氏の「蒲生邸事件」は1996年に出版され、翌97年に日本SF大賞を受賞した長編小説です。 

一九九四年、予備校受験のために上京した受験生の尾崎孝史だったが、二月二十六日未明、宿泊している古いホテルで火災に見舞われた。間一髪、同宿の男に救われたものの、避難した先はなんと昭和十一年の東京。男は時間軸を自由に移動できる能力を持った時間旅行者だったのだ。雪降りしきる帝都では、いままさに二・二六事件が起きようとしていた――。大胆な着想で挑んだ著者会心の日本SF大賞受賞長篇! 

主人公の尾崎孝史は、学歴がないことに苦しむ父親の背中をみて育ち、いままた自分も大学受験で失敗、予備校受験のため古色蒼然としたホテルに泊まっていた。 

ホテルは元陸軍大将・蒲生憲之の邸宅を改装したもので、蒲生元大将は昭和11年2月26日夜に自決した人物だった。ホテルの来歴にはこう書いてあった。 

大将の遺書は、戦前の我が国の政府・軍部が置かれていた状況と抱えていた問題を鋭く分析したうえ、起こりうる最悪のケースとしての対米開戦とその敗北まで見通し、軍部の独走を諫めた恐ろしく先見の明に富んだ内容で、現在でも、歴史研究家のあいだで高い評価を受けております。 

そのホテルで孝史は火事に巻き込まれた。孝史を助けたのはタイムリープする能力を持つ男だった。 

「こうするよりほかに、あの火事のなかから逃げ出す方法がなかったんだ。信じられないのはよくわかるよ。でも、事実なんだ」
「何が事実だっていうんです」
男は孝史を見つめ続けた。軽く息を吸い込み、白い息を吐き出しながら、言った。
「我々はタイムトリップしたんだ」

平田次郎と名乗る男は、以前から準備して蒲生邸で住み込みで働くことになっていた。孝史は勤め先から逃げ出した平田の甥を騙って蒲生邸でしばらく過ごすことになった。 

蒲生邸に住むのは、元大将の蒲生憲之とその息子貴之、娘珠子、憲之の後妻・毬惠、憲之の弟・嘉隆。そして住み込み女中のちゑ、ふきの7人だった。 

平田と孝史がタイムリープした昭和11年2月26日。それは二・二六事件が起きた日だった。 

二・二六事件 1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター事件。皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した(ウィキペディアより) 

「これは殺人なんですよ」

その夜、ホテルの来歴に書いてあったとおり、蒲生憲之がピストルで自身のこめかみを撃ち抜き自決した。しかし、孝史とともに第一発見者となった長男の貴之は、憲之の遺体を別の部屋に移動させ、自決現場を片付けてしまった。 

駆けつけた主治医を前に、孝史が貴之を追及した。 

「現場を見せたら、自決にしては決定的におかしいことがわかってしまうからです。そうでしょう、貴之さん」

「銃声が聞こえて、僕らが大将の部屋に駆け込んだとき、その場に銃が見当たらなかった。そのときは、大将の身体の下になってしまっているのかと思いました。でもそうじゃなかった。大将の亡骸を動かしても、そこにも銃がなかった。そうなんでしょう、貴之さん」

貴之は観念して「そのとおりです」と認めた。 

「蒲生大将は殺されたんです」
声を励まし、孝史は言った。その厄介な事実に自分を立ち向かわせるためにも、大きな声で宣言する必要があった。
「これは殺人なんですよ」

蒲生憲之は本当に何者かに殺されたのか。疑わしいのは憲之の死を望んでいた後妻の毬惠とその不倫相手の嘉隆だが、ふたりにはアリバイがあった。殺人でないとしたら、消えたピストルは誰の手に? 

このように書けば「蒲生邸事件」がミステリー小説であるのは間違いありません。たまたま居合わせた孝史が”探偵役”として、蒲生憲之の死の真相を解き明かしていきます。 

真の主人公は「歴史」である

でも、それならわざわざ時間SFものの要素を加味して、事件の舞台を二・二六事件に設定する必要はありません。裏を返せば、著者の宮部みゆきさんは、戦前日本の転換点となった二・二六事件を取り上げる必要があったわけです。 

私の手元にある文春文庫版の帯は「歴史に対して人は無力なのか?」とあります。帯の裏側には、関川夏央氏の解説記事の引用が載っています。 

「蒲生邸事件」の真の主人公は青年ではなく「歴史」である。歴史的事件の肌ざわりをたくみに示しながら、歴史とは何か、そして歴史を評価するとはどういうことかを、さりげなくこの小説は問うている。 

もともと皇道派に属した蒲生憲之は時間旅行者の手助けで未来を見て、皇道派を離れて避戦に動こうとします。対立する派閥・統制派のリーダーである永田鉄山・陸軍省軍務局長と話し合おうと接触を試みますが、果たせずに史実どおり、永田鉄山は皇道派の相沢三郎中佐に局長室で惨殺されます(相沢事件) 

永田鉄山亡き後に統制派の中心となるのが、日米開戦時の首相であり、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた東條英機です。 

昭和11年から現在に無事戻った孝史が、戦前の歴史を自分で調べた後で東條英機について触れる部分が出てきます。 

孝史は東條英機という軍人を憎いとは思わなかった。彼が犯した判断ミスや、懲罰召集のような意地悪な行為や、憲兵を組織的に使った思想弾圧の悪辣だったことや、もろもろの歴史的な事実について、以前よりはずっとよく知っている。戦争体験者や遺族のなかに、今でも東條憎しの感情が色濃く残されていることも、知識としては知っている。それをふまえたうえで、別のことを考えていた。 

東條英機は抜け駆けをしなかったということだ。少なくとも彼は、未来を見通していたわけではなかった。その場の時代を生(なま)で生きていた。その結果間違いもたくさんやったけれど、ほかでもない歴史に対しては、その間違いを言い訳しなかった。淡々と、音楽を聴くようにしてヘッドフォンを耳にあて、死刑の宣告を聞いた。 

関川氏は文庫版解説でこうも書いています。 

私たちは「戦前」に対しては進歩の概念を脳裡に置きながら、忌むべき過去として無意識に切って捨てがちなのだが、宮部みゆきは、時をまっすぐにつらぬいてかわらぬものがある、かわってはならないものがある、といっている。それは、ひと口でいうなら「過去を過去であるという理由で差別しない態度」である。 

それゆえ、未来を垣間見た上で書かれた蒲生大将の「予言的遺言」はついに世上に現れず、逆に東條英機でさえ、歴史に対して「ずる」をせず、歴史に責任をとって死んでいった、その限りで評価されるのである。 

「僕と一緒にいかない?」

もうひとつ「蒲生邸事件」の大いなる魅力を放つ、孝史がふきに寄せるほのかな恋心とその顛末についても触れないわけにいきません。 

文庫(旧版)の表紙をみてください。まだ二十歳にしかならない、住み込み女中の向田ふきが描かれています。タイムリープ直前のホテル火災で怪我を負った孝史を介抱し、孝史が蒲生邸で”探偵役”を務める際も場面場面で孝史を助ける役柄です。 

「蒲生邸事件」(文春文庫=旧版)

事件の真相を探り当て、現在に戻ることになった孝史は帰る間際、ふきに声をかけます。 

「ちょっと話があるんだけど、いい?」
土間の降り口に腰をおろした。ふきも並んで、ちょっと離れた場所に座った。
「僕と一緒に行かない?」

孝史はふきを説得する言葉を並べ立てた。空襲があるよ、食料がなくなるよ、思想統制が厳しくて、誰も信じられないような恐ろしい時代が来るよーー。 

ふきは「あたしのような者のためにそんなふうに考えてくださってありがとう」と言い、「嬉しいけれど、できません」と続けた。 

「弟はこれから兵隊にとられる身です。残してはいかれません。あたしだけ逃げ出すわけには参りません」 

「孝史さんはお帰りになるんです。だけどあたしは逃げ出すことになってしまいます。できません。それはしちゃいけないことです」

怖くないの?と聞くと、ふきは言った。 

「みんなが死ぬわけじゃありません。生きのびる人だっているはずでしょう。そんなに簡単に、あきらめたらいけません」
「だけど……」
「手紙を書きます」
明るい目を孝史に向けて、ふきは言った。「孝史さんに手紙を書きます。どこに宛てて出したらいいか教えてください」

孝史は「それより、会いたいな。どこかで会おうよ」と返した。 

ふきは目を丸くした。「まあ、孝史さんの時代には、あたしはしわくちゃのおばあちゃんですよ。嫌だわ、恥ずかしいですよ」
「小さくて可愛いおばあちゃんだよ。だからいいよ、会おうよ」

「ふきさんはどこを知ってるの」
「……雷門」そう言って、ふきは楽しそうに両手を広げた。「大きな提灯がありますね? 上京してすぐに、口入屋さんで一緒になった女の子と遊びに行ったんです。ほんの短い時間でしたけど、にぎわかで楽しかった」

こうして孝史は58年後の1994年4月20日に雷門の前で会うことを約束します。 

その”再会”シーンを明かすことはできません。是非本書を手に取ってお確かめください。わたしはページをめくるたびに、ポロポロと涙がこぼれるのをとめられませんでした。 

本書はこんな文章で締めくくられています。 

孝史の頭のなかには、永遠に変わらぬふきがいる。二十歳のふき。白い割烹着のふき。心配するふき。怒るふき。笑うふき。冷たいあの手の感触。雪に覆われた蒲生邸。生涯消えることのないであろう孝史の記憶の息づく場所。
そこでは今も、佇むふきの髪に肩に、ふたりが初めて出会ったあの日、昭和十一年二月二十六日の雪が降りつもる。

(しみずのぼる)

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