老夫婦との出会いとせつない別れ…宮部みゆき「あんじゅう」 

老夫婦との出会いとせつない別れ…宮部みゆき「あんじゅう」 

きょう紹介するのは宮部みゆきさんが創り出した可愛い妖物「あんじゅう」。宮部さんの連作短編集シリーズ「三島屋変調百物語」の一篇に出てくる妖物です。隠居生活に入った老夫婦との出会い、そしてせつない別れーー。涙をこらえるのが苦しく、同シリーズの最初の一篇としてもお勧めです(2025.1.31) 

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三島屋変調百物語

宮部みゆきさんの「三島屋変調百物語」(みしまやへんちょうひゃくものがたり)は、 

宮部みゆきによる日本のホラー時代小説(江戸怪談)のシリーズである。2023年時点でシリーズ累計発行部数は300万部を突破している(ウィキペディアより) 

というシリーズもので、第1作「おそろし」の第1話目は2006年に雑誌に載り、9作目の最新刊「青瓜不動」は2021~22年の新聞連載ののち23年に単行本化されたので、足かけ17年です。しかも、まだまだ続くでしょうから、宮部さんのライフワークと言ってよい連作シリーズでしょう。 

こう書くわたしも全巻読破はしておらず、語り部が変わる6巻以降は未読です。ですから、えらそうに紹介するのは憚られるのですが、既読の5巻までの感想で言えば、どの短編もおもしろく、怪談話にもかかわらず、時に泣けて仕方ない短編も含まれていて、いつか必ず最新刊まで通しで読みたいと思っているシリーズです。 

第1作目は「おそろし」

このシリーズで最初に読むべき一冊はもちろん、第1作目の「おそろし」(角川文庫)です。 

17歳のおちかは、実家で起きたある事件をきっかけに心を閉ざした。今は江戸で袋物屋・三島屋を営む叔父夫婦の元で暮らしている。三島屋を訪れる人々の不思議話がおちかの心を溶かし始める。百物語、開幕! 

「おそろし」(角川文庫)

怪談話の聞き手となるおちかの因縁ーー「実家で起きたある事件」が語られ、おちかが引き寄せてしまう怪異が昇華するまでがきちんと描かれています。 

宮部は怪談作家という自覚があって一度は百物語を書いてみたいと思い、九十九話は書きたいと目標を持って書き始めた。 

とウィキペディアにあるので、「おそろし」一冊で終えるつもりは最初からなかったのでしょうが、おちかの因縁は「おそろし」一冊で物語が完結しています。 

ですから、腰を据えて全シリーズ読もうと思うなら、「おそろし」から読むことを勧めます。 

でも「全部で9冊かあ…多いなあ…」とひるむ人もいるでしょうから、もし、そういう人がいたら、「ぜひこの短編を読んでみて!」と勧めたいのが、シリーズ2作目「あんじゅう」に収められた短編「暗獣」です。 

「あんじゅう」(角川文庫)

謹厳な夫、爛漫な妻

「暗獣」は(電子書籍版で)300ページ余りですが、「あんじゅう」が出てくるあんこの部分は、60ページほど過ぎたところから始まります。 

「件の紫陽花屋敷には」と、始めた。
「人ならぬモノが棲んでいたのです。師匠と初音殿は、それに〈くろすけ〉という名を与えたそうなのですが」

おちかに「人ならぬモノ」の話をするのは、近所の子どもたちに読み書き算盤を教えて「若先生」と呼ばれる元浪人・青野利一郎。青野が言う「師匠」は、その塾を営む「大先生」ーー加登新左衛門で、初音は新左衛門の妻です。 

加登新左衛門は長年勤めた小普請組世話役を息子に譲り、初音とともに隠居生活に入った。 

加登新左衛門は人嫌いであった。
世話役の仕事は過不足なく続けてきた。だから人混じりが苦手だとか、下手だというわけではないのだろう。やってできないことはない。
だが彼は、人というものが億劫でたまらなかった。
(略)
新左衛門のこのような本音を知っているのは、初音ばかりである。

「そうおっしゃるほどに、あなたは冷たい人ではございません」
笑って受け流し、そして言った。
「山奥に分け入って、仙人になりたいわけでもないのでしょうし」
山には書物がございませんから、という。
そう、加登新左衛門がこよなく愛するものは、この世でただひとつ、書物だった。

そんな新左衛門の隠居先として持ち上がったのが、紫陽花がきれいな、しかし、かつて住んでいた女の幽霊が出るという噂のある空き屋敷だった。 

「初音はいいのか?」
渋い顔のまま訊いてみると、はいと大らかにうなずいた。
「気の毒な女人ではございますが、恨む相手はもう立ち退いてしまっております。わたくしどもに含むところがあるわけではないでしょう。もしも現れたなら、話し相手になってあげましょう。胸のつかえは、人に語ることでおりるものでございますわ」
さらにこう続けた。
「わたくしは今も折々に、亡き父母の気配を身近に覚えることがございます。この世のもののわたくしには、あの世のものであるその奥方と相通じることができないとしても、常にわたくしと共にある、父母の御魂が助勢してくれましょう」

初音のこころ映えにとても惹かれます。そんな初音だからこそ、あんじゅうと出会い、こころ触れることになったのでしょう。 

雷光に驚き「おああ」

紫陽花屋敷に住み始めてまもなく、初音がおかしなことを言い出した。 

「このごろ、気配を感じるのです」
台所や井戸端で立ち働いているとき。箒や雑巾を使っているとき。庭の紫陽花の群のなかに混じっているとき。
「何かがわたくしの様子を窺って、物陰からそっとこちらを盗み見ているような……」

それからしばらくして、新左衛門も目撃した。その日は雷雨の激しい日だった。猫が突然、暗闇に向かって毛を逆立てて唸り出した。 

頭上で稲妻が光った。初音が思わず首をすくめた。その刹那、新左衛門は見た。
唐突な稲光の下で、障子の陰に潜むものの輪郭が浮き上がった。真っ黒な闇の塊だ。十ばかりの子供ほどの大きさで、形は定まらない。ただ塊に見えるばかりだ。
三毛猫が、唸るというより悲鳴をあげた。続いて轟いた雷鳴にもかき消されぬほどの、甲高い声だった。たちまち跳ね飛ぶようにして逃げ去ってゆく。
そして新左衛門の耳はとらえた。猫の声とも雷鳴とも違う。初音の声でもない。
おああ、と聞こえた。

その次は嫁と孫が遊びにきたときだった。厠のそばに潜んでいるのを孫が見かけ、嫁は青ざめた。 

その晩、新左衛門は暗闇に向かって声をかけた。 

「感心せんな」
「女子供を驚かせても、手柄にはなるまいよ」
「おまえがどんな獣か、はたまた妖物なのかは知らんが、言いたいことがあるならば、こそこそせんで出て参るがよい」

すると、そのとき、
「あわわぁ」
足元で声がした。

頭からとろろをかぶって…

その黒い塊がついに姿を現すきっかけとなったのは、初音が台所に立って、とろろ汁を作っている時だった。初音はすり鉢をひっくり返し、とろろをぶちまけてしまった。 

「草鞋のようだと仰せでしたが、本当にそのとおりでございますね。でも、動くときには形が変わりましたわ。何ですかこう、ぶよぶよと」
「は、初音」
あわあわする夫に、初音は取り合わない。
「どこが手なのか足なのか、顔さえもわかりません。でも、上下はございますようですね。流しの縁に寄りかかるようにして、すり鉢を覗き込んでおりました」
そこへ初音が振り返ったので、それはあわてて退いた。はずみで、すり鉢をひっくり返してしまったのだという。
「頭からーーというか、上からとろろをかぶりまして、大あわてで逃げていきました。逃げ足は早うございましたよ。ぶよぶよというかするするというか、流れるように」

とろろですからねえ……。それをかぶればもう、想像のとおりです。 

真っ黒なものは、棚や木箱の陰に隠れて泣いていた。しきりとうごめいて、身もだえしているように見えた。
「そらご覧なさい。とろろは触ると痒いのですよ」と申しますと、ぶるぶる震えて小さくなるのです。

初音は酢水を桶に張って、黒いものの様子を窺った。 

やがて、桶のなかの酢水がぴちゃぴちゃと跳ね始めた。目を凝らすと、黒いものが桶の縁で動いている。
ーーよく洗うんですよ。
初音が顔を出して声をかけると、それは桶の酢水に波紋をたてて驚き、それからゆっくりと滑り出てきた。
(略)
ーーこれに懲りたら、もう悪さはやめにするのですよ。
初音の言葉に、それは「はわあ」という声で応じた。
「ねえ、あなた」
初音の瞳は底抜けに明るかった。
「あれが何であるにせよ、わたくし、ひとつわかりました。あれはコドモでございますよ。まだ幼いものなのです」

こうして新左衛門と初音、そしてふたりが〈くろすけ〉と名づけたものの紫陽花屋敷の暮らしが始まった。

 思い出すとあまりに切ないから

〈くろすけ〉は初音が唄う手毬唄が好きだった。そのうちに節回しも覚えた。 〈くろすけ〉は鳥が好きだった。鳥の鳴き声も上手に真似た。 〈くろすけ〉は花も好きだった。夜になるとよく庭木に登った。 

「月や星が好きだったのです」
光は苦手だが、夜空に彩る青白く遠い輝きは好んでいた。高い枝に乗ったまま、夜空を仰いで朝まで過ごし、歌ったという。
(略)
夜更け、その唄でふと眠りから起こされることがある。枕に頭を載せ、横たわったまま、しんと耳を傾けていると、切々と胸に響くものがあったそうである。

新左衛門と初音と〈くろすけ〉の日々は、しかし、長くは続かなかった。おちかに語る青野の声がかげった。 

「初音殿は俳句をひねるのですが」
この当時、紫陽花屋敷でもいくつかの句を詠んだ。若先生は、この話を聞いたときにその句帳を披露してもらったのだが、
「歌う〈くろすけ〉を詠んだ句は、見せてもらえませんでした」
思い出すとあまりに切ないからーーと、初音は言ったそうである。

新左衛門と初音の老夫婦と〈くろすけ〉の別れのくだりは伏せておきます。なぜ、ここまでこころを通わせたものたちが別れを選ばざるを得なかったのかーーその謎は「暗獣」を読んでお確かめください。初音の言うとおり、読みながら涙をこらえるのが難しい文章の連続です。 

なあ、くろすけよ。

「なぜ」の部分は伏せますが、別れの場面をすこしだけ引用します。〈くろすけ〉が何ものであるかに気づいた新左衛門と、別れを受け入れられない初音のやりとりです。 

「初音、おまえはこれまでに、くろすけの正体について考えたことはあるかね」
初音は袖をつかんで顔にあてると、
「生きものでございます」と言って、しゃにむに続けた。「あなたとわたくしに懐いている、可愛い生きものでございます。それだけで充分ですわ。正体などという言い方も、嫌いでございます」
そうだな、と新左衛門も言った。その沈んだ声音に、初音も夫の顔を見た。
「私も嫌いだよ」
こんなことは考えたくはなかった。
「だが、思い当たってしまった。しかも、私の仮説はどうやら正しい」

そして、いよいよ別れのとき。新左衛門は〈くろすけ〉にこう語りかけます。 

ーーなあ、くろすけよ。
寂しいか。私も寂しい。
おまえはまた独りになってしまう。この広い屋敷に、独りで住まうことになる。
だが、くろすけ。同じ孤独でも、それは、私と初音がおまえと出会う前とは違う。
私はおまえを忘れない。初音もおまえを忘れない。
遠く離れ、別々に暮らそうとも、いつもおまえのことを思っている。月が昇れば、ああこの月を、くろすけも眺めているだろうなと思う。くろすけは歌っているかなと思う。花が咲けば、くろすけは花のなかで遊んでいるだろうかと思う。雨が降れば、くろすけは屋敷のどこでこの雨脚を眺めているだろうかと思う。
なあ、くろすけよ。あまえは再び孤独になる。だが、もう独りぼっちではない。私と初音は、おまえがここにいることを知っているのだから。

百物語と言えば怪談話です。でも、ここまでせつない怪談話はなかなか見当たりません。 

ぜひ短編集「あんじゅう」ーーその3話目にあたる「暗獣」を読んでみてください。 

(しみずのぼる) 

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