写楽誕生のくだりが出色…矢野隆「とんちき 蔦重青春譜」

写楽誕生のくだりが出色…矢野隆「とんちき 蔦重青春譜」

江戸中期の出版人・蔦屋重三郎と彼を取り巻く文化人たちを描く来年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」つながりで、矢野隆氏の「とんちき 蔦重青春譜」(新潮文庫)を読みました。蔦屋重三郎が出版プロデュースした東洲斎写楽にまつわる記述が出色でした(2024.11.23) 

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一九、馬琴、写楽、北斎

本書を手に取ったのは、先日読んだ谷津矢車氏の「蔦屋」(文春文庫)がとてもおもしろかったからです。

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蔦屋重三郎ーー通称・蔦重(つたじゅう)をとりまく江戸の絵師や狂歌師、戯作者の面々に興味を抱き、「とんちき」を手にした次第です。 

まず、「とんちき」の単行本の帯をごらんください。 

「とんちき 耕書堂青春譜」(新潮社)

十返舎一九滝沢馬琴東洲斎写楽葛飾北斎と大書してあります。 

「とんちき」は、登場人物が誰なのかをずっと秘したままストーリーが展開するので、これは誰だろう?と想像しながら読むのが楽しみのひとつだと思います。 

わたしの場合、江戸時代に詳しくないので、登場人物のひとりが履物屋の婿養子と出てきたので(映画「八犬伝」を観たばかりとあって)「ああ、瑣吉は滝沢馬琴だな」とわかり、「絵師の鉄蔵が北斎だろうから、十郎兵衛が写楽だな」というところはすぐ連想がついたのですが、肝心の主人公役、幾五郎が誰かが最初わかりませんでした。 

滝沢馬琴 江戸時代後期の読本作者。代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である(ウィキペディアより)

葛飾北斎 江戸時代後期の浮世絵師。19歳で勝川派の頭領勝川春章に師事し絵師としての活動を始めて以降、70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した。代表作に『富嶽三十六景』『富嶽百景』『千絵の海』(ウィキペディアより)

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それで、読んでいる途中でウィキペディアで該当しそうな戯作者の幼名を調べて「あああ、なるほど。十返舎一九かあ」と合点しました……。 

十返舎一九 江戸時代後期の戯作者、絵師。『東海道中膝栗毛』の作者。本名は重田貞一、幼名は市九。通称に与七、幾五郎があった。酔翁、十返舎などと号す(ウィキペディアより)

著者の矢野氏が本書の中で、登場人物の後世知られる名前を明かすのは「大詰」と題した最終章です。

きっと自分のような読み方をしてほしくて工夫してたかと思うと、ちょっと???の帯ですが、出版社的には売れないと困るし、まあ、仕方ないのでしょう。あらすじも登場人物の名前が書いてあります。 

蔦屋重三郎の店「耕書堂」に集う男たち。のちに十返舎一九に曲亭馬琴、東洲斎写楽、葛飾北斎となる彼らだが、今はまだ才能の開花を待つ、何者でもない若者たちだった。金はないけど、夢はある。元気もある。お上ににらまれているけれど怖いものなし! だが、偶然発見した「死体」から一波乱が巻き起こる。創作者たちの熱い魂が胸をすく痛快青春出版物語。『とんちき 耕書堂青春譜』改題。 

この「偶然発見した『死体』から一波乱が巻き起こる」という部分が、各章を横串しにしている”仕掛け”の役割を果たしています。最後は主人公の幾五郎ーー戯作者・十返舎一九の面目躍如といった展開となるのですが、これは「とんちき」を手に取ってご確認ください。 

芝居を盛り上げてもらいたい

でも、「とんちき」が出色なのは、各章で描かれる若き登場人物たちの絵や戯作に対する熱い思いです。中でもひときわ際立っているのが、東洲斎写楽にまつわるくだりです。 

東洲斎写楽 江戸時代後期の浮世絵師。約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされ、阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛とする説が有力(ウィキペディアより) 

松平定信の奢侈禁止令のあおりで芝居小屋が閑散とする中、蔦屋重三郎ーー蔦重は河原崎座の主人から「耕書堂の力で、芝居を盛り上げてもらいたい」と依頼された。 

蔦重は、三座の役者の雲母摺(きらず)り大首絵(おおくびえ)ーー人物の上半身や顔を大きく描写した浮世絵を売り出すことにした。しかし、肝心の絵師が見当たらない。手塩にかけて育てたはずの喜多川歌麿に断られ、相談相手の山東京伝に愚痴をこぼすと、京伝は耕書堂にたむろす若者たちの中から絵師を発掘することを勧めた。 

「あいつらも旦那と一緒だ。娯楽がなけりゃ死んじまうような馬鹿ばかりじゃないか」 

「無名で貫目が足りないなら綺麗さっぱり割り切って、新しい絵師として売り出せばいいだろう」 

そして、京伝は紙に二文字書いて蔦重に手渡した。 

「写楽……」
「御上に怒りをぶつける時の、旦那の口癖だ。しゃらくせぇ、てな」

十郎兵衛の絵には奇があった

蔦重は耕書堂に出入りする4人の若者ーー幾五郎、鉄蔵、瑣吉、十郎兵衛を集めて、「今日はお前ぇたちに、役者絵を描いてもらう。それを見て俺が決める。気ぃ抜いたもん描くんじゃねぇぞ」とはっぱをかけた。 

鉄蔵は、演目は暫(しばらく)、団十郎の鎌倉権五郎を描いてきた。「勢いのある気持ちのいい絵」だった。 

幾五郎は、恋飛脚大和往来の梅川と忠兵衛を描いてきた。「鉄蔵の団十郎が放つ覇気は無いが、しっとりとした哀愁が漂っていた」 

瑣吉は、俊寛を描いてきた。「鬼界島の岩場で都に戻る舟に手を伸ばす俊寛の無念な姿」で、情念のこもった絵だった。 

最後に描いてきたのが十郎兵衛だった。 

誰を描いたのかわからない。特徴的な意匠はまったくなかった。単衣姿の町人である。四角い顎で細い目の上に黒々とした眉が描かれていた。
「こりゃいってえ、誰だ」
「中村此蔵(なかむらこのぞう)」
言われても、まだぴんとこない。

蔦重の後ろから覗いた鉄蔵が「なんだこりゃ、重箱の化け物みてぇなおっさんじゃねぇか」と叫んだ。 

「端役ばかりでまだあまり知られてませんが、なかなかしっかりとした仕事をする」
ぼそりと十郎兵衛が言った。
蔦重は芝居が好きだ。たびたびにも足を運んでいる。だが中村此蔵と言われても、正直顔が思い浮かばない。ただ、こういう風貌をした役者が、たしかに幾度か目に付いてはいた。もしかしたらその役者が、十郎兵衛の言う中村此蔵なのかも知れない。そんな役者だから、似ているかどうかは解らなかった。
だが……。
十郎兵衛の絵には奇があった。

蔦重は「写楽」に十郎兵衛を選んだ。 

このくだりに出てくる中村此蔵。どんな顔をしてるんだろう…と思って写楽の画集を調べると、「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権」という寛政6年(1794)作の大判錦絵が見つかります。東京国立博物館所蔵の重要文化財です。 

寛政6年5月桐座で上演の「敵討乗合話(かたちうちのりやいばなし)」に取材した作品。右の遊客を演じる神経質そうな中島和田右衛門と、その案内役である船宿の若い者を演…
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ありのままを紙にぶつけてみろよ

だが、十郎兵衛は何日たっても絵が描けない。何枚書かせてもピンとこない。蔦重も「此蔵の絵を見た時にゃあ、あんたしかいねぇと思ったんだがなぁ」と愚痴るように……。

そんな十郎兵衛を刺激したのは鉄蔵だった。 

「おい斎藤十郎兵衛。阿波候お抱えの能役者さんよ。一度しか言わねぇから、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」 

「俺ぁ、おまぇの絵をさんざん下手だなんだとこき下ろしてきたが、そりゃぁ、ある部分ではおまぇに勝てねぇと思ってたからよ」 

「奇妙な絵だが、だからこそおめぇの絵は他の奴には描けねぇ」 

「てめぇのありのままを紙にぶつけてみろよ。そうすりゃおめぇの大首絵は天下を取れる」 

十郎兵衛は耕書堂に戻り、一昼夜籠もって絵を描きまくった(この紙にむかう十郎兵衛の鬼気迫るくだりは圧巻です)

翌日、十郎兵衛は蔦重に「このなかから選んでくれ。これが駄目なら、もう描けん」と言って紙の束を渡した。 

「そいじゃ見せてもらうぜ」
一枚目に目を落とした刹那、蔦重の顔付きが変わった。次々と紙を後ろにまわし、新たな絵を見てゆく。枚数を重ねるごとに、目を見開いた顔に笑みが綻びだし、最後の一枚を見るころには満面の笑顔となった。

写楽誕生の瞬間です。 

こんな物は絵じゃない

写楽の役者絵に対して「この絵を見ていると吐き気がする。こんな物は絵じゃない」と激しく拒絶する喜多川歌麿が鉄蔵(のちの葛飾北斎)と絵の本質を論争する場面も紹介しましょう。 

蔦重は写楽が何者であるか緘口令を敷いたため、歌麿はなんとか探り出そうと試み、鉄蔵を呼び出す。 

「あんたの願いをひとつ聞く。だから私の願いをひとつ聞いてくださいよ」
「金ならねぇぞ」
「あんたにそんなこと頼みませんよ」
「だったらなんでぇ」
頬を膨らませて、鉄蔵が顎を突き出す。
「東洲斎写楽が誰なのか教えてくれませんか」
「ほぉ……」
鉄蔵が似合わぬ深い声を吐いた。窺うような目付きで下から歌麿の顔を見上げながら、小汚い男が問いかけてくる。
「なんで写楽のことなんか聞くんだよ」
(略)
「あんなに汚らしい絵を描くのが誰か、知りたいと思いましてね」

美醜について応酬がしばらく続いた後、鉄蔵は言い放った。 

「現にお前ぇの心は写楽の絵の所為で激しく揺さぶられてんじゃねぇか。醜かろうとなんだろうと、お前ぇは写楽の絵に心が動いた。だから俺に写楽が誰なのか問うたんだ。違うか」
(略)
「心が動いちまった時点で、お前ぇは写楽の絵を認めちまってんだよ」
「認めてる……。私が」
「認めちまってるからこそ、そんだけ反感を覚えてんだろ」
「認めてないから憤りを覚えているのですよ」
「そんなものは屁理屈だ」

このあと歌麿は鉄蔵から名前を聞き出した斎藤十郎兵衛とも”直接対決”するのですが、その応酬は「とんちき」でお確かめください。 

文庫版のあとがきで、文芸評論家の細谷正充氏はこう書いています。 

第六章では、当代一の人気浮世絵師・喜多川歌麿が、写楽の絵を激しく嫌いながら、その正体をつかもうとする。その心の奥にあるのは、自分にない世界を持つ創作者に対する嫉妬だ。漫画の神様といわれる手塚治虫は、新たな才能を持つ若い漫画家を、常に意識していたという。功なり名を遂げようとも、創作者の業はなくならない。 

写楽の本当の正体は

写楽については、先にウィキペディアで紹介したとおり「阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛とする説が有力」ということですが、以前は「写楽=斎藤十郎兵衛」説は決して有力ではなかったようです。 

高橋克彦氏のデビュー作で江戸川乱歩賞受賞作の「写楽殺人事件」(1983年、講談社文庫)では、次のように出てきます。 

戦前までは全く疑われることのなかった阿波の能役者斎藤十郎兵衛説がある。これは「浮世絵類考」に記載されている人物であるから、別人説に含まれることがない。昭和十年代まで全ての研究者がこの記載を信じ、今でも徳島の本行寺には写楽の墓まで存在する。だが、その後の研究から、能役者説は根拠が全くないと否定された。墓も、写楽ブームで沸いていた頃に、ほとんど検討もされないままに認められたもので、その唯一の証拠とされた本行寺の過去帳も、あとになって新たに作成されたものと判明した。信じられていた能役者説が崩れさり、ここからさまざまな別人説が生まれることになったのである。 

高橋克彦「写楽殺人事件」(講談社文庫)

謎の絵師といわれた東洲斎写楽は、一体何者だったか。後世の美術史家はこの謎に没頭する。大学助手の津田も、ふとしたことからヒントを得て写楽の実体に肉迫する。そして或る結論にたどりつくのだが、現実の世界では彼の周辺に連続殺人が起きていて――。第29回江戸川乱歩賞受賞の本格推理作。

もっとも、ウィキペディアによれば「研究によって斎藤十郎兵衛の実在が確認され、八丁堀に住んでいた事実も明らかとなり、平成時代には再び写楽=斎藤十郎兵衛説が有力となっている」ということだそうです。 

いずれにしても、写楽の絵には多くの人を惹きつけてやまない魅力があることだけは確かでしょう。 

来年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でも、当然、写楽は登場するはずです。

「写楽=十郎兵衛」説に依拠して脚本は書かれるのか。誰が写楽を演じるのか。あの大首絵を描く場面は、はたしてどんなふうに演じられるのかーー。今から想像を膨らませているところです。 

(しみずのぼる) 

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