来年のNHK大河ドラマ「べらぼう」が楽しみ…谷津矢車「蔦屋」

来年のNHK大河ドラマ「べらぼう」が楽しみ…谷津矢車「蔦屋」

来年のNHK大河ドラマは「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ーー江戸中期の出版人・蔦屋重三郎と彼を取り巻く文化人たちを描く歴史ドラマです。その予習も兼ねて谷津矢車氏の「蔦屋」(文春文庫)を読みました。出版文化の発展にこんなドラマが隠されていたなんて!そんな驚きの内容でした(2024.11.15) 

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蔦屋重三郎の波乱万丈の生涯

まずは、NHKの大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のホームページから。 

日本のメディア産業、ポップカルチャーの礎を築き
時にお上に目を付けられても面白さを追求し続けた人物
“蔦重”こと蔦屋重三郎の波乱万丈の生涯。
笑いと涙と謎に満ちた“痛快”エンターテインメントドラマ!

https://www.nhk.jp/p/berabou/ts/42QY57MX24/ 

う~ん、これだけだと蔦屋重三郎がどういう人物か、いまひとつわかりませんね。 仕方ありません。”種明かし”も兼ねて、別のムックから引用しましょう。 

作者や絵師に作品依頼をし、企画を生み出した版元、中でも多くのヒット本を手掛け、歌麿、写楽など現在でも名の知れる絵師の才能を見出したのが、いわゆる「蔦重」、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)だった。 

「八犬伝」のムック本

”種明かし”というのは、このムックを読んだきっかけは、先に紹介した映画「八犬伝」なのです。 

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hintnomori.com

滝沢馬琴(曲亭馬琴)の「南総里見八犬伝」に興味を持ち、「南総里見八犬伝と江戸の流行りもの」(宝島社刊)というムックを購入しました。 

「南総里見八犬伝と江戸の流行りもの」(宝島社刊)

このムックはとてもおもしろくて、見出しだけ拾っても、 

  • 八犬伝は江戸版”戦隊ヒーロー”! 
  • 失明しても創作に命を燃やし続けた曲亭馬琴 
  • 八犬伝の挿絵を描いた絵師とは? 
  • 八犬伝の類似本とグッズ 
  • 八犬伝ゆかりの地 

という具合で、どのページも飽きさせません。「八犬伝の類似本とグッズ」をみると、 

大ヒット作が生まれたら、関連グッズがあまた生まれるのは、消費者の市場のニーズがあるからこそ。続編や類似作、パロディ、ダイジェスト版についても同じことが言え、このような現象は江戸時代にもあった。
(略)
長編小説の宿命でもあるが、八犬伝を全編読破した人は、実はさほど多くはなかったとも考えられる。
それにもかかわらず、大衆が大筋や名場面を認知していたのは、ダイジェスト版の絵草紙や錦絵、歌舞伎、芝居などを通して物語に接してたからで、馬琴の存命中に八犬伝ファンの最大多数を占めたのはこうした層だった可能性も否定できない。

と記しています。この「絵草紙や錦絵」にかかわるのが版元ーーいまの出版業ーーで、 

庶民を惹きつけた出版業もまたハイレベルを極め、本の挿絵ひとつにおいても、構図、画力、製作技術とともに度肝を抜くものだった 

のです。江戸の出版事情を掘り下げたページで「ヒット作を連発した江戸時代のメディア王」として紙幅が割かれていたのが蔦屋重三郎でした。 

地本問屋・小平衛から描く

このムックを読んで興味を持ち、手に取ったのが谷津矢車氏の「蔦屋」(文春文庫)です。 

谷津矢車「蔦屋」(文春文庫

2025年、NHK大河ドラマは「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。その主人公である江戸の出版プロデューサー・蔦屋重三郎の波瀾万丈人生を描く、傑作歴史長編小説! 
寄る年波には勝てず、店仕舞いしようとしていた地本問屋・丸屋小兵衛のもとを、才気迸る若い男が訪ねてくる。この店に毎年二十両払うから、雇われ人となって自分を手伝ってほしい、という申し出に面食らう小兵衛。 
「一緒にやりませんか。もう一度この世間をひっくり返しましょうよ」 
その男こそ、吉原随一の本屋、飛ぶ鳥を落とす勢いの蔦屋重三郎だった――。 
飲むときはとことん飲み、遊ぶときはとことん遊ぶ。商売の波に軽々と乗り、つねに新しいものを作りたい、と意気込む重三郎。重三郎の周りには、太田南畝、朋誠堂喜三二、山東京伝、恋川春町ら売れっ子戯作者や狂歌師が出入りするが、腐れ縁の絵師・喜多川歌麿には、特別な感情をもっている。 
やがて松平定信による文武奨励政治が始まると、時代の流れは予期せぬ方向へ――。 
蔦屋重三郎の型破りの半生を、父親ほども年が離れた小兵衛を通して描く。最強バディが江戸の街を闊歩する、極上エンターテインメント小説。

「蔦屋」は小説ですが、主人公の丸屋小兵衛を含め、登場人物はすべて歴史上の実在の人物です。 

吉原で会う六樹、寝惚、喜の字…

吉原で生まれ育った蔦屋重三郎は、吉原にどんな遊女がいるか、遊女の揚げ代はいくらかなど、吉原遊びに欠かせないガイドブック「吉原細見」を毎年春と秋に発行して版元「耕書堂」の足場を作った。 

重三郎は連日、小兵衛を吉原に連れて行き、吉原遊びにつきあわせた。 

そんな最中、
「おう、来たぜ」
襖が開き、大の大人が二人、足音高く部屋に現れた。一人は年の頃三十そこそこで青地の羽織に白の絣(かすり)を合わせる町人髷の男、もう一人は年の頃三十半ばほどで鼠色の着物を着流しにした武家髷の男だった。
重三郎は二人を見上げ、楽しげな声を上げた。
「おお、来ましたね。六樹(ろくじゅ)さんに寝惚(ねぼけ)さん」

翌日には、六樹と寝惚に「喜の字さん」が加わった。四十歳代後半、武家髷の男だった。 

「いやあ、寝惚さん、済まないねえ。最近表の仕事が忙しくて」
「でも喜の字さん、あんたいつも吉原に来てるんでしょう」
(略)
小兵衛は重三郎の脇をつついた。
「ありゃあ、誰ですかい」
「喜の字さんですが」
「そういうことじゃなくて、あの人は何者なんですかい。それだけじゃない。寝惚さんもそうだ、六樹さんもそうだ。なんなんだ、ここにいる人たち?」

勇助が描く土イナゴの

その謎が解けるのは、小兵衛が重三郎から預けられた絵師の勇助に書かせた土イナゴの絵を持って、吉原で重三郎と会った時だった。 

そのイナゴの姿は、先達の画風を脱皮して飛び立とうとする、勇助の気宇とも重なっている気がした。
ほう、と重三郎はため息をついた。
「悪くない。いや、この言い方は素直じゃありませんね。いい絵です。でも、心配が一つ。ーーこの絵、売れますかね。本草書の挿絵ならまだしも」
「売れる」小兵衛は言い切った。「男は虫を見ると子供の時分を思い出すそうじゃないか。この絵、大人に流行るかもしれん。それに」
小兵衛は言った。
「絵師がこれほどのものを描いた。それに応えるのが、版元の務めだろう」

その時、小部屋の襖が開いた。入ってきたのは「喜の字」だった。 

「あれ、一番乗りか。どこに座ったらいい? 蔦重」
「どこでもいいですよ、喜三二(きさんじ)さん」
小兵衛の中で、何かが弾けた。思わず重三郎の脇をつついた。
「もしかして、喜の字さんってェのは」
「はい。朋誠堂喜三二です」
「なんだって」

朋誠堂喜三二ーー狂歌師、戯作者。享保20年(1735)~文化10年(1813)。絵師の恋川春町が挿絵を描き、黄表紙も数多く手がけた(「南総里見八犬伝と江戸の流行りもの」より、以下同) 

また障子が開いた。今度は六樹だった。
「よお。おいらはどこに座ったらいい?」
「はいはい、飯盛(めしもり)さんは喜三二さんの横に座ってください」
小兵衛はむせた。

宿屋飯盛ーー狂歌師、戯作者。宝暦3年(1754)~文政13年(1830)。大田南畝らのもとで狂歌を学ぶ。重三郎と組んで狂歌絵本を刊行 

また障子が開いた。もう何があっても驚かんぞ、と身構えて小兵衛が見やった先には、口角を片方だけ上げた寝惚が立っていた。
「おう、蔦重。ーー全員揃ってるじゃねえか。じゃあさっそく」

重三郎は「狂歌集を編みたい」と切り出した。そして、小平衛が持参した勇助の土イナゴの絵をみせた。 

「ゆくゆくはこれを使います」
「挿絵です。狂歌集に絵師の絵を入れて彩にするんです」

宿屋飯盛が「凝った趣向ですなあ。狂歌は元々季語が抜けやすいもんだから、なおのこと、季節を感じさせる風流があると映えるんじゃないかねえ」、朋誠堂喜三二が「数寄の心をくすぐる絵だな」と同調すると、寝惚も最後に首を縦にふった。 

「いいだろう。じゃあ、この大田南畝、あんたにまた自作の狂歌を預けるとしようじゃねえか」
何事にも驚かないと自らに言い聞かせていても、さすがに寝惚の口から飛び出した名前には、小兵衛も腰を抜かした。

大田南畝ーー狂歌師、戯作者。寛延2年(1749)~文政6年(1823)。天明期(1781~89)を代表する狂歌師。戯作者や学者など、マルチな才能を発揮 

こうして勇助ーー喜多川歌麿の挿絵が入った狂歌絵本は、蔦屋重三郎の耕書堂の大ヒット作となった。 

喜多川歌麿ーー絵師。宝暦3年(1753)?~文化3年(1806)。美人画を得意とし、重三郎と組んで大首絵を刊行 

こんなふうに江戸中期に活躍した実在の狂歌師、戯作者、絵師が次々と登場します。蔦屋重三郎の人的ネットワークのすごさ、稀代の出版プロデューサーぶりが丁寧に描かれています。 

「新しいことをやりましょう

もうふたり紹介しましょう。ひとり目は、重三郎のもとへ煙草を届ける伝蔵。小兵衛が伝蔵の長屋へ訪ねてくる場面です。 

「して、今日はいったい何用で」
「ああ、重三郎さんからの託だ」
「聞こうか」
「そろそろ、新しいことをやりましょう、とのこと」
すると、伝蔵の目が光った。
「また重三郎さんは仕掛けるのか」
「そのために、伝蔵さんのお力が必要なんだと。ーーこの場では、別のお名前でお呼びしたほうがいいでしょうな。山東京伝先生」

山東京伝ーー絵師、戯作者。宝暦11年(1761)~文化13年(1816)。多くの本を重三郎が版元となり出版。絵師名は北尾政演 

もうひとりは、吉原で朋誠堂喜三二と一緒にいた人物です。 

「ときにあんた、俺のこと、覚えてるかい」
「ええもちろん」
「そもさん、俺はいったい誰だい?」
おどけた口調で男は問う。
小兵衛は答えた。
「説破、酒上不埒(さけのうえふらち)先生でしょう」
「ご名答」酒上不埒はうれしげにわらった。「あんまりあんたとは顔を合わせていないはずなんだが」

酒上不埒にはもうひとつ別の名があるのですが、それは後でわかるので、重三郎が山東京伝に言った「新しいこと」の場面です。時の老中が田沼意次から松平定信に代わり、風紀粛清の嵐を吹き始めた頃です。 

風紀粛清に戯作で対抗

いつもの吉原の小部屋に招かれたのは、山東京伝、朋誠堂喜三二、酒上不埒の3人。重三郎が3人の前に取り出した半紙には、ひとつの狂歌が書かれていた。 

「白河の 清きに魚も すみかねて 元の濁りの 田沼恋しき」 

「沼に住む泥鰌や鯰を詠った歌のように見せかけて、今の世相を揶揄した内容なわけか」 
白河が松平定信の領地であると踏まえれば、田沼意次の放漫な政治に慣らされた江戸の人々が定信公の仕法に苦しめられている、そんな皮肉になる。

重三郎が「今、吉原で流行している狂歌です」と説明した。 

「もしも、この狂歌の言わんとすることが的外れなら、こうしてあたしの目に留まることもなく、すぐに消えていったはずです。この狂歌が今も人の口の端に上っているということは、つまり」
「この歌に、人の心を捉える何かがあると」
「そういうことです」

ある小藩の江戸留守居役を務める朋誠堂喜三二が「うちの連中も、”ぶんぶといって夜も眠れず”と苦笑いしているところだ」と言うと、重三郎はこう提案した。 

「そこで、思いっきり定信公の政を馬鹿にしてやればいいんじゃないかと思ったんです」

「そんなこと、正面切ってやれば大変なことになるぞ」

「真っ向からやらなければいいんです。それがための草双紙です。定信公の政を真っ正直にあげつらえばお上からのお叱りは必定です。が、草双紙はあくまで物語ですから、躱す方法はいくらでもあります。たとえば時代を過去に移すんです。そうすれば、定信公のことを書いたわけじゃないと言い訳ができる。もし文句を言ってきたら『図星でもおありですか』と皮肉で返せます」

朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』

最初に引き受けたのは朋誠堂喜三二で、喜三二が書いた『文武二道万石通』(ぶんぶにどうまんごくとおし)は大いに売れた。 

話の筋書きはこうだ。平和な世になり文武の衰微を憂う源頼朝のために、忠臣の畠山重忠が一計を案じる。その進言のままに、武士を箱根に集め、文に優れる武士、武に秀でる武士を選別し、どちらにも秀でない『のらくら武士』たちに『文とも武ッとも言ってみろ』と頼朝が叱りつける。

この筋書きは現実の鏡そのものだった。
松平定信は文武に優れた武士を顕彰し、過去に不届きのあった武士にお叱りを下している。定信を、ある場面では畠山重忠になぞらえ、ある場面では源頼朝に仮託して、万石通しで米の実りを選り分けるように武士を査定する、昨今の文武奨励策をあげつらったのが『文武二道万石通』だった。

酒上不埒の正体と『鸚鵡返文武二道』

しかし、喜三二の周辺はにわかにきな臭くなった。喜三二は主君から「もし斯様なものを書き続けるのならば、留守居役のお前といえど守りようがなくなる」と釘を刺された。そして、重三郎が依頼した続編の執筆を断った。 「もう、書けない。書けば、殿にまで火の粉が降りかかりかねない」 

これを聞いていた酒上不埒が「これだから、お武家暮らしは面倒なんだよな」「うちは跡取りがいるから、いつでも跡目を譲って隠居できる」と言って、続編を引き受けた。

小兵衛が口を挟んだ。
「不埒さん、あんた、そもそも戯作なんて書けるのかい? 狂歌と絵が描けるのは知ってるが」
不埒はヘッと笑った。
「おいら相手にそれを言うのは、少々身の程知らずじゃねえかい?」
ああ。重三郎は思い出したかのように手を叩いた。
「小兵衛さんには言ってませんでしたか。不埒さん、戯作もやってるんですよ」
初耳だった。耳を何度もしばたたく小兵衛をよそに、重三郎は続けた。
「ご存じでしょ。恋川春町さんって。不埒さんの戯作者としての名前です」

 恋川春町ーー延享元年(1744)~寛政元年(1789)。多彩な分野で活躍した文人武士グループの主要メンバー 

「不満は?」
不埒、もとい恋川春町が悪戯っぽく口角を上げる。
「ない……、だが一つだけ」
小兵衛は机を叩いた。
「なんであんたら、大事なことをいつも俺に隠すんだ」
そっちの方がおもしろいからに決まっているでしょう? と重三郎は言い放った。そして、喜三二も不埒もその場で笑い転げた。

恋川春町が執筆したのが『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)だった。 

文武の奨励を受け、町に出て辻斬りならぬ木刀での辻打ちを始めたり、女郎を馬に見立てて馬術の稽古に勤しみ、女郎で馬の稽古ができないと知るや「これがお上の命令ぞ」と言い放ち、市中の男女を引き倒して馬の稽古に精を出す武士の狂瀾が描かれている。定信の文武奨励策の行き着く先を穿ち、あげつらい続けている。そして、この軽佻浮薄の世に右往左往する武士を辛辣に難じていた。

江戸中の人間が、文武奨励策に怒っていた。春町は、その怒りを戯作で代弁してみせたのだ。
この本は一万五千部を売り切る、空前の流行を見た。

言論弾圧と恋川春町の最期

その後に彼らを襲う凄烈な言論弾圧は、くだんのムック本から引用しましょう。 

重三郎が発行した3冊も、「風紀や秩序を乱した」として禁書となり、重三郎は重過料(罰金刑)に、作者の山東京伝も両手に手鎖をはめられて謹慎する「手鎖50日」に処せられた。ほかにも、朋誠堂喜三二の本が執筆停止、恋川春町の本が絶版処分になるなど、重三郎の文化人ネットワーク内でも処罰された者がいた。 

ここに書かれていないので、恋川春町についてはウィキペディアで補います。 

黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789年)幕府から呼び出しを受ける。春町は病気として出頭せず、同年4月24日には隠居し、まもなく同年7月7日(1789年8月27日)に死去したという。自殺と推測する説もある。享年46。 

恋川春町の最期は、谷津矢車氏の「蔦屋」でも圧巻のくだりですが、これは「蔦屋」でお確かめください。 

ほかにも葛飾北斎東洲斎写楽、(ほんのわずかですが)滝沢馬琴も登場します。ぜひ手に取ってほしい一冊です。 

谷津氏は文庫のあとがきで、次のように書いています。 

二〇二三年、横浜流星氏が蔦屋重三郎を演じる大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の制作が発表され、文庫化の話が持ち上がった。
(略)
『べらぼう』で蔦屋がどのような味付けをされるのか、蔦屋重三郎を主人公に小説を書いたわたしにも読み切れないところがある。一年間付き合う主人公として、こんなに相応しい存在はあるまい。

恋川春町は誰が演じるのだろうか…などなど、今からとても楽しみです。 

(しみずのぼる) 

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