きょう紹介するのは桜庭一樹さんの小説「伏 贋作・里見八犬伝」(文春文庫)です。副題でわかるとおり、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」をベースにした二次創作ものですが、原作をいい意味で換骨奪胎していて、原作とはまた違った魅力を放っています(2024.11.4)
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現在上映中の映画「八犬伝」(監督・曽利文彦)は大変好評のようです。先日観に行って、その感想は記事にしました。
映画のパンフレットにこう書かれています。
唯一無二の奇想天外な物語で、日本のファンタジー小説の原点と称せられる「南総里見八犬伝」。1842年に完結してから200年近くの時を越え、今なお漫画、アニメ、映画、舞台、歌舞伎と多彩なジャンルで二次創作が行われるなど、現代のエンターテインメントに多大な影響を与え続けている。
このくだりを読んで最初に思い浮かんだのが、桜庭一樹さんが2010年に発表した「伏」でした。
名前は一緒でも役柄が違う
「伏」のあらすじを紹介しましょう。
伏ーー人であって人でなく、犬の血が流れる異形の者ーーによる凶悪事件が頻発し、幕府はその首に懸賞金をかけた。ちっちゃな女の子の猟師・浜路は兄に誘われ、江戸へ伏狩りにやってきた。伏をめぐる、世にも不思議な因果の輪。光と影、背中あわせにあるものたちを色鮮やかに描く傑作エンターテイメント。
にんべんに犬と書いて「伏」(ふせ)です。八犬伝を知っている人は「ああ、伏姫(ふせひめ)の伏ね」と思うでしょうが、主人公のほうはというと「浜路? 確か、そんな名前の登場人物がいたような気はするけど、誰だっけ?」と思うのではないでしょうか。
実は、主人公の浜路だけでなく、桜庭さんの「伏」の登場人物の大半は「南総里見八犬伝」(以下「八犬伝」)の登場人物たちです。
ところが、大きく異なるのは、八犬伝の人物たちとは、人間関係がメチャクチャなのです。
例えば、「伏」で伏狩りを行う浜路の兄の名前は「道節」ーー「八犬伝」では八犬士のひとりと同じ名前です。「八犬伝」で敵方として登場する「船虫」は、「伏」では浜路や道節が通う一膳飯屋のおかみ、といった具合です。
馬琴の息子が書く「贋作」
もっと驚くのは、滝沢馬琴の息子です。
映画「八犬伝」では病弱で家で臥せっていることが多く、馬琴よりも先に死んでしまいます。そんな薄幸の役を磯村勇斗さんが熱演していますが、「伏」では馬琴の手足となって安房国で伏姫伝説を集め、自らが「真相はこうだったに違いない」と思うことを「贋作・里見八犬伝」の題名で執筆する瓦版の記者として出てきます(当時は記者という言い方ではなく「読売」と言います。読売新聞はここから社名を取っているんですね)
「八犬伝」の登場人物と「伏」の登場人物を整理して記すと、次のようになります(「八犬伝」の登場人物は映画パンフレットから)
【八犬伝】
- 犬塚信乃(しの):「孝」の珠を持つ。里見家を救うため名刀村雨と共に戦いに挑む
- 犬坂毛野(けの):「智」の珠を持つ。女装の策で、玉梓(たまずさ)に操られた関東管領・扇屋定正を狙う
- 犬飼現八(げんぱち):「信」の珠を持つ。芳流閣で信乃と死闘を繰り広げる豪放な男
- 犬江親兵衛(しんべえ):「仁」の珠を持つ。里見家に仕えた夫婦に育てられた最年少の八犬士
- 犬山道節(どうせつ):「忠」の珠を持つ。主君を滅ぼした扇屋定正を狙う火遁の術の使い手
- 浜路(はまじ):信乃を慕う幼なじみ。後に運命が大きく動く
【伏】
- 浜路:十四歳の猟師。道節の異母妹
- 道節:江戸のおんぼろ長屋に住む浪人
- 信乃:若衆歌舞伎役者の犬人間
- 凍鶴(いてづる):吉原の花魁。美貌の犬人間
- 親兵衛:凍鶴の息子。犬人間
- 毛野:さらし首になった犬人間
- 雛衣(ひなぎぬ):日本橋の大店の娘。犬人間
- 現八:医者。大柄な犬人間
八犬士のひとり(道節)は伏を狩る浪人ですし、ひとり(毛野)は物語の冒頭でさらし首になって登場します。「八犬伝」の役柄とまるで違うことに驚くでしょう。
狩られる伏に惹かれる
「八犬伝」について、映画で役所浩司さん演じる滝沢馬琴が次のように語る場面が出てきます。
「悪が蔓延る世の中だからこそ、物語の中だけでも勧善懲悪を貫くのだ」
桜庭一樹さんの「伏」は、登場人物の名前は拝借しながら役柄をシャッフルさせることで、誰が悪役なのかわからない、「勧善懲悪」とは異なる物語に仕立て直したかったのではないでしょうか。
というのも、「伏」を読むと、伏を狩る側の浜路や道節よりも、狩られる側の伏たちに気持ちが揺さぶられるからです。
信乃や(さらし首になる前の)毛野たちが、馬琴の息子が書いた「贋作・里見八犬伝」を読んで、伏姫と犬の八房(はちふさ)が十年の歳月を過ごした「銀の葉の森」の存在を知り、そこへみんなで出かけた時のことが、信乃が浜路に語る形で出てきます。
ふいに視界が開けたと思ったら、見渡すかぎりの気持ちよい草原に出た。
そこが、伏姫が幼いころに駆けたという、『贋作・里見八犬伝』に登場した草原だと一目でわかったぜ。
(略)
俺たち八匹はしばし立ち尽くしていた。
それからふいに俺が叫び声を上げた。するとそれにつられて、凍鶴もなんともいえない声で唸った。現八も親兵衛も狂ったように吠えたてた。
誰しもここにくるのは初めてで、しかし、奇妙に覚えのある風景と思えたのだ。
なんと、
懐かしい、
と、同時に、犬の心が爆発した。
走りだしたのは、子どもの親兵衛か。それとも俺か。凍鶴か。いまではもう思いだせない。だがともかく、俺たちは獲物に向かって駆ける獣のように、知らず両腕を地面にべたりべたりとつけ、四本足の姿で風のように駆け、夜空の向こうに淡くまんまるく光る、銀の葉の森……すべての始まりの場所に一心不乱に近づいていったのだ。「おとっつぁーん!」
と叫んだ声が、どの伏のものだったか。
「おっかさーーん!」
と呼んだ声が、だれの喉から出たのか。
それもいまじゃわからねぇ。俺だったのかもしれねぇ。毛野かもしれんし、凍鶴かもなぁ。
暗い森に、八匹の伏の吠える声がどこまでも木霊していったよ。
なぜ、自分たちのような異形の存在が生まれたのだろう……。人間たちに狩られながら自問する伏たちが、伏姫や八房を「俺たちのおとっつぁんとおっかさん」と呼ぶ場面は涙を誘います。 後述する漫画版の脚色構成を担当した続真琴さんが「大江戸版ブレードランナー」と書いていますが、言い得て妙です。
原作と異なるアニメと漫画
桜庭一樹さんの「伏」はアニメ映画になり、漫画化もされています。
アニメ映画は未見ですが、下記の予告編をみると、狩るもの(浜路)と狩られるもの(信乃)の淡い恋心が描かれているようです。
一方、全4巻の漫画版(作画・hakus、脚色構成・続真琴)は、道節がなぜ伏狩りに執念を燃やすのか、信乃がひそかに狙う計画は何か、といった桜庭さんのオリジナルにはない要素が丁寧に織り込まれています。
吉原の花魁・凍鶴(原作は「凍鶴」としか出てきませんが、漫画版では本名は「小文」と出てきて、八犬士のひとりーー「悌」の珠を持つ犬田小文吾を連想させます)が、浜路にこんなふうに語る場面が出てきます。
もしも…もしもだよ
伏と人間が共存できる方法があるとしたら…
あんたはどうするね
こんな場面も、また浜路が凍鶴との死闘の末に「伏と人間が共存できる方法」を追求しようとする物語の展開も、桜庭さんの「伏」にはまったく出てきません。
脚色構成を担当する続真琴さんは1巻のあとがきで、次のように書いています。
毛野を浜路がぶっ殺していたり道節が極悪あんちゃんになっていたり、原作既読の方は原作からの大幅な脚色に驚かれたことでしょう。
(略)
「人と伏」「狩るものと狩られるもの」「兄と妹」「姉と弟」「平穏と乱」あらゆる陰と陽のコントラストが「大江戸版ブレードランナー」とも呼べる軽快なエンターテイメントを通じて語られる。
そんな原作の持つ魅力を十二分に引き出し、原作未読の方は勿論、原作ファンの方にも気に入って頂けるような作品を目指して、持てるすべてをぶつけて行こうと思います。
人と伏、その因果の果てには何があるのか?この不穏な江戸で起こる伏狩りの顛末を、浜路とともに見届けて頂けたら幸いです。
原作とも映画版とも違う、「浜路」の物語を、どうぞ最後までお楽しみください。
「八犬伝」の二次創作が桜庭さんの「伏」なら、漫画版「伏」は桜庭さんの「伏」の二次創作…とも言えるストーリーです。
たいへん好評な「八犬伝」を観て楽しみ、「八犬伝」の世界に惹き込まれたら、ぜひ桜庭さんの「伏」も手に取って頂けたらと思います(さらに漫画版「伏」も……)
伏姫と八房が生み出した、また別の物語世界に心躍ること請け合いです。
(しみずのぼる)
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