きょう紹介するのはイギリスの児童文学作家フランシス・ハーディングの「嘘の木」です。ひとりの少女が〈嘘の木〉を使って探り当てる父の汚名と死の真相は……。途中からページをめくるのがもどかしくなる小説です(2024.9.4)
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最初に「嘘の木」(創元推理文庫)のあらすじを紹介します。
高名な博物学者のサンダリーによる大発見、翼のある人類の化石。だがそれが捏造だとの噂が流れ、サンダリー一家は世間の目を逃れるように島へ移住する。だが噂は島にも追いかけてきた。そんななかサンダリーが謎の死を遂げ、父の死因に疑問を抱いた娘のフェイスは密かに調べ始める。父が遺した奇妙な手記、嘘を養分に育ち真実を見せる実をつけるという不思議な木、フェイスは真相に辿り着くことができるのか。19世紀イギリスを舞台に、時代の枷に反発し真実を追い求める少女を生き生きと描いた、コスタ賞大賞・児童書部門W受賞の傑作
最後のコスタ賞…以下のところは、文庫のカバーの著者経歴でも補いましょう。
2015年、7作目にあたる『嘘の木』でコスタ賞(旧ウィットブレッド賞)の児童書部門、さらに同賞の全部門を通しての大賞に選ばれるという快挙を成し遂げ、米国のボストン・グローブ・ホーンブック賞も受賞、カーネギー賞の最終候補にもなった。
でも、「嘘の木」は、とても児童書とは思えません。ヤングアダルト小説だとは思いますが、これは大人が読んでも十分読むに耐え得る優れた小説です。
頭蓋骨のコレクション
何より、時代背景の設定がすごいのです。19世紀後半、ダーウィンの進化論で信仰と科学の対立に揺れ、さらに、女性は男性より劣る存在と思われた時代を物語の舞台にしているのです。
例えば、島の老医師が主人公に自身のコレクションについてひけらかす部分です。
「頭蓋骨のコレクションがあるんですよ。あなたのような若いお嬢さんを怖がらせるためではなくて、人間の脳と知性の源についての論文を書いているんです。患者の頭の大きさも計測しています」
(略)
「頭蓋骨が大きければ大きいほど脳も大きく、それだけ知性があるということなのです」医師は自分の研究について熱っぽく語りつづけた。「男性と女性の頭蓋骨の大きさのちがいを見ればわかるでしょう。男性の頭蓋骨のほうが大きくて、それだけ知的だということを示しています」そこまでいってから、たとえがうまくなかったことに気づいたようで、あわててつけ加える。「女性の頭の働きはまた別ものですからね。女性は、生まれながらにきわめて魅力的にできています。ですが、知恵をつけすぎると、その魅力が損なわれて台無しになってしまいます。スフレに石を入れるようなものです」
付け加えたたとえもひどいもんです。でも、そういう時代は確かにあったのでしょう。
そして、そんな生きにくい時代にあって、主人公のフェイスは、博物学者の父を心から尊敬し、父のように自分もなりたいと渇望し、自然科学への興味関心をひとりで育むものの、そんな自分自身を表にすることさえ憚られる14歳の少女です。
知的好奇心を表に出せない
この失礼な医師からコレクションの話を聞いた時も、フェイスは「では、先生は頭蓋骨測定者(クラニオメトリスト)なんですね?」と口にしてしまいます。
フェイスがその語を口にしたとたん、医師の笑みが消えた。またやってしまった。先生が楽しそうに説明していたのに、わたしが知りすぎていたためにぶちこわしにしてしまったのだ。「いまので……合っているでしょうか?」正しいのはわかっていたが、ごくりとつばをのみこみ、おずおずと言葉を継いだ。「あの……どこかで聞いたような気がしたものですから」
子供の頃は父親の本を読み、内容を理解するたびに喜び、本から得た知識を周囲の大人に口にすると、最初のうちは驚いて笑ってもらったが、そのうちに大人たちはフェイスを無視するようになった。「それからは、ほめられよう、まじめにとりあってもらおうとやっきになるのはやめにした。いまは、少しでも知的な会話に加えてもらえたらといじましく必死になっている。それでも、無知なふりをするたび、必死な自分がいやになる」
信仰と科学の対立で揺れる
女性を締め出して男性が議論を戦わせるのは進化論だった。
自然科学者は議論好きだ。会話はたちまち、進化論にまつわる議論に発展した。
(略)
「ラマルクとダーウィンは世界に大いなる過ちを犯させようとしています!」クレイはいいきった。「もし種が変化するというのなら、不完全な状態で創造されたということになる! 神そのものを批判するのと同じです!」
「だがな、クレイ、絶滅した獣の痕跡についてはどう考える?」ランバントが反論した。「マストドン! ホラアナグマ! オーロックス! 恐竜!」
「みんなノアの大洪水で絶滅したのです」クレイはちゅうちょなく答えた。「でなければ、似たような大災害で。神は何度かすべてをまっさらにして、いずれのときも、世界を享受する新たな種を創造されました」
「だが化石はーーほとんどがすくなくとも何万年以上も昔のものだ。大洪水よりずっと前だぞ」
「そんなことはありえません」クレイは頑として譲らない。「この世界ができてからどのぐらいたつのかは、聖書の記述によってわかっていることです。世界ができてから、六千年以上たっているはずはないのですよ」
長く引用したのは、信仰と科学の対立こそ、主人公の父が発見した翼のある人類の化石ー―〈ニュー・ファルトン・ネフィリム〉と名付けられた化石が、当初は「世紀の発見」と信じられ、途中から捏造疑惑が持ち上がることと関係するからです。
ネフィリムとは、
『創世記』第6章1–4節によれば、地上に人が増え始め、娘たちが生まれると、神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。こうして神の子らと人間の娘たちの間に生まれたのがネフィリムであった(ウィキペディアより)
というように、聖書に出てくる存在です。進化論に反駁する”物証”となる発見だけに、捏造疑惑は世間を巻き込むスキャンダルとなり、主人公たちがロンドンを逃れてヴェイン島に逃げるように移住するきっかけとなります。
父が遺した秘密の日誌
しかし、移住して間もなく父親が謎の死を遂げます。その前夜、フェイスは父に命じられて、夜の海をボートで漕いで、洞窟に何かを隠すのを手伝わされます。その作業を終えた後、父親はピストルも携行してどこかに出かけるのをフェイスは見ています。
誰かと会う約束があったのではないか。父はその者に殺されたのではないか。犯人の動機は、父が洞窟に運び込んだものと関係するのではないか……。
このあたりから、物語は俄然おもしろくなります。
父親が洞窟に隠したのは〈嘘の木〉と呼ばれる植物だった。父の遺した秘密の日誌にこう出てきた。
いわゆる偽りの木についてはじめて耳にしたのは、一八六〇年に中国南部を訪れたときだった。(略)そこで私は偶然にも、自然科学者のヘクター・ウィンターボーンという人物と知りあった。(略)
氏は当時、三年前にあやしげな伝説で知った植物に夢中になっていた。その植物はツル植物に似ているが、特殊な性質のかんきつ類のような実をつけるといわれていた。暗闇、すなわち光を遮断した環境で育ち、嘘を養分にしたときだけ花を咲かせて実をつけるという。
(略)
どうやって植物に嘘を養分として与えるのかと尋ねると、木に嘘をささやきかけ、その嘘を世間に広めるのだという答えが返ってきた。嘘が重要な事柄であればあるほど、信じる人が多ければ多いほど、大きな実がなるという。その実を食した者は、心の奥深くに抱えている事柄について、極秘の知識を得られるのだということだった。
父はウィンターボーン氏から〈嘘の木〉のありかを聞き出し、ロンドンに持ち帰り、そしてヴェイン島に持ち込み、フェイスの助けを借りて洞窟に隠したのだった。
「嘘がほしい?」「嘘をあげる」
父が殺されたのだと疑うフェイスは洞窟をふたたび訪れ、父を殺した犯人を捜すため、〈嘘の木〉に嘘をささやく。それは同時に、父を自殺したとみなして埋葬まで拒否する迷信深い島民への復讐でもあった。
「嘘がほしい?」フェイスは問いかけた。危険な動物にごちそうをやろうとしているみたいな気分だ。また飢えたオオカミのようにうなり声をあげるかもしれない。フェイスは身構えた。
人が信じたがる嘘を選ぶのだ。父はそう書いていた。
墓地での会話を思いだす。トムが、「霊を鎮めるために」父に杭を打ちこむといっていた。ハワードは迷信におびえ、時計はとめられ、鏡は布におおわれている。
「嘘をあげる」目を閉じてささやいた。「お父さまの幽霊が歩きまわる。お父さまをひどい目にあわせた人たちに復讐しようとして」
聖書を信じる人たちの世界にあって、「嘘」ほど許されぬものはないのでしょう。まるで悪魔に心を売り渡すかのようなフェイスの変貌にどきどきします。
自身の知的好奇心を必死で隠そうとしてきた健気な少女は、父の死の真相に迫るためというだけでなく、迷信深い頑迷固陋な社会に立ち向かうため、自らも今までの殻を破らないといけないと思い定め、「嘘がほしい?」「嘘をあげる」とささやいたのでしょう。
こうして主人公のフェイスは〈嘘の木〉が見せるヴィジョンに導かれながら、犯人と動機を探り当てていくのですが、紹介はこのあたりにしておきましょう。続きはぜひ本書を手に取ってお確かめください。
ただ背が高いだけなの
といっても、女性が貶められた時代背景については、もう一言だけ書き足しておきましょう。
冒頭紹介した頭蓋骨コレクションのくだりですが、父の死の真相がすべて明らかになった後、ある女性がフェイスにこう語る場面が出てきます。
わたしが結婚の申し込みを断ったら、あの人はすごく腹を立てて、女は知性に欠けていて自分の面倒もみられないくせにといったのよ。患者さんたちの頭蓋骨の計測結果を見せて証明しようとしたの。平均でいうと、男の頭蓋骨のほうが女の頭蓋骨より大きいって。
あいにく、記録のなかに患者さんたちのほかの計測結果も入っていてね。それを見てわたしはいってやったのよ。証拠のおかげで確信しました。見つけられるかぎりでいちばん背の高い人と結婚できるようにがんばります、とね。だって、背の高い人のほうがたいていは頭蓋骨も大きいじゃないの。あの先生も、背が高い人が自分より頭がいいわけじゃない、とはいえなかったのよ。そんなことをいったら、自分がわたしより賢いという主張が通らなくなるでしょう。
大きい人はたいてい頭も大きい。でも、男がわたしより頭がいいというわけでもないのよ、ミス・サンダリー。ただ背が高いだけなの
訳者の児玉敦子さんがあとがきでこう書いています。
フェイス以外の女性たちーー己の武器をつかってしたたかに生き抜こうとする母マートル、人の目を気にせずわが道を行くミス・ハンター、そのほかのさまざまな立場の女性たちーーの姿も印象的です。女性が表舞台に出ることなく、生きにくかった時代に、ひとりひとりがその人なりに必死に生きていたことが伝わってきます。最後にフェイスが夢想したように、当時の女性たちの人生の積み重ねが、いまのわたしたちへとつながっているのを感じ、胸が熱くなります。
私もとても胸が熱くなりました。おすすめです。
(しみずのぼる)
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