29歳の若さで世を去った棋士・村山聖(さとし)を描いた大崎善生氏のノンフィクション小説「聖の青春」と、その映画版を紹介します。最近テレビで本屋大賞作家が「号泣した本」と紹介していたので、これを機に多くの人に読んでもらいたい、観てもらいたいと思って取り上げます(2024.8.27)
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TBS「王様のブランチ」で紹介
テレビで取り上げていたと教えてくれたのは妻でした。

こないだテレビを観ていたら、本屋大賞作家がそれぞれ泣ける本をお勧めしていて、その中で「聖の青春」を紹介していたよ。懐かしいね~
ぼくら夫婦で「聖の青春」を最初に読んだのは妻でした。
もともと長男が将棋を好きで、その影響で妻も将棋好きになり、日曜午前にNHKで放送されるNHK杯でも、妻は生前の村山棋士の対局を観ていたことがあるそうです。2000年に単行本が出るとさっそく読み、

これ読んでごらん。ボロボロ泣いちゃった…
と言って渡されたのです。

重い腎臓病を抱えつつ将棋界に入門、名人を目指し最高峰リーグ「A級」で奮闘のさなか生涯を終えた天才棋士、村山聖。名人への夢に手をかけ、果たせず倒れた“怪童”の生涯を描く。第13回新潮学芸賞受賞。

2016年に映画化された時も、家の近くの映画館では上映していなかったので、池袋まで足を伸ばして夫婦で観ました。
でも、本が評判になったのは20年以上前ですし、映画が話題になったのも8年前です。

今ごろテレビで「泣ける本」として紹介したのは誰だろう?
そう思ってTVerで探したら、TBS系の「王様のブランチ」(8月24日放映)で、本屋大賞作家の町田そのこさんでした(一緒に出演していたのは凪良ゆうさん、瀬尾まいこさん)
町田さんにとって「聖の青春」は「生まれて初めて声をあげて泣いた本」だそうです。
本屋大賞作家の一言は大きいです。「聖の青春」がふたたび脚光があたったら嬉しいな…と思って取り上げるしだいです。
大崎善生氏のデビュー作
「聖の青春」の筆者は、先日惜しくも亡くなられた作家の大崎善生氏。大崎氏は雑誌「将棋世界」の編集長をされていて、村山聖とも個人的に親密な間柄でした。「聖の青春」は大崎氏の作家デビュー作となります。
村山聖は1969年に広島で生まれ、3歳から高熱を繰り返し、5歳でネフローゼと診断された。
腎ネフローゼは極度の疲労や発熱が誘因となって起こる腎臓の機能障害である。はっきりとした原因はいまだに解明されていない。
腎臓の果たす大きな役割のひとつに蛋白質を血液中に取りこむというものがある。ネフローゼを発病するとその濾過装置に異変をきたし、血液中に取りこまれるべき蛋白の大半が排尿という形で体外に流出してしまうことになる。
血液中の蛋白質には浸透圧の調整という重要な役割がある。体内の水分は蛋白質の濃度の低いほうから高いほうへと流れていく。
腎臓の濾過能力が低下し、血液中の蛋白濃度が薄れることによって浸透圧のバランスが崩れ、水分が各細胞へと流出しはじめる。その結果、顔や手足が異様にむくみ出すのである。
最悪のケースは肺に水分が流れ込む、肺水腫。呼吸困難に陥り死亡することが多い。
「聖の青春」からネフローゼの説明を長めに引用しましたが、村山聖は生涯、ネフローゼによる高熱と倦怠感に襲われながら対局を重ねることになります。
死と隣り合わせの環境
聖が将棋を覚えたのは、常に死と隣り合わせだった広島市民病院の入院生活でだった。父親が入院生活の気晴らしになればと様々なゲームを教え、その一つに将棋があった。
聖と同じ部屋に入院している女の子が死んだ。(略)広島市民病院の同室の女の子がいなくなったベッドの上で、聖は生まれてはじめて将棋を指し、その興奮に眠れない長い夜をすごしていた。
腎ネフローゼに冒され1年の半分以上を病院のベッドの上で暮らさなければならない少年の胸がわけもなくときめいていた。
小学1年は病院に併設された院内学級で過ごした。聖は母親にせがんで将棋の本を届けてもらった。
父親が「わかるんか。漢字なんか一つも読めんじゃろうが」と訊ねると、「漢字は読めんけど、でも大体のことは前後を何度も読みかえせばわかるんじゃ」と返して、むさぼるように読みふけった。
小学2年からは重病を抱えた子供たちのための療養学校に転校した。「腎ネフローゼはもちろんのこと、筋ジスとロフィーや再生不良性貧血、白血病といった難病と闘う子供たちが寄り添うようにひっそりと生活をし勉強をしていた」
日記には将棋のことばかりが綴られている。それ以外は、聖にとって毎日が「はれ」で気温は「22ど」なのである。
日記のなかに「今ごろからだんだん人がたいいんするのでさびしくなります」という一文があった。
たいいん、という言葉が病気の回復だけを意味しないということを聖は知っていた。療養所の生活には身近で日常的な死があった。
(略)
閉鎖された空間とすぐ側にある死への恐怖感、動かしたくても動かせない体や広げたくても広がらない環境への怒り…
死と隣り合わせの環境で、聖は将棋にのめりこんだ。
水滴で生きていることを確認
中学1年になる頃にはプロ棋士を目指し、中学2年から森信雄棋士を師匠に奨励会入りを果たす。親元を離れて大阪に移り、師匠の近くのアパートを借りた。
しかし、将棋の対局は十数時間にも及ぶのがざらだ。肉体的にも消耗するが、負けた時は精神的な消耗もそれに重なる。
そんなとき、村山は部屋にひきこもった。
蒲団にくるまり、ただひたすら体を休める。尿瓶のかわりのペットボトルを近くに置き、用はそこですませる。起き上がって、トイレにいく体力すら温存しなければならないのだ。
(略)
水道の栓をゆるめて、洗面器に張った水に水滴がポタポタとしたたるようにしておく。ポタッ、ポタッ、ポタッ。
そうやって自分が生きていることを確認する。また眠る。次に目を覚ましたときはおそらくは真夜中。街は静まりかえり、まるで漆黒の闇に抱かれているように何も見えない。体は鉛のように重く、頭に霞みがかかったように何もかもが漠然としている。
しかし、しばらくするとあの音が響いてくる。ポタッ、ポタッ、ポタッ。そして、村山は自分が生きていることを確認してまたひたすら眠る。
このような壮絶な闘病のくだりを知らないままでは、「東に天才羽生がいれば、西に怪童村山がいる」と並び称せられたライバル、羽生善治との闘いの凄さがうまく伝わらないように思うのです。
松山ケンイチの鬼気迫る熱演
2016年に製作された映画「聖の青春」(森義隆監督)は、原作の後半部分、プロ棋士となって上京して羽生善治と盤上の闘いを繰り広げる部分(と同時に進行性膀胱がんを発症し、不治の病をおして対局に臨む場面)にスポットを当てています。
この映画は村山聖を演じる松山ケンイチさん、羽生善治を演じる東出昌大さんの熱演により、非常に良質な映画に仕上がっています。特に、過酷な増量という肉体改造を課して演じた松山さんの映画に賭ける執念は鬼気迫るものがあります。
羽生善治との対局は、映画では主に2つの場面が出てきます。1つは福島・会津の旅館での対局で、この時は村山が快勝。そして映画のラスト、実際にもふたりの最後の対局となった、村山が息を引き取る5か月前の羽生との対局を忠実に再現しています。
前者の対局(実際の対局は1997年2月28日の「第10期竜王戦1組」)は、原作では、羽生自身の証言をもとにこう書かれています(棋譜は省略しながら引用します)
羽生はこの局面を自分に利があると読んでいた。
しかし、村山はここで羽生の読みを上回る好手を出す。まさに盤上この一手とも言える絶妙の強手であった。
その手を見て羽生は自らの形成判断の誤りに愕然としたという。
「村山将棋の最大の長所は感覚の鋭さにあります」と羽生は言う。
「棋譜を調べることによって得たうまさというよりも、それ以前の感覚的なセンスのよさがあり、指されてみればなるほどなと思うが、指されなければ気がつかずに通過してしまっている、というようなセンスのいい手が多いのです。その典型的な例が7五飛の一手で、私はこの手を一瞬も考えていませんでした。
指されてはじめて、自分では優勢と思っていた局面がそうではなかったことに気づかされました。大胆かつ緻密な好手で、村山さんの感覚の鋭さがよく出ている一手だと思います」
著者の大崎氏はこう続けます。
村山には見えない海を見ていた羽生は、羽生に見えない海を見る村山に畏敬の念を抱いていた。
いつか一緒にいけるでしょう
この「海」のたとえは、映画でも採用されています。最後の対局(実際の対局は1998年2月28日のNHK杯決勝)の場面にかぶさるように、ふたりが食事で交わした言葉が流れます。
羽生さんの見ている海はみんなと違う
でも村山さんとなら一緒にいけるかもしれない
そこはどんな景色なんでしょうねえ
いつか一緒にいけるでしょう
はい
映画では、松山さんも東出さんも実際の対局の棋譜どおり指し合って、2時間かけて撮影したそうです。
ふたりとも「僕の思考は全て消えたような気がします」(松山さん)、「表情なども演じていないんです。終盤に入ってからは頭の中は真っ白でした」(東出さん)と振り返るほどの場面です。
原作ももちろんいいですが、わたしは映画も最後の対局の場面がとても好きです。必読、必見です。
プロ棋士たちの寄せる言葉
2016年に妻と一緒に池袋での上映を観に行った時に買ったパンフレットには、映画に寄せる9人のプロ棋士のコメントが載っています。
その中から、泥酔する村山を自身の車で家まで送ったこともある佐藤康光九段(2016年当時、以下同)、映画では柄本時生さんが演じた先崎学九段、そして羽生善治三冠の言葉を紹介して拙文を終えたいと思います。
「命懸け」という言葉は自分には使えない(佐藤康光)
村山くんも松山さんのようなかっこいい方に演じてもらって、天国で恥ずかしがっているのではないでしょうか(先崎学)
彼の生きざまや周囲の人々の濃密な関係は時間の長さではなく密度だとも教えてくれます(羽生善治)
(しみずのぼる)
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