スーザン・ケイ「ファントム」の紹介もこれが最後です。「オペラ座の怪人」が描く〈怪人=エリック〉の哀しい愛の結末……。熱烈なファンであれば、その”続き”を知りたいと思うのは当然です。数多く描かれた後日譚の中でも、屈指の”続き”をファンに提示してくれるのがスーザン・ケイの「ファントム」です(2024.8.13)
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エリックが〈音楽の天使〉に
スーザン・ケイの「ファントム」(上下巻、扶桑ミステリー文庫=絶版・品切れ)については、過去2回の記事を先に読んでください。
前回の記事で紹介したペルシャ時代の後、エリックはパリの新オペラ座が建築されることを知り、設計者のシャルル・ガルニエと接触し、新オペラ座の建築に深くかかわるようになります(下巻「エリック1856-1881年」)
そして、ついにクリスティーヌと出逢います。
少女が歌い始めた途端、私は高圧電流の流れる電線に触れでもしたように、椅子から飛び上がった。
”なんて不思議
魔法にかかったように、たそがれが私を包む!
恐れなくも感じる
深くけだるい魅力は
調べとともに 纏い付き
私の心は 抗いをやめる……”その歌声は決してうまいとは言えなかった。いや、かなりひどいと言っていい。それでも私は耳を覆う気にはなれなかった!
完璧なピッチ、クリスタルのように澄み切った声音、高低どちらの声域にも弱さがないーーこの娘は、ほぼ完全な歌声をもっている!
それなのに、内面から歌うことを知らない!
こうしてエリックはクリスティーヌに夢中になり、彼女の〈音楽の天使〉となって、誰もがよく知る「オペラ座の怪人」の物語が始まるのです。スーザン・ケイの「ファントム」では「エリックとクリスティーヌのフーガ1881年」の章がこれにあたります。
「ファントム」には「ラウール1897年」という最後の章があります。
これこそが、「オペラ座の怪人」が描く〈怪人=エリック〉の哀しい愛の結末の”続き”の部分というわけですが、その紹介をする前に、ガストン・ルルーの原作やアンドリュー・ロイド=ウェバーが提示した2つの”続き”について触れておきましょう。
ルルーの原作の結末
ルルーの原作では、〈怪人=エリック〉はオペラ座の事件からほどなく亡くなり、最初の記事で書いた指輪が重要なモチーフとなります。
私はクリスティーヌに誓わせた。私が死んだら、夜、スクリブ街の湖のほうから来て、こっそり私を埋葬する、金の指輪もいっしょに埋めるが、それまでは指輪は彼女がはめている。そう誓わせたのだ……私は彼女に、私の遺体を見つけるにはどうすればいいか、遺体はどう処理するか教えた
〈ペルシャ人〉がクリスティーヌに〈怪人=エリック〉の死亡を新聞広告を使って知らせる記述があり、ラストには著者(ガストン・ルルー)がオペラ座の地下で発見した人骨のくだりが出てきます。
遺体がはめていた指輪は、クリスティーヌ・ダーエが彼に約束したとおり、埋葬のまえに彼の指にはめてやったものにまちがいない。
その人骨は、あの小さな泉のそば、〈音楽の天使〉がクリスティーヌをオペラ座の地下へさらっていくとき、気を失った彼女を震える腕に初めて抱いた場所にあった。
2004年の映画の結末
ロイド=ウェバーが製作に全面的に関与した2004年の映画版も、指輪がモチーフです。
1919年、年老いたラウルがクリスティーヌの墓を訪れ、オークションで手に入れたオルゴールを供える。しばらく墓の前で物思いにふけった後に帰ろうとすると、ふと、墓の前にバラが供えられていることに気付く。バラにはクリスティーヌの婚約指輪が黒いリボンで結びつけられていた。怪人はまだ生きており、クリスティーヌを愛し続けているのであった。
ウィキペディア「オペラ座の怪人 (2004年の映画)」より
原作では死に、映画では生きている…という違いはありますが、〈怪人=エリック〉とクリスティーヌは、結婚というかたちでは一緒になれなくても、精神のうえでは(あるいは音楽のうえでは)一緒だったのであり、その象徴が指輪なのだ……という結末です。
「ラブ・ネヴァー・ダイズ」
ところが、まったく別の後日譚を用意したのが、アンドリュー・ロイド=ウェバーの「ラブ・ネヴァー・ダイズ」ーー2010年、英ウェスト・エンド初演のミュージカルです。
あのオペラ座での事件から10年後、ニューヨークへの逃れたファントムは、コニー・アイランドで興行主として新たな人生を手に入れたが、クリスティーヌへの愛だけは捨てられずにいた。自らの愛を成就させようと、癌トムはクリスティーヌ、彼女の夫となったラウル、そして彼らの息子グスタフを、マンハッタンから煌びやかなコニー・アイランドへと誘き寄せる。その先に待ち構えるものを知らずにやってきた3人は……。
「ラブ・ネヴァー・ダイズ」は、ウェスト・エンドでの公演が不評で、ブロードウェイの公演はついに実現していません。現在DVD/ブルーレイになっているのは、2011年のオーストラリア・メルボルン公演を撮影した新演出版です。
原作を読み、クリスティーヌのキスの意味を知ると、「ラブ・ネヴァー・ダイズ」の展開はどうにも違和感がぬぐえない…という人は、決して私だけではないのでしょう。
「結婚式の招待状が欲しい」
では、スーザン・ケイの「ファントム」はどうかと言うと、〈怪人=エリック〉が事件後ほどなく死ぬという原作をきちんと踏襲しつつ、原作を超えてエリックとクリスティーヌの愛を高らかに描いているのです。
オペラ座の事件から17年後、ラウルの一人称で進む「ラウール1897年」という最後の章では、クリスティーヌが〈怪人=エリック〉にキスをした後のことがこんなふうに書かれています。
「できるだけすぐ、彼女と結婚してもらいたい」エリックがゆっくり言った。「それに異存はないと思うが?」
まったく話が変わったのであっけに取られてうなずいた。
(略)
クリスティーヌが何かを言おうと口を開きかけると、唇に指を当てて見せ、黙るように指示する。
「お黙り、今はもう何も言うことはない。すべて手はずは整った。教会でお前を花婿に引き渡してやることはできないからーー当たり前だねーー今ここでしよう……」
エリックは「私は結婚式には行かないことにしている」と言うと、涙を流しながら「こんなこと言うのは失礼だが、君たちの招待状はどうしても欲しいんだ」と続けた。
「そうすると約束してほしいんだよ、お若いの。それから婚礼の前日、その招待状を持って来る時、クリスティーヌも一緒に連れて来てもらいたいんだが。決して長くは取らせない……だが、そうした日には、花嫁にキスさせてもらってもいいんだろ?」
けれども、クリスティーヌと一緒に逃れると、ラウルは約束を破った。用意した招待状を細かくちぎり、クリスティーナに向かって「僕があんな所へ君を連れもどすなんて、一瞬たりとも思ったとしたら、君はどうかしている!」
ひとり戻るクリスティーヌ
クリスティーヌはひとりエリックのもとへ戻り、後を追ったラウルがオペラ座の地下に着くと、〈ペルシャ人〉に制止された。隠れ家はめちゃめちゃに破壊されていた。
「エリックがしたんですか?」
ペルシャ人は陰気な顔でうなずいた。
「なぜ?」
「もうクリスティーヌは戻って来ないと思ったからです。彼が言うには、あなたは常識的な青年だから、戻ることを禁じて当然だと……もし自分があなたならそうするだろうと……。死んだ後、自分がこの世に存在した痕跡を一つも残したくなかったんです。ダーエ嬢の持ち物がおいてある向こうの部屋だけが、エリックの破壊できなかった場所でした。つい先日の発作の後、そのベッドに寝かせることに同意してくれました。自分の生まれた場所で死ぬのは一番都合がいいと言ってね。それでも仮面は外させてもらえませんでした」私は目を上げた。「本当に死にかかっているんですか?」
「いくら神のお恵みがあっても、そう長くはもたんでしょう」
(略)
「クリスティーヌは何時間くらいあの男と一緒にいるんですか?」
「昨夜やってきたときから。クリスティーヌは二人だけにしておいてほしいと言いました。私がその申し出を尊重したのは当然です」
「神の御前の証人になって」
〈ペルシャ人〉はクリスティーヌが部屋に入ったときの様子をラウルに語った。
「クリスティーヌは仮面を外して私にくれ、神の御前に証人になってくれと頼みました」
「クリスティーヌはエリックの額に口づけをしました。それからゆっくり、注意深く、まるで自分の唇が触れないところがないようにとでも言うように、何度も何度も口づけを繰り返しました。両方の閉じたまぶた、それから涙の流れた跡を唇でーー」
ラウルが自分は何をしたらよいかと尋ねると、〈ペルシャ人〉はこう答えた。
「エリックがあなたを信じて頼んだことをなさればいいのですーーあの子と結婚して、死が二人を別つまで大切にしてやるのです。エリックが一番恐れているのは、クリスティーヌがこの世にたった一人で取り残されることです。だからこそ、最後にはクリスティーヌが一緒にいてくれる気持ちになったのに、あなたと行かせたんですよ。シャニーさん、あなたのクリスティーヌへの愛がエリックと同じくらい強いなら、これを聞いた後でも変わらないはずです」
ラウルはエリックとの約束を果たし、エリックの死から17年後、クリスティーヌが癌を患って亡くなってから、ふたたびオペラ座をひとり息子のシャルルを伴って訪れる……という後日譚となっています。
「本当の伴侶」と結び直す指輪
スーザン・ケイの「ファントム」でも、指輪が重要なモチーフになっています。クリスティーヌの葬儀の場面です。
蓋を開いた棺が、一つだけの燭台の明かりにぼんやり浮かび上がった居間に戻ると、私は結婚指輪をクリスティーヌの小指にはめ、ネックレスを青ざめ、萎んだ喉元にかけ、二つの歌詞の抜粋を、目も眩むばかり白い内張りのサテンの間に収めた。それから薔薇の花びらを体中に撒き散らす……。
それをすますと、不思議に心が静まった。まるで、一生かかった探索の最後の行動を成し遂げたような気分だった。死が、クリスティーヌを本当の伴侶と結び直そうと決めるまでの十七年間、私は信頼をもってクリスティーヌを守ってきたのだ。
文中の「二つの歌詞」は、愛する人と共に地中に埋められる「アイーダ」と、「私の魂は御元に上り 共に憩うことを熱望しています」という「ファウスト」の一節のこと。まさに「死が、クリスティーヌを本当の伴侶と結び直」すのにふさわしい歌詞と言えます。
「ラウール1897年」で描かれる後日譚はこれだけではないのですが、これ以上のネタ晴らしは興ざめというものです。
ようやく無念も晴れました
Amazonのレビューをみると、こんなふうに書いている方がいました。
演劇を観て、
映画を観て、
原本を読んで、
どうしてもエリックの悲しい結末に納得できなかったのですが、
この本で、
ようやく私の無念も晴れました。
まったく同感です。「オペラ座の怪人」の世界に惹かれたなら、古本屋や図書館で探してでも、ぜひ読んでほしい一冊です。
いつか復刊されることをーー〈怪人=エリック〉の一ファンとしてーー心から願っています。
(しみずのぼる)
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